第39話 ファルコン・レイク
淡く優しい光を放つ画面には薄暗い湖畔と、そこで水死体のように無気力に浮かぶ少女が映る。
ピクリとも動かないその姿にカメラも意識も集中しきった頃、その少女が水面から顔を上げた。まるで今さっき泳ぎ方を思い出したように画面外へ泳いでいくと同時に、画面中央にタイトルが表示される。
『ファルコン・レイク』。
これは一生忘れられない夏の思い出についての物語。
もうすぐ十四歳になる少年バスティアンと幼い弟のティティ、そしてその両親は“ファルコンレイク”という大きな湖の傍にあるコテージで、親戚と共に夏休みを過ごすことになった。
そこには母の姉と、十六歳の従姉であるクロエが居た。クロエは母親に反抗的で、髪を染め、夜中にやんちゃな地元の仲間とつるむ、年頃の女子だ。
思春期真っ盛りなバスティアンは、最初はそんな彼女との距離感を掴みあぐねていたが、ノスタルジックで閉鎖的な田舎での暮らしの中で甘酸っぱくもどこか生々しい、異性としての交流を通して二人の関係は変化していく——というのがこの話の筋だ。
コテージに着いた翌日、クロエは親に言われてバスティアンとティティを湖へ連れて行く。そこで彼女は“湖の幽霊”という存在と、以前この湖で水死体が見つかったという話をする。
幼少期に溺れかけた経験から泳ぐことを恐怖しているバスティアンは、その話をホラ噺として聞き流せなかった。
結果として、“湖の幽霊”と“死”に関する話題は二人が仲を深める足掛かりとなる。
そのまた翌日、彼らは親たちに内緒でこっそりワインを飲んだ。
それはおそらく、バスティアンにとっては初めての飲酒、そして“いけないこと”だ。
——— ——— ———
『残り飲んで——ふっ、今度はたくさん飲んだね』
『洗ったげる。腕上げて』
『美容院のオープンでーす! アッハッハ!』
——— ——— ———
途中で遭遇した地元の男たちに対抗意識を燃やしたバスティアンは飲み過ぎて気分を悪くし、嘔吐してしまう。
そして介抱のついでにと、クロエの提案で二人は同じバスタブでシャワーを浴びることになる。
クロエの態度はバスティアンを“親戚の男の子”としてしか見ていないからこそ、という感じで、二人の間には温度差があることが分かる。
シャワーシーンは台詞ほとんど無いのに、バスティアンの動揺と興奮が視線の動きと表情でリアルに伝わってくる。それだけにその温度差が見ていて心苦しい——前回観たときよりも感情移入できている気がするのは何故だろうか。
「この子はこれから先ずっと、お酒を飲む度にこの日のこと思い出すんだろうな」
眩しいものでも観るように目を細めた黒江が呟いた。
「そう、かもなぁ」
「でも私このヒロインちょっと苦手かも。上手く言えないけど、なんとなく」
「マジか。俺はかなり好きだけどな、クロエ」
「——ねぇ、わざと?」
「あっ……いやマジで無意識、痛っ! ごめんて」
同名ということを失念して迂闊なことを言ってしまった。
左肩に飛んでくる弱々しいパンチを甘んじて受けつつ、じわじわと照れくささが上ってきて頬が紅潮するのが自分でも分かる。
「——わ、おばけ?」
その言葉と同時に方への刺激が止んだ。
この映画の肝である“不気味さ”の演出に体が硬直したらしい。
「いや、これはクロエ……だと思う」
画面には、家を抜け出して夜の湖で泳ぐクロエらしき女性とその異様な光景を陰から見るバスティアンの姿が映っている。
このシーンが何を意味するのか、何かの暗示なのかは正直よく分からない。この映画はそういうシーンが定期的に挟まるのだ。
実際そのシーン以降、黒江は喋ることもなく、画面に意識を飛ばしていた。
しばらく、すっかり打ち解けた二人の様子が描かれる。
地元の若者たちが集うパーティへ行ったり、湖の幽霊になりきって写真を撮影したり……そして自分の弱みを晒したり。微笑ましくもどこか怪しい、そんな関係。
『いいでしょ、言って。“一番の恐怖”は?』
クロエはバスティアンにそんなことを聞いた。この“一番の恐怖”が物語後半のキーフレーズとなる。
彼は唐突なその質問に戸惑いながら、下品なジョークで返答して誤魔化した。
そしてその夜、地元の男たちの元から帰ってきたクロエは、酷く落ち込んでいた。
——— ——— ———
『どうかしたの?』
『——どこにも馴染めない。一生独りぼっち……それが“一番の恐怖”』
『独りじゃない…………幽霊がいる』
——— ——— ———
弱々しく恐怖を吐露するクロエの姿は非常に痛ましい。
バスティアンは、おそらく「自分がいる」と言いたかったはずだ。でも言わなかった。いや言えなかった。
無邪気にそれを言えるほど子どもではなかったし、本当にずっと彼女の傍に居られるほど大人でもなかった。
『嘘つき』
もうすぐ夏休みの終わり、お別れの前日に二人は仲違いをしてしまった。原因はバスティアンの些細な見栄のためについた嘘。それがクロエにバレたのだ。それは彼女の心が離れるには十分な裏切りだった。
その晩、クロエがまた夜家を抜け出した。バスティアンはそれを追いかける。
そこには地元の若者が集っており、彼はそこに混ざることは出来たがクロエの態度は冷たい。そして彼女は、二人の“湖の幽霊”の話をバカにした男と一緒に湖に入り、キスをしていた。
そして、バスティアンは湖を泳ぎ出した若者たちの後を追いかけようとして——溺死した。
“湖の幽霊”になったバスティアンは、真っ先にクロエの元へ走る。二人の思い出が詰まった道をひたすらに走る。
彼女はいつもの場所でファルコンレイクをジッと見つめていた。
『——クロエ』
彼の呼びかけが聴こえたのか、それとも偶然か、彼女が振り向きかけたところでこの映画は終わるのだ。
「はぁ……」
思わず止めていた息を吐いた。
二度目だというのに最後の数分は文字通り固唾を飲んで見守ってしまった。
最初に観たときはかなり衝撃を受けたが、改めて観るとこのエンディングに向けた前フリが沢山あったことに気が付いた。本当によくできた映画だ。
黒江はどんな風にこの作品を受け止めたのだろう。終わり方には賛否があるだろうし、考察の余地がいくらでもある。こんな作品を黒江がどのように解釈しするのか非常に興味深い。
そんな期待を胸に彼女の方を向くと、彼女は両手で顔を覆って天井を見上げていた。
「だ、大丈夫か?」
ぎょっとしたが、彼女は「大丈夫、うん。大丈夫」と極めて落ち着いた口調だった。泣いているわけでも怒りに震えているわけでもないようだ。
しかし依然として姿勢はそのままである。今までこんな状態になることはなかったから流石に狼狽えてしまう。
一分ほどして、「……うん」という呟きと共に彼女は手を顔から離して正面、エンドロールに視線を戻した。
それからクッションの上で身体の向きをこちらに変え、堰を切ったように語り出した。
「なんていうのかな、上手く言葉にできないな。まず感動もしたし秀逸な話だとも思うんだけど、そう以上に凄く……私に向けられてた感じがして、名前とか関係なく。多分私しばらくはこれが頭から離れないんだろうなって、つまり——」
「喰らった?」
「そうっ! 喰らった。刺さった。ハマった……とにかくこの映画、私はずっと忘れないと思う」
ひとしきり溜め込んでいたものを吐き出してスッキリしたのか、黒江は恍惚とした余韻の溜息をついた。
そのまま名残惜しそうにエンドロールを眺める彼女の姿を見て、俺はじわじわと歓喜の衝動が湧き上がるのを感じた。
「……よしっ」
俺の喜びの声は彼女の耳には入らなかったようだが、別に構わない。
これは俺の密かな勝利宣言だ。
紛れもなく今この瞬間が、黒江ナナが映画沼にハマった瞬間だった。
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