枯れ落ちていく ―2―
「俺は……誰だ?」
「……ここがどこか分かるか? 妾が誰か、覚えているか?」
思いがけないことを口にした旭に戸惑いつつも、八重は旭の肩に手を置いて語りかけるように言った。平静を装ってはいるが、八重の内心は心配で押し潰されそうなほどだ。
「ここは……
「……忘れたのは自分の名前だけか?」
「分からない……何を忘れたのかも……分からないんだよ」
焦点の合わない目で旭は戸惑う。頭を抱え、必死に記憶を思い起こそうとするが、喉の奥でせき止められるように思い出せなかった。
まるで、今までの出来事が最初からなかったみたいに、旭の記憶から思い出が消えた。何を忘れたのかもすら思い出せず、旭は奥歯を噛み締め顔を歪ませる。悪い予感がしていた。
突如として起きた記憶障害。もしかしたら自分は、忘れたことすら忘れているのではないか。そんな疑念と疑心が旭の不安を駆り立てた。
「お前は騎獅道旭だ。その口ぶりからして、自分が何者であるかは覚えているみたいだな」
「……旭……そうだ。騎獅道、旭だ」
「ふむ。状況の把握よりも先に、ここを離れた方がよさそうじゃな」
「同意だ。これが誰かによる襲撃なのだとしたら、早めに行動に移した方がいい」
国綱は手際よく焚き火を消し、移動の準備を始める。八重は絶えず旭に声をかけ続けていた。国綱が荷物の詰め込まれたバッグを肩にかけると、タイミングよくレオノールたちが獲物を狩って戻ってきた。
「ん、何事? なんかあった?」
「なぁ見ろこのウサギ! 丸くて美味そうだろう!」
「食事は後だ。今すぐ帰るぞ」
「……何があった?」
国綱の表情に違和感を覚えたレオノールが真剣な口調で国綱に問いかける。傍らで倒れ込む旭と国綱を交互に見て、レオノールは何となく状況を理解したようだった。
「旭は俺が抱えてく。1番早いしな。お前らはどうする?」
「荷物はダモクレスに。全速力で走る。なるべく早めに着くさ」
「ウサギ……飯は……?」
「ダモクレス、ここは空気を読むところだよ」
まだ元気そうに耳を動かす丸々と太ったウサギはうるうると目を潤わせている。ダモクレスはウミストラの言葉に黙って頷き、ウサギを肩に乗せて大荷物を抱えた。
「何が原因か分からない。対応は迅速に。頼むぞ、レオノール」
「あぁ、任せろ。安心安全で出荷してやるよ」
旭を背に背負い、レオノールは駆け出した。木々の間を縫うように駆け抜け、稲妻のように目にも留まらぬ速さで走る。
八重は旭が首にかけている殺生石に引っ張られるように、抵抗もできず移動する。唯一、八重は旭の記憶障害に心当たりがあった。危険な場面だったとはいえ、手を貸すべきではなかったと八重は後悔を噛み締める。
旭の身体を蝕む火傷のような死の刻印は、既に右半身を覆っていた。散々八重が釘を刺していたというのに、旭は八重の忠告を無視して”焔”を使ったのだ。記憶障害は、死の刻印の影響の可能性がある。
(傷を癒すことはできても、削られた魂を修復することなど妾にはできぬ……ましてや記憶など……)
八重が冷や汗を流し顔を青くしていると、全速力で走るレオノールが旭に声をかけた。
「なぁ旭、覚えてるか? お前と俺が初めてあった日のこと」
「……あぁ、ぼんやりと……だけどな」
「いくつの時だったかなぁ。俺ももう覚えてねぇや」
レオノールは、旭の記憶障害のことを伝えられていないはずだった。けれど、レオノールは本能的な何かで旭の状態を察したのか、初めて出会った日の思い出話を始めた。
「お前がいきなり雷で俺を攻撃してきて……朝までずっと喧嘩してたんだったよな」
「そうそう。2人して
「あぁ、そんなこともあったな……」
楽しそうに、旭とレオノールはいつの日かの出来事を思い出す。膨らむ会話が途切れ、沈黙が訪れた時、レオノールは静かで鋭い声で旭に言った。
「絶対、忘れんじゃねぇぞ」
「……レオ」
「俺が忘れさせねぇ。何回だって思い出させてやる。あの思い出を……大事な日々を忘れるなんて許さねぇ」
「……あぁ」
忘れてはいけない。極東で過ごしたあの日々は、忘れていいような取るに足らないものではない。3人の絆は、忘れていいほど軽くはない。旭の記憶に、忘れていいことなどは一つとして存在しない。すべて大切な思い出だ。
「とりあえず、叩けば治るか?」
「俺は機械じゃねぇぞ」
だが、旭はもう気づけない。1番大切な記憶は、とうに失われているということに。
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