婚約破棄の後始末

 ダリヤは新居となるはずだった家を出て、通りを歩き出す。

 少しばかり汗ばむ陽気の中、王都のレンガ色の街並みは多くの人々と馬車とで騒々しかった。

 この国『オルディネ』は王政で、すでに二百年以上の歴史がある。ありがたいことに平和で治世も行き届いており、法の整備もそれなりにしっかりしている。国の中でも王都の治安は特にいいと聞く。実際、若い女性が一人で街を歩けるほどだ。他国では考えられないことだそうだ。

 異世界ではあるが、二度目に生まれた場所として感謝したいところである。

 できればその幸運が、結婚運にも欲しかったところだが──少しだけ足を早め、ダリヤは大通りから一本外れた道沿いにある、青い屋根の小さな美容室へと入った。


「こんにちは。今、いい?」

「いらっしゃい、新婚さん! ついでにお昼も食べていきなさいよ」

 紅茶色の髪をした友人は、午前の客が終わったらしく、床の髪をほうきで掃いていた。

「ありがとう、イルマ。新婚さんじゃないけど、お昼は甘えさせて。あと、マルチェラさんはいる?」

「うん、台所にいるわ。片付けてから行くから、先にお昼、食べてて」

 ダリヤは慣れた足取りで美容室の奥にあるドアを通り、台所に進んだ。

「おう、ダリヤちゃんか。オレンジジュースでいいか? それともワインがいいか?」

 台所では、お目当てである運送ギルドのマルチェラが昼食をとっていた。

 砂色の髪を持つ、がっちりとした体型の男は、イルマの夫であり、ダリヤともそれなりに親しい。

 昼はよく家に帰って食事をしていると聞いていたので来てみたが、ちょうどよかった。

「ありがとう、マルチェラさん。オレンジジュースをお願い」

 ダリヤは、サンドイッチとオレンジジュースを受け取り、テーブルの向かいに腰掛けた。

 イルマが作るサンドイッチは、絶品である。

 今日のサンドイッチは、ライ麦パンにチーズとハム、卵と野菜の二種。ライ麦パンは大きめカット、チーズとスモークされたハム、レタスの取り合わせのバランスがとてもいい。もう一つは、卵と刻み野菜をたっぷりの新鮮なマヨネーズで合わせたものだ。

 両方のレシピをもらっているダリヤだが、なかなかこの味は再現できない。


 一つめのサンドイッチを黙々と食べ終えたとき、イルマが台所にやってきた。

 ダリヤはオレンジジュースを飲み干すと、昼食を食べ終えたマルチェラにきりだす。

「マルチェラさん、一昨日、家具を運んでもらったばかりで悪いのだけれど、前の家にもう一度運んでもらいたいの。なるべく早く」

「いいとも。今日の四時過ぎなら何人かあくよ。トビアスの用意した家具とかぶったか?」

「新居と寸法が合わなかったとか?」

 イルマとマルチェラから同時に聞かれ、つい苦笑してしまった。

「婚約破棄されました」

「は?」

「え?」

 またも二人同時に聞かれたので、ダリヤは今できる全力の笑顔で言ってみる。

「トビアス・オルランドさんは、『真実の愛』を見つけたのですって」

「………」

「………」

 二人の顔がそろって作り物のお面のようになった。

 お面といえば、こちらの世界ではあまりお面を見かけたことがない。王都には冬祭があるから、お店で子供向けにあってもいいのに。

 そういえば、王都の冬祭は恋人同士で行く、あるいは恋人を探すお祭りとして有名だが、トビアスとは一度も行ったことがなかった。自分から行こうと誘ったこともなかったのだけれど──ダリヤがそんなことを現実逃避気味につらつらと考えていると、目の前の二人が噴火した。

「あいつ馬鹿か!? 今日から新居だろ?」

「二年も婚約してて今さら!? 何考えてんのよ!」

「『真実の愛』ってなんだよ、単純に浮気だろ!」

「ホントに最低っ!」

 二人が怒ってくれるのがうれしいのは、自分の根性が曲がっているからではないと思いたい。


 ここ二年、この二人と、自分とトビアスの四人で食事をしたり、飲んだりしたことが何度かあった。四人で友人とまではいかなくても、それなりの付き合いはしている。

 マルチェラがオルランド商会の荷物を運んだときに、トビアスと二人で飲んだという話を聞いたこともある。そういった関係にヒビを入れてしまうのが、なんとも残念に思えた。

「二人とも、怒ってくれてありがとう。でも、もういいの。元々、父同士が決めた婚約だったし、その父も亡くなっているから」

 言いながら、突然、自分で納得した。

 トビアスは結婚によって、ダリヤの父というベテラン魔導具師の後ろ盾が欲しかったのだろう。

 ダリヤも魔導具師ではあるが、名誉男爵の位もなければ、制作技術はまだまだ父におよばない。

 彼にとってのメリットは、父が生きていたときよりはるかに少ないのだ。

 好きな女性ができたら、比重が一気にそちらに傾くのは当然かもしれない。

「ダリヤ、婚姻届はまだ出してないわよね?」

「うん。明日の予定だったから、まだ書いても出してもいないわ」

「運がいいと言うべきよ。ええ、そうよ、そんな男と結婚しなくてよかったわ」

 イルマは、ぶんぶんと音がしそうなほどうなずいている。

 トビアスからの婚約破棄に対し、もっと早く言ってほしいとは思ったが、確かに、婚姻届を出す前でまだましだった。

「……ダリヤちゃんを泣かせやがって……運び賃、色つけて全部あいつに回してやる……もう二度とあいつと飲まねえ……」

 泣いてはいないと言いかけたが、マルチェラの声が段階的に低く怖いものになっていたのでやめておいた。

「ねえダリヤ……無理しないでいいのよ。泣きたかったら泣いて。それとも一緒に飲む? 午後、店閉めるわよ」

「おう、鍵さえ預かればこっちで家具を運んでおくから、今日はここにいていいぞ! 新居でまたトビアスと顔会わせるのもあれだろ」

 イルマの赤茶の目と、マルチェラのとび色の目が、そろって心配そうにこちらを見ている。

 そっくりな動きをするこの夫婦が、ちょっとだけうらやましくなった。

「大丈夫。早く片付けてしまいたいから、今日のうちに商業ギルドに行って全部終わらせてくる」

「できることがあったら言ってね」

「いつでも来てくれていいんだからな」

「本当にありがとう、二人とも」

 礼を言ってから食べた卵サンドは、いつもより少しだけ塩味が効いている気がした。


 ・・・・・・・


 イルマの家で食後のコーヒーまでしっかりごそうになった後、ダリヤは商業ギルドに向かった。

 商業ギルドは大通りでも目立つ黒レンガの五階建て。通りに向かって三つの大きなドアがあり、人の行き来が絶え間なく続いている。

 国外からの来訪者も多く、色鮮やかなしゅう入りのマントを肩にかけた者や、頭にきっちりと布を巻き、長い袖と裾の衣装をまとった者もいる。建物に近づくにつれ、どこからか、香辛料と香水の香りが流れてきた。

 ダリヤは入り口の護衛に軽く挨拶をしてから中に入る。

 一階は主に依頼者の相談の場となっているので、そのまま用のある二階へと上がった。


「こんにちは」

 二階にある契約関連のカウンターにいるのは、若い黒髪の女性と、少しかっぷくのいい中年男性だ。魔導具関連の契約で何度も訪れているダリヤとは、すでに顔見知りである。

「あ、ダリヤさん! ご結婚おめでとうございます!」

「やあ、新婚さんですね、おめでとうございます!!」

 二人がこちらにとびきりの笑顔を向けてくるのが、ちくりと痛い。

「……お祝いの言葉を頂いたところ恐縮ですが、オルランドさんから婚約破棄されました。なので、婚約時の契約書を出して頂きたいのですが」

 ガタガタと椅子が揺れ、受付の二人が同時に立ち上がった。

 二人組に突然の婚約破棄を報告すると、シンクロする仕組みがあるのかもしれない。

「ど、どうしてですか?」

「婚約破棄の申し込みはオルランドさんからされたので、私からは」

 さすがにここで『真実の愛』に関する説明はしたくない。もっとも、それはトビアスの名誉のためではなく、そんな相手と婚約していた自分の名誉のためかもしれないが。

「オルランドさんからということは、オルランド商会に何かあったのでしょうか?」

「私の口からはなにも。これについては、あちらにお願いします」

「すみません。オルランドさん側の都合なのにダリヤさんに伺うのはおかしいですね。わかりました」

 男性はすぐに納得してくれた。

「それで、婚約破棄に関する取り決めの履行立ち会いと、共同名義での仕事を清算するために、公証人をお願いしたいのですが」


 公証人というのは、国が定めた各種の取り決め、商売関連の契約時の見届けや確認、そして証明を行うことができる人である。前の世界だと、行政書士や弁護士をとり混ぜた感じだろうか。

 身分もコネも一切通じない試験、専門機関での五年の勉強、十人の身元保証人がいるなど、なるのがかなり難しい。

 公証人になれたとしても、一度でも不正を行うと資格はくだつの上、厳罰に処されるし、身元保証人にも責任追及としてそれなりのペナルティがある、厳しい仕事である。

 余談だが、公証人に対してうその内容で手続きを進めたり、地位や金を使って公証人を悪用したりした場合、かなり罪が重くなる。

 公証人を頼む費用はそれなりに高額だが、仕事や商売でのトラブルを避けるために、立会人と共に入れておくことが多い。ありがたいことに、商業ギルドには常駐している公証人が数人いるので、他の人とかぶらなければ、すぐ頼むことができる。


「公証人は一時間で大銀貨四枚となりますが、よろしいですか?」

「ええ。私の方で出しますので」

 大銀貨四枚は、前世の感覚として約四万円。

 後々のトラブルを防ぐためと思えば、けして高くはない。

 王国の通貨は、半貨・銅貨・銀貨・大銀貨・金貨などだ。

 大体、銅貨一枚で主食のパン一個が買える値段なので、半貨は五十円、銅貨は百円くらいの感覚でいる。おおざっぱだが、銀貨は千円、大銀貨は一万円、金貨は十万円前後ぐらいだろうか。

 もっとも、食料品や生活必需品は安いが、服や貴金属は高めなので、あくまでダリヤの感覚的なものだ。

「できれば二時からの話し合いでお願いしたいのですが。もちろんご無理でしたら、こちらで合わせます」

「わかりました。確認してきます」

 男性の方が、公証人の待機する三階へと走っていった。

「あの、ダリヤさん、お引っ越しされたばかりですよね?」

「いえ、今日から新居の予定でしたが、このまま家に、『緑の塔』の方に戻ります」

 商業ギルドに登録している住所は、前の家である。

 街外れにあり、つたに絡まれまくった古い塔なので、『緑の塔』と呼ばれている。

 今朝出てきたその場所にこのまま戻るのだから、住む場所に困ることもない。

「なんて申し上げていいのかわからないのですけれど……その、気を落とさないでください。えっと、魔導具師のお仕事の方は続けられるんですよね?」

 目の前の受付嬢が、はげます方向に話をつなげようとしてくれている。

 気がつけば、カウンターの後ろの職員達も、こちらをうかがっているのがわかった。

「はい。また塔の方で魔導具作りを頑張ります」

「あの、ダリヤさんの魔導具はとても好評なので、これからもお願いできれば、ギルドとしてうれしく思います」

「ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いしますね」

 必死にフォローしてくれている受付嬢に向け、ダリヤはにっこり笑ってみた。

 うまく笑えているかどうかに自信はないが、少なくとも、婚約破棄で生きるのがつらいレベルのにはなっていないと思いたい。


「ダリヤさん、ドミニク様の予約がとれました」

 先ほど確認に行ってくれた、受付の男性が戻ってきた。

 父には『大切な交渉と大きな取引のときには、公証人は必ず入れろ』と教えられていた。

 ドミニクという公証人には、ダリヤだけでも今までに数回依頼している。父とも交流がある人なので、より安心してお願いできそうだ。

 ほっとしていると、周囲の視線がダリヤの斜め後ろにずれていく。

 振り返ると、象牙色の髪の女性が歩み寄ってくるところだった。

「こんにちは、ダリヤさん」

「いつもお世話になっています、副ギルド長」

 ダリヤは軽く会釈した。

 近づいてきたのは、商業ギルドの副ギルド長である、ガブリエラ・ジェッダだ。

 年齢的には熟年といっていいだろうが、つい視線が向いてしまうような女性だ。

 仕立てのいい濃紺のドレスに、バロックパールのロングネックレスがよく似合っている。

 父が若い頃から世話になっているギルド職員であり、ダリヤも学生の頃から知っていた。

「契約についての話し合いだそうだけれど、三階の会議室は予約が入るかもしれないから、この事務所の隣を使うといいわ」

「……ありがとうございます」

 『予約が入るかもしれない』ということは、本来、予約はないのだろう。

 この事務所の隣の会議室は、安全面を考えられた場所で、防音対策がほどこされていない。

 『ようするに全部聞かせろということですね、わかりました』の言葉は声に出さないことにする。

 だが、目の前のガブリエラは、朱色の唇をゆるりとつり上げ、さらにつけ足した。

「今日は皆、とても忙しいみたいなの。商業ギルドの立会人二人のうち、一人は私でもいいかしら?」

「……はい、よろしくお願いします」

 副ギルド長に対し、駆け出しの魔導具師の自分に拒否権などあるはずもない。

 ダリヤは迷わずお任せした。


 ・・・・・・・


 会議室にトビアスが入ってきたのは、二時ちょうどのことだった。

 部屋にはダリヤの他、ギルドの立会人と公証人がすでにそろっている。

 大きなテーブルをはさみ、トビアスとダリヤは対面で、その横に一人ずつ立会人が座る。公証人は席を一つあけて座った。

「これより、婚約証明の届けに基づく、契約の破棄手続きと共同名義口座の清算を進めさせて頂きます。ギルドより立会人は二名、副ギルド長のガブリエラ・ジェッダと、私、契約書管理担当のイヴァーノ・バドエルがつとめさせて頂きます」

 自己紹介をしたイヴァーノが、ガブリエラと共に軽く会釈する。ガブリエラはダリヤの隣、イヴァーノはトビアスの隣に座っていた。

「公証人は私、ドミニク・ケンプフェルがつとめさせて頂きます」

 白髪の老人も軽く会釈をした。

 ドミニクは商業ギルドに最も長くいる公証人であり、指名数は一番多い。

 ダリヤの父もトビアスの父も、いつもお世話になった公証人である。

「では、最初に契約の破棄のため、商業ギルドの受注における、お二人の共同名義口座を解消、清算させて頂きます。トビアス・オルランド様、ダリヤ・ロセッティ様の共同名義で預けられている分が金貨四十枚、こちらを全額、お二人に半分ずつ二十枚の返還ということでよろしいですね」

 ダリヤとトビアスが了承すると、イヴァーノは口座の記入書類の横に包みを広げた。

 それぞれの前に青い布が置かれ、そこに二十枚ずつの金貨が積み上げられる。

 この金貨二十枚で、おおよそ二百万ぐらいだろうか。今まで商業ギルドに登録していたオリジナルの魔導具の利益や、依頼品で作った物の売り上げなどだ。

 一般的には少し大きな金額に思えるが、魔導具制作は材料費や研究費がかかるので、どうしても多めの蓄えが必要になる。また、こちらの世界には保険などはないので、病気やのときの非常用貯金でもあった。

「では次に、婚約証明の中の、婚約破棄に関する内容です。『婚約破棄の原因となった方より、相手に対し、慰謝料として金貨十二枚』となっています。これはどちらからですか?」

「私からです」

 いつもの『俺』を『私』に変えて、トビアスが言う。

 続けて、『金貨十二枚か』と、小さくつぶやいたのが聞こえた。

 この慰謝料が安いと思っているのか高いと思っているのか、ダリヤにはわからない。

「では、ダリヤ様に十二枚となります。トビアス様、慰謝料を返却分から移動させて頂いてよろしいでしょうか?」

「はい」

 二十枚の金貨のうち十二枚が、ダリヤの方へ移動した。

「次に婚約期間中に新築した家屋に関する契約です。家の代金が金貨百枚、トビアス様五十枚、ダリヤ様五十枚にて購入。現在、名義は共同となっております。こちらは家を売却しての利益の二分割、または以後の所有を希望する側が、相手が購入時に支払った金額を返却することとなっています。これについては、いかがなさいますか?」

「私が所有を希望します」

 トビアスが当たり前のように言うのを、無言で聞く。

「わかりました。では、ダリヤ様に金貨五十枚をお支払いください」

 イヴァーノの言葉に、トビアスは目の前にある金貨八枚の横に、持ってきたかばんから金貨二十枚を並べた。そして、青い布ごと、ダリヤの前へ押し出してきた。

「ダリヤ、残りは少し待ってくれ。家の代金分が今、手元にないんだ。入り次第返すから」

「は?」

 間の抜けた声を出したのは、ダリヤでなく、トビアスの隣に座るイヴァーノだった。それを補うように、ガブリエラが言葉を続ける。

「お支払いが終わるまで、名義のご変更はできませんよ?」

「ええ、足りない分は、直接ダリヤに返していきます。ダリヤの了承があれば、役所で名義の変更は可能ですよね?」

「………」

 ダリヤは絶句した。

 どこの世界に婚約を破棄した女から、浮気相手と住む家の代金を借りようとする男がいるのか。

 しかもそれを陰でこっそりとお願いしてくるのではなく、商業ギルドで立会人と公証人をそろえた場で、さも貸してもらうのが当然のように言いきる馬鹿がいるのか。

 残念なことに、目の前にいるわけだが。

 今まで知っていたトビアスと、目の前の男がどうしても重ならない。

 同席していたドミニクが、二度ほど大きくせきをした。

「支払いのない状態での名義変更は大変トラブルになりやすいので、おすすめできませんが……いかがなさいますか?」

「名義の変更は支払い後でお願いします」

 ダリヤは当然、きっぱりと断る。

「それは困る! エミリヤに、すぐあそこで暮らすと約束したんだ!」

 沈黙があった。

 思わず言ってしまったことにろうばいしつつ、次の言葉が出ないトビアス。

 お前は何を言っているんだという疑問符が、くっきり顔に張りついたイヴァーノ。

 口元には美しい笑みを浮かべているが、目がまったく笑っていないガブリエラ。

 表情をまったく変えないまま、書類を指が白くなるほど押さえているドミニク。

 ダリヤはその様子を視界に入れながら、婚約中の悪くなかった思い出を、全力で脳内シュレッダーにかけていた。

「オルランドさんなら信用がありますから、商業ギルドでお貸しできますよ」

 最初に沈黙を破ったのは、ガブリエラだった。

 まだうろたえているトビアスに向かい、朱の唇だけがようえんに笑う。

 トビアスの名前ではなく、姓のオルランド呼びにしたのは、わざとだろう。

「今後のお仕事もありますから、毎月の分割でお貸ししましょう。新しい女性とお住みになるのであれば、『清算』はしっかりなさらないと、嫌われますわよ」

「……すみません、お願いします……」

 蚊の鳴くような声が聞こえた。


 ・・・・・・・


 婚約破棄の関連と借金の書類を書き終えると、トビアスは逃げるように部屋から出ていった。

 受付カウンターの隣にある会議室は、かなり声が通る場所である。

 先ほどのトビアスの話は、今夜には誰かの酒のさかなになるだろう。

 ダリヤは痛み続ける頭を押さえつつ、ようやく立ち上がった。

 そして、その場に残った三人に礼を言い、部屋を出ようとする。

「あの、ダリヤさん。こんなことを聞くのは失礼かもしれないですけど……」

 書類を束ねる手を止め、芥子からし色の髪の男が、小声で尋ねてきた。

「いえ、イヴァーノさん、どうぞご遠慮なく」

「トビアスさんて、前からあんなバ、いや、あんな人、でした?」

 『あんな馬鹿』と言いかけたのが、完全なる以心伝心で理解できた。

 ダリヤは、つい遠い目をしてしまう。

「私も今日、初めて知りました……」

「ええと、ダリヤさんは、大丈夫ですか?」

「なんともないと言えば嘘になりますけど……どうしようもないですし、もういいかなと。これから魔導具作りを自由にしていけると思えば、それで乗りこえられそうです」

 考えつつ言ったが、それが本音だった。

「ダリヤ嬢、お疲れ様でした」

 次に声をかけてきたのはドミニクだった。

「いえ、こちらこそありがとうございました。ドミニクさん」

「残念なことではありますが、気を落とされませんよう」

「ええ、大丈夫です」

「あなたのお父さんにはとてもお世話になりましたからね。私の方が先に逝く予定だったのに、先を越されてしまって、恩を返しきれていません。困ったことがあったらいつでも相談してください。公証人の依頼でなくてもね」

「はい、ありがとうございます」

「ダリヤさん、本当に困ったときは、自分一人で抱え込んではいけませんよ。お友達も、仕事仲間もいるのですから、必ず誰かに相談してください。もちろん、私も含めてですよ」

「はい……」

 ドミニクの低く優しい声に、つい父を思い出す。彼の心遣いが今は本当にありがたく思えた。


「これで手続きは終わったけれど、ダリヤさんはこれからどうするの?」

「一度新居に行って、家具を家に運んでもらいます」

「荷ほどきを手伝ってくれる人はいるの? 必要なら人を呼ぶわよ」

「いえ。今朝、出てきたところなのでそのまま戻るだけですから、簡単に終わります」

 ダリヤの言葉に軽くうなずくと、ガブリエラは大きくドアを開ききった。

 こちらをうかがっていた職員達が一斉に視線をそらしたのが、少しだけ笑える。

 ガブリエラはゆっくりと振り返ると、ダリヤに向かって優雅に微笑ほほえんだ。

「ああ、一つだけ言わせて。よき婚約破棄を、おめでとう」


 ・・・・・・・


 商業ギルドの一階に下りると、すでにマルチェラが待機していた。

 運送ギルドから来てくれた男性二人も一緒だった。

 三人とも、運送ギルド員であることを示す、鮮やかな緑の腕章をしている。「風のように早く軽く運ぶ」ので、この色なのだそうだ。

「ダリヤちゃん、手続きは終わったかい?」

「ええ。全部終わったから、すぐ行けるわ」

「じゃ、すぐ運ぶとするか」

 早速、新居となるはずだった家に、大きな馬車で移動する。

 ただし、馬車といっても、ひいているのは灰色の八本脚馬スレイプニルだ。

 馬よりはるかに力があるため、運送ギルドでの利用率は高いらしい。普通の馬の一・五倍ほど大きいが、思いのほか、温厚そうな顔と黒い瞳がかわいく見えた。


 馬車で移動すると、新居には数分で着いた。

 トビアスは新居の立地条件として、商業ギルドと自分の実家であるオルランド商会に近いことを重視していた。商品の輸送や打ち合わせを考えてのことだったが、自分にはもう意味がない。

 幸い家には誰もいなかった。ダリヤは少しだけほっとして、荷物と家具を確認する。

「廊下にある箱と、作業場にある箱と、前回運んでもらったものを、まだ荷ほどきしていないので、そのままお願いします」

 先週までは、ダリヤの家の作業場に、トビアスが来て作業をしていた。

 こちらの新居に来るにあたり、トビアスは機材をだいぶ新しくしたが、ダリヤは使い慣れている物がいいので、古い物を持ち込んでいた。こんぽうされた状態なので、そのまま持ち帰るだけだ。

「家具はクローゼットとドレッサーだったよな?」

「ええ、中にはまだ何も入れてないわ」

 クローゼットとドレッサーは、母の形見である。もっとも、自分は母の顔すら知らないので、父が大事にしていた家具という意識の方が強いのだが。

 どちらもダリヤの部屋になるはずだった場所に置いていた。

「わかった。梱包してある方はそのまま運ぼう。クローゼットとドレッサーは布を二重にかけてくれ」

 マルチェラの指示で、運送ギルドの男が布の準備を始めた。

「他に運びたいものはあるかい?」

「寝室のベッドは私が買ったものだけれど、塔にベッドはあるし……どうしようかしら」

「分解して運ぶか、売っぱらうかだろうな。トビアスに買い取らせてもいい」

 話しながら、寝室に向かった。

 トビアスの希望で大きめサイズのダブルベッドを買ったのだが、割といいお値段だったのを思い出す。

 ベッドのサイドテーブルのライトは、仕事柄の興味半分で、新型の魔導具で明度調整の機能が付いたものを注文した。どんな作りの魔導具かだけは確認しておこうと思い、ダリヤは寝室に入る。

「っ……!」

 一歩踏み込んだ途端、サイドテーブルを確認する間もなく、戻ってドアを閉めた。

 アイボリー系でまとめた寝具はすべてぐちゃぐちゃに乱れ、床には枕が落ちていた。

「ダリヤちゃん、どうした?」

「ええと、ちょっと……」

 後ろにいるマルチェラに、濁した返事をする。

「誰かいたのか?」

「いえ、その……今はもういないけど……」

「……悪いが、中を見せてもらってもいいか? 泥棒が入ったり、隠れていたりする可能性もあるから」

「あ、そうね」

 ダリヤはドアから飛びのいた。泥棒についてはまるで考えていなかったが、新居は狙われやすいとも聞く。警戒も確認も大事だろう。

「あの、私は入らなくてもいい?」

「ああ、俺が確認してくる。寝室の横に洗面台とトイレがあるタイプの部屋だよな?」

「ええ……」

 運送ギルドで、いろいろな家屋敷の間取りを知るマルチェラだ。説明しなくても大体の予想がつくらしい。

 彼は最初に耳をそばだてた後、金属棒を手に、警戒しつつ部屋に入っていった。

「……トビアス……あの大馬鹿野郎……いっぺん死んでこい……!」

 ドスの利きまくった声がドアの間から低く漏れたが、ダリヤは一切聞かなかったことにする。

「……馬鹿が一、二匹、部屋を荒らして出てったんだな」

 トビアスは、マルチェラの友人枠はもちろん、人間としてのカウントからも外されたらしい。

「ええ……鉢合わせしなくてよかったわ」


「すみません! マルチェラさんだけ、ちょっといいですか?」

「ああ、すぐ行く」

 出てきたマルチェラを、別の部屋で作業をしていた男が呼びに来た。

 運送ギルド内の話だと思えたので、ダリヤは廊下に積まれた箱をぼんやりと見ていた。

 思ったよりも荷物は少ない。新居が片付いてから運ぼうと思い、季節違いの服や本は元の家に残してきたが、正解だったようだ。

「あー、ダリヤちゃん、ちょっといいか?」

 廊下に顔を出したマルチェラだが、その表情がひどく暗い。鳶色の瞳が陰っていた。

「なにかあった?」

「すっごく言いにくいんだが……クローゼットに女物の服がかかってる」

「……早いわね」

「悪いが、確認してくれ。あれダリヤちゃんのじゃないよな?」

「ええ、間違いなく」

 淡い黄色のパフスリーブのドレスに、色とりどりの小花柄のストール。そして、レースたっぷりのピンクのガウン。デザイン以前にサイズだけで、ダリヤのものではないとすぐわかる。

 そもそも自分は、こんな系統の服は一枚も持っていない。

「あと、ドレッサーの方にあれが入っていたそうだ」

 マルチェラがテーブルを指さす。そこにはピンクの化粧ポーチと、白いハンカチの上、銀のペンダントがあった。平たい円形のペンダントトップには、見慣れない紋章が彫り込まれている。

 ダリヤはそれを見て、眉間にしわをよせた。

「これ、たぶん貴族ね。子爵以上の」

「男爵とかじゃないのか?」

「男爵に紋章はあまりないと聞いているわ。大型魔物の討伐で武器を授与したとかなら、それに刻印されるそうだけど」

 直接はふれず、ハンカチの端でペンダントトップを裏返してみる。古いので薄くはなっていたが、きちんと家名が刻まれていた。

「タリーニ……うん、お相手の物ね」

 トビアスの言っていた女の名は、エミリヤ・タリーニ。

 タリーニという名前は平民にもあるので、貴族だとは思っていなかった。

「あの、その紋章、タリーニ子爵家かもしれません。王都の南街道で、四つ先の街を治めています。僕の祖母が、そこの出なので」

 一人の声に、他の全員が微妙な顔になった。

 トビアスがこの家に連れ込んだ女性は、少なくともタリーニ子爵の関係者であり、それを知らせるためにペンダントを置いていった可能性がある。

「トビアスの野郎を捕まえてくるか?」

「いいえ。そのペンダントの持ち主はオルランド商会で働いているの。こちらはもう終わったことだもの。連絡するつもりはないわ」

「わかった。ちょっとかかるが、公証人を入れて、持ち帰る物を証明してもらった方がいい。貴族が関わる可能性があるなら、その方が安心だ。最初に運んできたものも、こっちで明細書を出しておく」

「ありがとう。ちゃんと頼むことにするわ」

 余分な出費が増えるが、トラブル回避のためには仕方がないだろう。

「公証人は運送ギルドから呼びますか? それとも商業ギルドの方がいいですか?」

「すみません、商業ギルドの公証人であいている人がいれば、呼んでもらえますか? 可能であれば、ドミニク・ケンプフェルさんをお願いしてください」

「わかりました。すぐお迎えに行って参ります」

 男が一人、馬車へと走っていった。

「ごめんなさい、皆さんにお手間をとらせてしまって……」

「恋人でも夫婦でも、別れるときには、家具と荷物でけっこうもめることが多いもんだ。公証人だってよく呼ぶし、俺達には手間でもなんでもねえよ」

「そうですよ。ロセッティさん、どうかお気になさらないでください」

 あきらかに気を使ってくれている男達に、なんとか表情を取りつくろう。それを見透かしたかのように、マルチェラが言った。

「ダリヤちゃん、なんなら公証人の費用はこっちでもって、トビアスにつけるぜ」

「いいえ、私が払うわ。なにか言われたら面倒だし」

「じゃあ、俺が『あの馬鹿の嫁にならなくてすんだ祝い』として出す」

「気持ちだけもらっておくわ。それより、塔に帰って落ち着いたら、イルマと一緒に夕食を食べに来てちょうだい。今度は私もしっかり飲むから」

「ああ、ぜひ行かせてもらう、いい酒を持ってな」

 トビアスと一緒のとき、ダリヤはグラス一杯までしか飲まなかった。

 彼はダリヤが酒を飲むのを好まなかった。『酒を飲んで女が顔を赤くするのはみっともない』、そう言われ、いつの間にか飲まなくなっていた。

 トビアス自身は飲んで気分が悪くなったり、酔いすぎてマルチェラに背負われて帰ったりしたこともあるのだが。

 今後は気兼ねなく飲めるのだから、街の酒場で、マルチェラとイルマと一緒に飲むのもいいかもしれない。


 ぽつぽつと雑談をしていると、先ほどの男と一緒に、公証人のドミニクがやってきた。

「ドミニクさん、さっきお手数をおかけしたばかりなのに、すみません」

「いえいえ、いつでも相談してくださいと言ったじゃないですか。お気になさらず」

 柔らかな笑顔のドミニクに、今回の引っ越しと、家具と荷物、自分の所有物ではない物について、一息に説明した。淡々と説明したつもりだが、周囲からの同情の気配が色濃くなっていくのが、なんともいたたまれない。

 しかし、ドミニクだけは顔色ひとつ変えることなく、家具と荷物の確認をし、あっという間に書類を作ってくれた。

「おいくらですか? 今、お支払いしますので」

「いえ、先ほどのお時間が少し余っていましたので、書類代の銀貨三枚でけっこうですよ」

「ありがとうございます」

 ドミニクに銀貨を渡し、改めて移動の準備をした。


 外の日差しは陰り、すでに夕方に近い。

 引っ越し用のこの馬車は、後ろに荷物を積む部分と人が数人乗れる座席がある。

 荷物を積み込むと、全員で後部に座って移動した。

 馬車と人とで混み合う時間になってきたため、来るときよりは時間がかかったが、十分ほどで商業ギルドに着いた。

「窓口経由で家の鍵を返すことになっているから、ちょっと行ってくるわ」

「俺が置いてこようか?」

「お疲れでしょう、お二人とも。鍵は私が持っていきましょう」

 商業ギルドの前で降りようとすると、ドミニクに止められた。

「いえ、ドミニクさんにそこまでして頂くわけには……」

「今行けば、好奇心旺盛な者に捕まるかもしれませんよ。ここは私に任せては頂けませんか?」

 確かに、ギルドに入った途端、顔見知りの者達から婚約破棄について、根掘り葉掘り聞かれそうな気はする。疲労感のひどい今、正直、それはものすごく避けたい。

「……すみません、お願いします」

「はい、確かにお預かりしました」

 ドミニクは鍵を預かると、少しうつむき、それからダリヤに視線をまっすぐに合わせ直した。

「ダリヤ嬢、こういうことを言うのは不謹慎だとは承知していますが、よい機会とよい選択だったと思います。あなたのこれからに、幸いが多いことを祈ります」

「……ありがとうございます」

 ダリヤは礼を言って、彼の背を見送るのがやっとだった。


 ・・・・・・・


 馬車でしばらく移動すると、王都を囲む高い石壁が見えてきた。そこに見えてきたつるくさに覆われた塔に、ダリヤはほっとする。

 緑の塔──知っている人にはそうばれる、古い石造りの塔だ。

 ダリヤは幼い頃から父とずっとここに住んでいた。

 父が亡くなってからは独りで住み、今朝、結婚のために出てきた場所である。

 この塔で暮らすこともできたが、トビアスは中央区の立地にこだわった。もっと多くの魔導具を作り、販売するには、商業ギルドや自身の実家である商会に近い方がいいというのが彼の言い分だった。

 塔の敷地の周りは、成人男性の身長より、やや高めの濃茶のレンガで囲まれている。

 その壁の切れた部分に、馬車が通れるほど広い銅色の門があった。

 ダリヤは一度馬車を降りると、門の一部に触れる。

 それだけで、門は左右にするすると自動で開いた。

「何回見てもこれ、便利だよな」

「運送ギルドの扉が、全部これだったらいいですね……」

 この門は、登録された者が軽く触れるだけで開く。倉庫の出入りでは厳重な扉ほど開閉に時間がかかる。運送ギルドの者からすれば、門自体よりも扉の自動開閉の機能の方が欲しいところだろう。

 王城や高位貴族の門でも自動開閉式のものはあるが、そちらは結構な量の魔石と管理人をおく必要があるそうだ。

 だが、ダリヤの知る限り、この門は特に魔石の供給をしたこともないし、管理もしていない。

 この門を設計、設置したダリヤの祖父は、設計図を残すことも口伝も行わなかった。仕組みと機構を確認するには門を一度解体しなければいけない。

 父はそのうちに解明しようと言いながら、その前に亡くなってしまった。

「これ作ったのは祖父なんだけど、設計図も何も残していなくて……もし、機構がわかって再現ができそうだったら、真っ先に運送ギルドに売り込みに行くわね」

「期待してる」

「心の底から待ってます!」

 真剣すぎる声に笑顔を返して、ダリヤは馬車を降り、塔の鍵を開けた。こちらは普通の金属の鍵である。

 そうして、荷物の運び入れがはじまった。

 運送ギルドの者は、魔法による身体強化を使える者が多い。ダリヤが持ち上げるのも辛い箱も、重い家具も、軽々と持ち上げて塔の階段を上る。少ない荷物はあっという間に運び終わった。

「これで全部だな。じゃ、サインを頼む」

「ありがとう、いろいろと……本当に助かったわ」

 作業確認の書類にサインをすると、運送ギルドの者達はダリヤに挨拶をし、馬車へ戻っていく。

 なぜか、マルチェラだけがその場に残った。

「今日の夕食がないだろ、うちに食べに来ないか?」

「ありがとう。でも、保存食もあるし、今日中に荷ほどきを終わらせてしまいたいから」

「……あんまり無理するなよ」

 門の前で見送ろうとすると、マルチェラが一度馬車に戻り、大きめの手提げを手渡してきた。

 麻布の手提げの中には、ダリヤの好きなクルミパンと赤ワインが入っていた。

「これ、ダリヤちゃんが家に来ないって言ったら渡してこいって、イルマが」

「ありがとう。本当にいい奥さんね」

「いい友達、だろ」

「ええ……」

 じわり、鼻の奥が痛くなる。

 だが、ここで泣いてしまったら、きっとマルチェラは無理にでも家に連れ帰ろうとするだろう。

 これ以上の迷惑は絶対にかけたくない。

 イルマは勘がいい。

 きっと自分が今日は塔にこもり、誘っても出てこないことを予想していたのだろう。

 イルマはダリヤのおさなみだ。元々はこの塔の近くの家に住んでおり、美容師になるために中央区で見習いをし、マルチェラと出会って結婚した。ダリヤが学院に行っても、イルマが嫁いでも、変わらずに接してくれる。それが、ダリヤには何よりありがたかった。

「さっさと片付けちゃうから。落ち着いたら、イルマと食事に来てね」

「ああ、そうさせてもらう」

 なんとか笑顔を作り、ダリヤは馬車を見送った。


 ここで座って落ち込んだら負けな気がして、ダリヤは荷物を片っ端から元に戻しはじめた。

 一階の研究室と倉庫に箱の中身を戻し、三階の自分の部屋、クローゼットとドレッサーに中身を入れる。

 クローゼットとドレッサーをそのまま使うのは気が引けたので、好きな香りのせっけんの封を切り、それをいくつか入れておくことにした。数日でお気に入りの香りがつくだろう。

 物に罪はないし、父が大切にしていた家具でもあるので、後は忘れることにした。

 荷ほどきと収納をすべて済ませると、すでに真夜中過ぎだった。

 ダリヤは二階の台所とつながった居間で、遅い夕食をとることにする。

 ソファに座って、ワインを飲み、クルミパンをかじる。香ばしいクルミいっぱいのパンは、赤ワインとよく合った。

 クルミパンを食べ終えると、非常用の保存食の袋から、ナッツとドライフルーツを出す。そして、続けて赤ワインを飲む。


 なんとも忙しい一日だった。

 引っ越した当日の新居で婚約破棄。ギルドで手続きをして、また塔に引っ越し。

 今日、一番驚いたのが、トビアスの浮気である。

 真面目な彼は、結婚したらそれなりにいい夫になるだろう、魔導具師としても一緒にやっていけるだろう、そう思っていた。情熱的な恋愛表現など一度もなかったけれど、これから共に穏やかに暮らせればと願っていた。

 だが、結婚前日、新居に浮気相手を連れ込むとは。いくらなんでも、許せることと許せないことがある。まあ、おかげで未練だけは完全になくなりそうだが。


「案外、泣けないものね」

 一応、失恋でもあるはずだが、涙がまるで出てこない。

 グラスのワインをがぶりと飲み、ドライフルーツをかじった。

 飲みながら、トビアスとの思い出をたどっても、魔導具について話したこと、一緒にした作業のこと、納品や見積もりの相談──それ以外が、まるで思い出せない。

 ああ、そうだ。

 自分はまだ、トビアスを愛していなかった。


 ワインを飲み終え、少しだけ涙がこぼれたのは、別れのせいではない。

 今はもういない、父のことを思い出したからだ。

 カルロがいたら、この場で二人で怒り、飲みまくって、その後は笑い飛ばせただろう。

 ちょっと気弱になってしまったのは、赤ワインの飲みすぎに違いない。


 ・・・・・・・


 ダリヤの翌日の目覚めは、最悪だった。

 門の外のベルではなく、塔のドアベルが繰り返し鳴っていた。

 門を開けられる人は限られている。おそらくは幼馴染みのイルマが来たのだろうと思った。が、眠い目をこすって出てみたら、そこにはトビアスがいた。

 深夜まで片付けをし、ワインを飲んで朝方寝たせいで、顔がぱんぱん、髪はぼさぼさである。

 朝早く来るなと思ったが、すでに太陽は空高く上がっていた。


「その……悪いんだが、婚約の腕輪を返してほしいんだ」

 それでなくても気分が悪いのに、元婚約者はさらに上乗せしてきた。

 婚約の腕輪。

 『婚約の腕輪』は、この国で基本的に男性から女性に贈られる、あるいは双方で贈りあう、前世での婚約指輪と結婚指輪を足したようなものだ。

 ただ、こちらの世界では少し意味合いが異なる部分がある。

 男性が女性に贈る場合、相手女性が二ヶ月以上生活できる値段のものを贈り、何か不測の事態があっても、腕輪を売ってしばらくは生きていける保険的な意味を含めている。婚約破棄となった場合でも、通常は受けとった側に所有権がある。

 婚約の腕輪をもらったとき、トビアスにあまり傷をつけないようにと言われたので、アクセサリーボックスにしまい、一緒に出かけるときだけつけていた。

 昨日は引っ越しだったのでぶつけるかもしれないからと箱に入れ、正直、今の今まで存在を忘れていた。


「……婚約の腕輪を返せって、あまり聞かないと思うんだけど?」

「すまない。エミリヤに婚約の腕輪を急いで作りたいんだが、時間と、その、いろいろゆとりがなくて……」

 この男と結婚しなくて心から良かった。

 新婚約者だか新妻だか知らないが、使い回しとはごしゅうしょう様です。ダリヤは内心で毒づいた。

「わかったわ」

 腕輪を売りに行くのも面倒くさい。金を請求するのも面倒くさい。

 本当に、心の底から、今、この男を見たくない。

「とってくるから、ここにいて」

 ドアを閉め、全速力で三階に上がる。

 部屋でアクセサリーボックスをあさり、婚約の腕輪とイヤリングをつかんだ。

 適当な袋に両方を入れると、そのまま戻って、トビアスに渡す。

「はい、腕輪。ついでにこっちも返すわ」

 トビアスのくり色の髪と、アーモンド色の目に合わせて作った腕輪。

 細身の金地に、茶が強めの紅玉髄カーネリアンを飾った、シックなデザインだった。それなりに気に入っていた。

 イヤリングは丸い一粒タイプの、橙紅榴石オレンジ・ガーネット

 この国では、恋人ができたときに、相手の目や髪の色などのペンダントやイヤリング、ピアス、指輪などをすることがある。前の誕生日にもらったものだ。仕事中はつけないように言われ、数回しかつけなかったけれど、今後二度とつけないのは確実である。

 受けとったトビアスが小さくうなずき、上着のポケットから白い小箱を出した。

「これは、返すよ」

 昨年の誕生日、彼からイヤリングをもらったとき、ダリヤはお返しに宝石を贈っていた。

 小さいけれど曇りのない、赤い輝きがきれいな紅玉ルビー

 トビアスに指輪にするか腕輪に仕立てるか考えさせてほしいと言われ、とりあえず石のままで贈った。けれど、それから一度も見たことはなかった。返された石は、なんの加工もされないまま、小箱で変わらずに光っていた。

 小箱を受けとりながら、ひどく笑えた。とうの昔にトビアスは冷めていたのだろう。

「……君を傷つけて、本当にすまない」

 トビアスが頭を下げる中、ダリヤは無言でドアを閉めた。


 喉の奥がひたすら熱い。

 自分が腹を立てているのか、悲しいのか、よくわからない。

 ダリヤは作業場の奥の制御盤で、トビアスの登録を消した。これで彼が門を開けることはできなくなった。ルビーの小箱は適当に棚の奥へ放り込んだ。

 次に浴室に駆け込むと、浴槽に水の魔石と火の魔石を利用した魔導具でお湯を入れる。

 服を脱ぎ、まだ少ないお湯につかりながら、何度も顔を洗う。

 もう、うつむかないと決めたのだ。

 トビアスのことで、泣く必要はない、その価値はない──そう自分に繰り返し言い聞かせた。


 少し落ち着いたところで、一度浴槽から出て、体と髪を丁寧に洗った。

 この王都では、台所に浴室に水洗トイレにと、水には不自由しない。水の魔石が安く安定供給されているからである。

 ダリヤが父から聞いたり、学院で習ったりしたところによれば、二十数年前、王家による「水の大改革」があったそうだ。

 『国のどこでも最低限の水には困らぬようにしたい』という王の言葉から研究が始まり、下水を管理していた子爵が水の魔石の大量生産体制を整えた。子爵は、その功績から伯爵に上がったという。

 今も、水の魔石の生産管理は、その伯爵家が主に行っており、その他にも、王都の下水から水の供給、浄水までを担っている。次の代になれば侯爵に上がるだろうとうわさされているほどだ。

 飲み水に不自由なく、望めば毎日風呂に入れ、トイレは水洗──前世が元日本人のダリヤとしては、本当にありがたい話である。


 再び浴槽に入りながら、ストックしてある水の魔石を観察する。大きさは手のひらに軽く四つ乗るくらいで、紺色のえんの石だ。一目で魔石とわかるカッティングがなされている。小さいが、これ一つで浴槽数杯分を供給する。大量生産のため、銅貨数枚で買える。

 魔法のあるこの世界では、いたるところに『魔素』があり、手順をふんで動かすことで、魔法が発動すると教わった。

 しかし、水の魔石そのものは、空気中の水分を集めているのか、それともまさに魔法的にどこからか水を転移させているのか、ゼロから生み出しているのか──そういったことの詳しい理論と検証はされていないらしい。

 学院で魔法科の教授にうっかりこれを尋ねてしまったとき、それはそれは熱心に研究室に勧誘された。

 ダリヤは今まで、魔物の素材と共に、火の魔石、風の魔石を使うことが多かった。新居のお金も手元に戻ったし、この際、水の魔石で新しい研究を始めてみるのもいいかもしれない。

 ふと、視界の隅にいつもの石鹸が目に入る。

 こちらの世界で何気なく使っていたが、この国、石鹸も石鹸水もあるが、泡石鹸のポンプボトルがない。仕組みは大体覚えているし、分解や組み立ての経験もある。魔導具ではないが、泡ポンプボトルがあれば、お風呂も手洗いももっと便利になるはずだ。

 今までどうして思い出さなかったのだろう。これは即行でメモしておかなくては──ダリヤはすぐに浴槽から出る。

 いつの間にかトビアスのことは、泡と消えていた。


 ・・・・・・・


 午後を少し過ぎた頃、ダリヤはイルマの美容室を訪れた。

 ドアをノックして中に入ると、ちょうど女性客が髪を切り終わり、帰っていくところだった。

「イルマ、昨日はありがとう。これ、よかったら夕食に食べて」

 ハムとソーセージの入った大きめの包みを、待合スペースにあるテーブルに置く。

「ありがとう、ダリヤ。遠慮なくもらうわ。でも量が多いわよ。夕飯はうちで食べていきなさいよ」

「うれしいのだけど、ちょっと仕事を片付けたいから、また次に誘って」

 ダリヤは言い終えて、ふと目の前の大きな鏡を見た。

 無造作にまとめただけの重いこげ茶の髪、化粧っ気のない疲れた顔に黒ブチの眼鏡。そんな暗い顔の女がこちらを見ている。

「イルマ、これからの予約はある?」

「今日はもうないわよ」

「お願いしてもいい?」

「もちろん。どんなふうにする?」

「ばっさりやっちゃって。あと……色も元に戻して」

 ダリヤの髪は、染めていなければ濃い赤だ。母と同じ色らしいが、確かめるすべはない。

 美しい朝焼けのような髪。かわいい紅花詰草ストロベリーキャンドルのような髪──子供の頃、面倒を見てくれたメイドに、そうほめられたことがある。正直、あまり気に入ってはいない。

 子供の頃は、父と同じ砂色の髪に憧れた。

 目は父と同じ緑だったから、髪も同じようになりたかった。

「思ったより長くなってるわね。どこまで切る?」

「作業中はまとめておきたいから、そのぎりぎりで」

 髪をほどいてみると、背中の中頃まであった。思ったよりも長い。

 店内の椅子に腰を下ろすと、イルマが髪に丁寧にブラシをかけてくれる。

「元々のカールがあるから肩より少し上……これくらいで切っていい?」

「ええ。あとは任せるわ」

 イルマはうなずくと、ダリヤに白いケープをかけ、手慣れた動作で髪を切りはじめる。ハサミの軽快な音が繰り返し響いた。

「ダリヤ、婚約してから、ずっと髪を伸ばしていたわよね」

「オルランドさんの希望だったから。髪は長い方がいい、落ち着いた色の方がいいって。長くなってからは、家で染めるのが大変だったけれど」

「元々の色の方が、肌に合ってきれいなのに」

「でも、赤って派手に見えやすいから……」

「ねえ、元々の髪の色が派手って、あたしは完全な言いがかりだと思うわよ」

 ハサミを休めぬまま、イルマは少しだけ口をとがらせた。

 ダリヤの長い髪が、次から次へ、磨かれた木の床へと落ちていく。

「うちに来る人で、婚約や結婚してから、地味に見えるようにしてくれって言うのは、たいてい婚約者か旦那さんの希望よ」

「やっぱり、仕事か家の都合が多いのかしら?」

「建前はそうだろうけど、あたしは違うと思う」

 イルマは少しだけ手を止め、鏡のダリヤと視線を合わせた。

 イルマの耳には、鳶色の石がついたピアスが光っている。マルチェラの目と同じ色だ。

「自分の女を地味にさせておきたいって、自分に自信がないからだと思わない?」

「そう?」

「きれいにしたら、他からとられるかもしれないって不安なんでしょ。男なら、自信を持ってどんと構えててほしいわ。それに、自分の女を信じてほしいじゃない」

「そうかもしれないわね……」

 ダリヤはうなずいた。

 だが、それは自分とまったく結びつかない。

 トビアスは、ダリヤをとられる心配など、まるでしていなかった。

 むしろ自分が男をとられた側になるわけだが、もう惜しいとも思っていないのでいいだろう。


 髪を切り終えると、店の端の洗髪台へ移動した。

 イルマは水の魔石と火の魔石でお湯を作り、染めていた色をとるための薬剤を溶かすと、ダリヤの髪を浸していく。その後、液体石鹸で二度、丁寧に洗い、リンスをした。

 つやだしの香油をつけ、風と火の魔石を使ったドライヤーで髪を乾かすと、肩先までの赤い髪がふわりと揺れた。


 前世そのままの『ドライヤー』という魔導具は、ダリヤが子供の頃、父が開発したものだ。

 正確には、ダリヤの父とダリヤの合作である。

 魔導具の勉強を始めたばかりの幼い自分は、風と火の魔石を使い、小型で温風の出せる機構を組んだ。父に内緒で作って驚かせようとしたが、習っていないため、出力計算がよくわからない。

 適当に作った結果、できたのはコンパクトながらも見事な『火炎放射器』だった。

 うっかり作業場の壁を焼き焦がし、普段温厚な父から大きな雷を落とされたのを覚えている。

 しかられた後、ダリヤは半泣きで、仕組みとやりたいことを必死に説明した。

 その後、理解してくれた父と二人で大いに盛り上がり、翌朝には髪を乾かすのに最適なドライヤーが完成した。ちょうど休暇から帰ってきたメイドに、幼い子供に徹夜をさせるとは何事かと、その後に父が怒られていたのもなつかしい思い出だ。


「よく似合っているわよ」

「ありがとう。軽くなって、すっきりしたわ」

 鏡の中、赤い髪の女が笑う。二年ぶりの艶やかな赤が、まだちょっと見慣れない。

「お客さんもちょうどいないし、コーヒーでも飲まない?」

 イルマの誘いにうなずいて、店から家の方へ移動した。


 ・・・・・・・


「引っ越しの片付け、手伝いに行こうか?」

「大丈夫。そんなに荷物もなかったから」

 イルマからコーヒーを受けとると、いつもは入れない砂糖を少しだけ入れた。

「昨日、マルチェラから大体聞いたわ。月並みなことしか言えなくて悪いけど、あんなの、別れて正解よ」

「そうね、私も別れてよかったと思うわ」

 ダリヤもきっぱりと言いきった。

「……今日、そのオルランドさんが塔に来たの」

「オルランドさん……そうね、もうトビアスなんて呼ばなくていいわよね。で、さすがに反省して謝りに? それとも、思い直したからやり直してくれとか?」

「いいえ。新しい婚約者に渡すから、婚約の腕輪を返してくれって」

「ばっ」

 イルマのコーヒーとテーブルが、大変かわいそうなことになった。

「ば、馬鹿、じゃ、ないの!?」

 むせながら怒るイルマに、ダリヤは慌てて背中をさする。

「ごめん! 飲み終わってから話すべきだったわ」

「いえ、それはいいけど、あの男、何考えてるのよ? ダリヤの腕輪をどうするの? 石を取って新しいのにつけるわけ?」

「そのまま使うんじゃないかしら。時間とゆとりがないのですって」

「それこそ馬鹿じゃないの! まさか、ダリヤ、返したの?」

「ええ、頂いたイヤリングもお付けして」

「両方とも売っぱらっちゃえばよかったのに。けっこういいお金になるでしょ」

 確かに、売ればそれなりにはなっただろう。

 お金は生きていくのに必要だ。家族なし、結婚予定なし、手に魔導具師という職はあるが、素材代と研究費がかなりかかる仕事なので、貯金はかかせない。

 だが、あのときは、とにかくトビアスとのつながりを即座に絶ちたかった。

「とにかく、つながりを切りたいとしか思えなかったのよ。もったいないかもしれないけど」

「まあ、もう顔も見たくないっていうのは本当よね。わかる気がするわ。ダリヤは魔導具師なんだから、頑張って働けばいいわよ」

 イルマはコーヒーを入れ直し、椅子に座った。

 カップに砂糖を入れ、ぐるぐるとかき混ぜつつこちらを見る。

 少しだけ、その目に暗い影が宿った。

「……ねえ、ダリヤ。トビアスの話、広めようか? 少しは仕返しになると思うから。うちのお客さんに言えばすっごく回るわよ」

「やめて。あれと婚約していた私のことも広まるじゃない。同情されまくるのも辛そうだし。もう今回の婚約は、私の『黒歴史』になったから」

「『黒歴史』……ふふ、うまいこと言うわね」

 前世での言い回しは、こちらでもうまく通じたらしい。

 イルマは笑いながら、ダリヤにも二杯目のコーヒーをいれてくれた。


「あんな男、さっさと忘れることよ。ダリヤなら、きっともっといい人が見つかるわよ」

 気を使ってくれる友人の言葉だが、どうにもうなずけなかった。

 次の恋愛、そして、結婚。どちらもぴんとこない。それどころか、ひどく面倒に感じる。

「もうその方面はいいかな……仕事の方が面白いし」

「ダリヤは本当に魔導具が好きだものね」

「ええ。いっそ魔導具師の道をきわめて、白髪ろうになったら若い弟子をとって、自分よりすごい魔導具師を目指させるとかもいいかなって思ってる」

「友人としては止めるべきなんだろうけど、なんか、それもかっこいいわ……」

 二人は時折笑いながら、夕暮れ近くまで話し込んでいた。

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