第三章 天災級の魔物と老魔法使い

第21話 魔物狩人サークス


 黒々とした瘴気の中から飛び出してきた黒い獣頭の魔物を、サークスは一刀で切り捨てた。


 間髪入れずに身をよじって、背後から現れた魔物の攻撃をかわす。


 振り向きざまに浴びせた次の一刀で、その魔物の首が飛んだ。


 獣頭の魔物はどちらも並の冒険者にとっては相当に危険な相手だったが、サークスの敵ではなかった。


「魔獣の瘴気に惹かれたか、雑魚どもが」


 そう吐き捨てたサークスは、その瘴気の源がついに巨体を揺らして動き始めたのを見て舌打ちした。


「ああ、くそ。本体が動き出しやがった」


 サークスの前方、視界いっぱいを覆う漆黒の巨体。


 オオサンショウウオを思わせるつるりとしたその体は、サークスの背丈のはるか数十倍、大貴族の邸宅ほどに大きい。


 背のところどころに小さな突起のようなものが見えるが、この魔獣生来のものではない。


 それは、魔獣を狩ろうと勇敢に挑み、そして敗れ去っていった数多の冒険者たちが突き刺した剣や槍の残骸に他ならなかった。



 魔獣シンラバルラ。



 五つ星のダンジョンの奥深くに潜んでいてもおかしくない、危険極まりない魔獣だ。


 その爬虫類然とした青い瞳にはいかなる感情も映し出されてはいない。ただ茫洋と遥か彼方を見つめている。


 シンラバルラは、ただ壊し、ただ殺め、ただ喰らう。


 そこには、善も悪もない。意思のない、天災にも比肩する暴力。


 これほどの魔獣を、普通の冒険者が狩ることなど到底不可能だった。


 だからこそ、サークスのような男が挑むのだ。


 人の世界を揺るがす強大な魔物ばかりを専門に狩る、選ばれし高位の冒険者。


 すなわち、“魔物狩人”が。


 シンラバルラの腹が地面を擦る音がする。遮るもののない草原だというのに、まるで目の前で地崩れでも起きているかのような音だった。


「魔剣ラヴァノールよ」


 サークスはそれに負けじと声を張り上げる。


「俺に力を貸してくれ」


 彼の声に応えるように、魔力を帯びた長剣が強い光を放った。


「いけ、瘴気を打ち払え」


 サークスは魔剣を高く掲げる。


 魔獣シンラバルラの向かおうとしている方角には、スレッタという名の大きな街がある。


 このままこいつを行かせたら、何百人もの死者が出る。


 絶対に行かせてはいけない。魔物狩人サークスの名に懸けて。


 魔獣の身体を包んでいるどす黒い瘴気が魔剣の光で払われ、そのつるりとした身体が露わになった。


 サークスは逆手に剣を握ると、それをピッケルのように突き刺しながら巨体の上に駆け上がった。


 魔物狩人と呼ばれるだけのことはある、俊敏で無駄のない動きだった。


 そのまま、剣を魔獣の背に突き立てる。


 ぶしゅ、とどす黒い血が噴き出してサークスの身体を黒く染めた。


 魔物狩人は怯まなかった。何度も剣を振り上げ、突き刺し続ける。


 だがそのとき、シンラバルラが大きく身をよじった。


 まるで世界が一回転したかのような猛烈な反動に、サークスの身体は宙に浮く。


 魔獣の血に濡れた右手が、柄の表面でずるりと滑った。


「しまった!」


 とっさに伸ばした左手は、ギリギリのところで空を切った。


「くそっ!」


 愛剣を魔獣の背に残したまま、サークスだけが振り落とされる。


 魔獣が咆哮を上げた。


 魔剣の加護を失ったサークスの身体を、刃のような衝撃波がズタズタに切り裂いていった。



***



「ヘルート、見て」


 穏やかな風の吹き抜ける草原。


 まるで祖父と孫娘のような二人連れが、次の街に向かって旅していた。


 老魔法使いの隣を歩いていた少女カテナが、不意に遥か彼方を指差した。


「黒い霧」


 そちらを見やったヘルートが表情を引き締める。


「む」


 彼方の草原に、黒い煙が漂っている。まるで野焼きでもしているかのようだったが、何かが焼ける臭いはしない。


 黒い煙は、普通の煙のように空に上がっていくわけでもなく、そこに留まって漂っている。


 カテナが「黒い霧」と形容したのも道理だった。


「あれは、瘴気ですな」


「瘴気?」


 カテナもその意味に気づいて顔を強張らせる。


「魔物がいるのね?」


「人が倒れていますな」


 ヘルートはそう言うと走り出した。濃紺色のローブがばさりと翻る。


「カテナさんは後から来なさい」


 ヘルートは年寄りのくせに、本気を出すと矢のような速さで走る。少女の足ではとても追いつけないということを、カテナは彼との旅でとっくに学習していた。


「うん」


 カテナはそう返事をして、ぐんぐん小さくなっていくヘルートの背中を自分のペースで追いかけた。





 魔物が放つ瘴気は辺り一帯の植物を枯らし、土を腐らせ、異臭を放っていた。


 袖で顔の下半分を覆ったヘルートは躊躇うことなくその中に踏み込み、身を屈めて倒れている男に近づく。


 男はひどく傷ついてはいたが、まだ息はあった。


 鎧を着込んだその姿は戦士、おそらくは冒険者だろうと思われた。


 ヘルートは軽々と男を担ぐと、再び瘴気の外へと走り出した。





 目を覚ましたサークスが最初に目にしたのは、星空だった。


 頬に風を感じる。


 そこに微かな瘴気の残り香を嗅ぎ取ったサークスは、口元を緩めて苦笑した。


 どうやら死後の楽園じゃなさそうだ。ここは魔獣を逃がしちまったあの草原のままだ。


 身体を締め付けていたはずの鎧がなかった。脱がされているのだ。


 傍らで、ぱちりと薪が爆ぜる音がする。火を焚いているようだ。


「やれやれ、また目を覚ましちまったか」


 サークスは呟いた。


「どうやら神様は、そう簡単に俺を寝かせちゃくれないらしい。ま、いいさ」


 そう言うと、自らの右拳を持ち上げ、その甲に口づけする。


「いいぜ、やってやるさ。俺の力が必要とされている限りはな」


 ゆっくりと慎重に上体を起こしたサークスは、覚悟していた痛みがほとんどないことに気付く。


 シンラバルラの咆哮が作り出した瘴気の刃をまともに食らって、致命傷に近い傷を負ったはずだったが。


 サークスは、焚火の近くに座って自分を興味深そうに見つめている少女に顔を向けた。


「お嬢ちゃんが俺を助けてくれたのか」


「あ、うん」


 少女は頷く。


「私と、ヘルートが」


「感謝するぜ。それに、運がいい。あんたはこの世で屈指のいい男を拾った」


 サークスは少女に向かって片目をつぶってみせる。


「俺を助けたことであんたは、たくさんの人間の命を救ったことになる。百人か、千人か、それとももっとか、それは俺がこれから救う人間の数次第ってとこだがな」


 少女は微妙な表情で黙っているが、サークスは構わず続けた。


「こうして一命を取り留めた以上は、また戦わなきゃならねえ。仕方ねえさ、それが俺の生き方だからな。傷を負おうが仲間を失おうが、魔物を狩って、狩って、狩り続けて、そうして最後は前のめりに死ぬのさ。ああ、お嬢ちゃん。そんなに悲しむことはない。これが、俺の選んだ生き方、俺たち魔物狩人のプライドだからな」


「ねえ、ヘルート」


 少女は後ろを振り向いた。


「この人、頭打ってるみたい。さっきからずっと変なこと言ってる」


「カテナさんにはまだ難しいですかな」


 そう言いながら、ローブ姿の老人が焚火の向こうから近付いてきた。


「戦う男にはそういう背骨が必要なのですよ。たとえはたからはどんなに滑稽に見えようとも」




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