第9話 婦女子の幸福とは

 アイリスは生真面目な令嬢として生まれた。


 アイリスはエフタル公が歳遅くして生まれた娘であり、間違いなく溺愛されていたのだが、彼女は周囲の環境に依存するような、甘ったれた令嬢とはならなかった。


 軍務に忙しい父は家にいることよりも、首都星か戦場にいることが多かった為、アイリスは母と兄たちに育てられた。


 母や兄たちの教えは厳しかったが、温かみがあり、教えも的確であったためにアイリスは聡明な頭脳をフルに生かせることが出来た。


 母は五年前に病死してしまったが、父と同じ軍人の家系の出身であり、公爵夫人として家を守っていた。


 常に背筋を伸ばし、決して動じることなく余裕をもって堂々としていること。


 そうすれば、どれほど最悪なことが起きたとしても乗り越えることができると、母は常々口にしていた。


 その教えを受けたアイリスもまた、どんなことがあっても動じることなく余裕をもって物事に対処していた。


 自分の成績の良さに難癖をつける跡取り息子達や、彼らの取り巻きの女子生徒たちなどに陰口や距離を置かれても、アイリスは平然としていられたのだ。


 アイリスは公爵家に生まれ、元帥の父を持った令嬢である。その立場にふさわしい能力を身に着けることに彼女は邁進していった。


 その結果、王立学園や大学も主席卒業と主席入学を果たし、当時まだ王太子だったアレックスの婚約者として、将来の王妃という立場にまで上り詰めた。


 父も兄たちも応援し、誉れであると褒めたたえてくれたが、アレックスは真実の愛とやらで婚約破棄を行い、比較にならないほどに格下の伯爵令嬢であるフローラに寝取られてしまった。


 婚約破棄を聞かされた時、父も兄たちも大激怒し、家の一部を破壊するほどに怒り狂っていた。


 同時に深く悲しみ、自分を気遣ってくれたことで、アイリスはこの婚約破棄に大しての をつけようとした。


 だが、本当に自分に非が無かったのだろうか?


 アイリス自身、即決即断というよりも深謀遠慮し熟慮する性格なだけに、アレックスの心をつなぎ留められなかった責任があったのではないかと思い始めるようになったのである。


「アイリスさん、お体は大丈夫ですか?」


 優しい国母の声に、アイリスは我に返った。


 ブリックス王国の王妃、ブリックス・ディル・レティシアは優しく微笑んでいた。


「はい、体調はすっかりよくなりました」


「心はどうですか?」


 決して咎めることなく、優しく語り掛けるレティシアにアイリスは目を逸らして頷いた。


「無理に気丈に振る舞う必要はありませんよ。今は、私とあなたしかいないのです」


 金髪の国母が優しく気遣うと、アイリスは何とも言えない気持ちになった。


「王妃様、いえ、レティシア様はどうして私に気遣ってくれるのですか?」


「私も、同じ経験がありましたので」


 笑顔のままではあるが、少し悲し気な表情でレティシアはそう言うと、アイリスはレティシアの過去を思い出した。


「確か、ハザール大公との……」


「ご存じでしたか?」


「ええ、すいません」


 レティシアは幼い頃にハザール大公世子との婚約が決まっていた。


 レティシアの父と先代のハザール大公は盟友であり、その縁から家族ぐるみでの付き合いがあった。


 だが、レティシアの実母が亡くなり、その後に父である皇弟が病に倒れると、側室から正室となった継母と異母妹にいびられてしまった。


「確か、今のハザール大公妃はレティシア様のご令妹では?」


「そうですね、私はあの子に婚約者を寝取られました」


 悲し気ではあるが、レティシアはどこか開き直っているように思えた。


「あの時は世界が終わってしまったかのように思えました。妹や、私を裏切ったギル……彼らを恨んでも恨み足りず、継母へも憎しみを抱きました。ですが、それ以上に容易く取られてしまった自分の不甲斐なさを呪いましたよ」


 自分も同じ気持ちを持つために、アイリスはレティシアの心境が分かるような気がしてきた。


「ですが、陛下とお会いし、夫婦としての生活を送るうちに自分に何の非もないことを理解出来ました」


「どのようにて、それを悟ったのでしょうか?」


「簡単ですよ。そもそも、私だけに落ち度があるわけではなく、ハザール大公にも責任があるからです。私と婚約を結んでいたにもかかわらず、私の妹と密通していた上に、私に嫌がらせをするような男や妹です。私がそんなことまで気に病む必要はありません」


 バッサリと冷静に、レティシアはフルーツジュースを飲みながらそう答えた。


「私に非があるというならば、正式に婚約破棄した上で、その後に妹と付き合えばよかったはずです。そんな知恵を巡らせず、倫理観もない者に大して気に病むなど、自分が悲劇のヒロインという立場に酔っていたかが分かります」


「レティシア様はお強いのですね」


「そんなことはありません。私は婚約破棄されその為に一矢報いることすら考えられなかった。あなたはそれを実行しようとしている。十分お強い方ですし、不義理を果たした王を討つのは当然の事だとすら思っています」


 ブリックスの国母にそう言われると、アイリスの心は少しだけ癒えていく。

 

 そして、レティシアもまた自分と同じ経験をしているからこそ、こうして優しくしてくれているのだと思うと、ぐらついていた自信が元に戻っていくように思えた。


「愚者は何故愚者だと思いますか?」


 唐突な質問にアイリスは即答できず、首を傾げる。


「反省をしないからです。反省とは、自らを省みるからこそできること。愚者はそれができません。だからこそ、彼らは愚かなことを行う」


 言われてみれば、アレックスもフローラも反省という行為には程遠い人物であった。


 アレックスは先代国王に甘やかされ、我がままで自分の思い通りにならなければ癇癪を起こし、アイリスに事務仕事をよく押し付けていた。


 フローラも成績と素行の悪さから、たびたび注意をされていたが、そのたびにヴァンデル伯が隠蔽するなどの工作を行っていたが、それを考えればつくづくあの二人はお似合いであったのかもしれない。


「一方的に婚約破棄され、悲しまない女はいません。ですが、今回の婚約破棄はどう考えてもあなたに落ち度はありませんよ」


 そう言われると、アイリスは瞳が熱くなるのを感じた。


 自分の目元から涙が流れていたことに彼女は気づく。


「傷つかない者などいませんし、傷つくなと命令することなど暴君の所業です。私も過去に傷つきましたから」


 自分のせいで、こうなってしまったという思いが無かったわけではない。


 父や兄たちも皆アイリスを庇ってくれた。


 アウルスもまた、自分を庇ってくれたがアイリスは自分の中にあった落ち度を探してしまった。


 自分に本当に非がないのかという気持ちが迷走してしまったのだ。


 冷静になって考えれば、レティシアの言う通りなのだから。


「アイリスさん、あなたは非常にしっかりとした女性です。自分の落ち度も素直に認められる高貴さと率直さを持ち合わせていますから。ですが、その気持ちも行き過ぎれば自分を追い込んでしまう」


「そうですね」


 レティシアの言う通り、アレックスが婚約破棄をするならば、自分を愛していないことを伝え、アイリスの父であるエフタル公にも話をするなど正式な手続きを取るべきであった。


 アレックスの言うは本物なのかもしれないが、同時にそれは正当性に欠けたでもあった。


「あなたのように、優しく賢く、慈悲深い方があんなろくでもない相手に悩むなど、時間の浪費でしかありませんよ。あなたが悩むべきことはたった一つしかありません」


 ややいたずらっぽく語る金髪の国母にアイリスもつられて笑ってしまう。


「私は何を悩めばいいのでしょう?」


「決まっております。あの二人よりも、幸せになることですよ」


 レティシアにそう言われ、アイリスは久しぶりに笑ってしまった。


 確かにその通りだ。


 あんな不義理を盛大に行えるような暗君と落第令嬢相手に罪悪感を抱くなど、あまりにも馬鹿げている。


「そうですわね。ですがレティシア様、私、復讐はやめません。ここまでの恥辱を受けたのですから、盛大に報復し、幸せになってみせます」


「応援しておりますわ。何かあったら、私を頼ってくれて構いませんからね」


 レティシアも優しく微笑みながらそう返すと、二人は盛大に笑い始めた。


 レティシアはアイリスが前向きになってくれたことに、アイリスは自分を気遣ってくれたレティシアに感謝を込めていたのであった。

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