第16話 無機質な休暇の終わり

無機質な休暇の終わり 1

 人生で決して忘れることのない素晴らしい体験だった、とメリッサはまだ眠っているアルの横顔を見つめ、昨夜を振り返った。

 仮眠室の扉を開ければ朝の光が差し込む時間だが、彼はまだ眠るに違いない。長い時間をかけて前戯をしてくれた上に、3回戦もしてしまった。昼間は水泳もきっちりこなしたし、疲れたに違いない。

 好きな人に愛されるということが、どれほど幸せなことなのか。メリッサはそんな希有な体験を噛みしめる。まだ自分の身体の各所に彼のぬくもりと優しさが残っている。ロマンス小説では不感症で別れたり離婚したりしたヒロインが、ヒーローに巡り会って本当のセックスを知るというシチュエーションをよく見かける。彼女たちは口々に今までのセックスはなんだったのだろうと述懐する。ならば自分は最初から愛する人に優しくして貰えて、本当に幸せだったに違いないと思う。初めてなのにさほど痛くなかった。それはきっと長く自分を慰めているときに処女膜を破っていたからなのだろうが、アラサー女子としてはそれでいいのだと思う。それでもアルは丁寧に扱ってくれた。

 メリッサは半身を起こし、ベッドのヘッドボードにかけておいたアンダーウェアを身につけ、皺にならないようにハンガーにかけたドレスを手にそっと仮眠室を出る。

 外に出ると全面ガラスから入ってくる朝日が眩しかった。

 銀色のシルクドレスが朝日に輝き、2人でチークダンスを踊ったことが思い出される。とても遠い日の出来事のように思われるほど、昨夜の経験は貴重で、濃かった。

 自分の仮眠室のクローゼットにドレスをかけ、着替える。なるべく普通でいたい。なのでTシャツとデニムパンツにする。他に持ってきていないわけではないが、そうしたかった。

 彼が起きてきたらなんて声を掛けよう。

 そう考えるだけで、メリッサは自分の頬が熱くなり、秘所が反応するのが分かった。あまりにも感覚が敏感になっていた。それは彼のせいだ。

 さて、と気合いを入れ直してキッチンに赴き、朝食を作る。パンを焼き、簡単にサラダを作り、目玉焼きを焼いた。そして続けてコーヒーを淹れ、ヨーグルトを盛る。それらを打ち合わせテーブルに揃えて置いて、アルを起こしに行く。

「朝食の準備ができましたよ」

 扉を開けられて眩しい光が差し込み、アルは驚いたように半身を起こしてキョロキョロする。そしてメリッサをじっと見つめた。

「よく、寝た」

「よく、寝てらっしゃいましたね」

「ということは、夢じゃなかった、ということか」

「夢に見たことがあったんです?」

「何度か」

 アルは飛び起き、バスローブを羽織るとメリッサのもとに来て、優しくハグをする。

「こんな朝がくることを幾度となく想像したよ」

「はい」

 好きな人の体温と匂いはメリッサに心地よかった。

 さっそくアル自身が大きくなるのを感じ、メリッサはものすごく意識してしまう。

「あらあら。朝からお元気ですね」

「まだまだ君を抱き足りないらしい」

「まだちょっと擦れて痛いので、朝はダメです」

「じゃあ、今夜?」

「そうなるといいですね」

 メリッサは笑顔を作り、アルは安堵したように表情を緩めた。

 2人は朝食の席に着いて、イージーリスニングを掛けながら、食べ始める。何も凝ったもののない朝食でも2人で食べれば格別なものになる。

 片付けも2人一緒だ。幸せな時間だ。この時間がいつまで続くのか、メリッサは少し恐怖を覚える。休暇はあと12日あるが、この休暇が終わったとき、社長と秘書に戻ってしまうのではないかと考えてしまうからだ。そうでなければ激務をこなせないこともあるが、何よりもアルがこの関係をどこまで本気で考えているか分からない。

 夢を見ていた、と言っていた。夢の中で自分を抱いていたという意味だ。それはそれとして、夢が叶ってしまえばそれで十分だと考えることもあるかもしれない。

 メリッサは脳裏からその考えを消し去る。

 今はまだ考えなくていい。今はあと12日間をどう乗り越えていくかだけ考えればいいのだ。何故ならその12日の間にもアルが自分に飽きてしまうかもしれないから。セックスも上達しないとならないだろう。実践を経て反省と学習を続けなければならない。セックスにも飽くなき探究心が必要だ。

 洗い物を終えて、メリッサは水道の蛇口をキツく閉めた。

「さあ、ランチはどうしようか。またテイクアウトするか、一緒に作ってもいいし。また君の玄米サンドイッチを食べたい気もするし」

 アルの表情は明るい。暗い未来など欠片も考えていないに違いない。そうでなければ大会社の経営などできないのも間違いないが、それにしても明るい。それほどまでに自分を腕の中に抱きたかったのだろうか、と考えると照れる気がする。

「今日はお昼は何か作って、夜にテイクアウトにしましょうか」

「じゃあ、そうしよう。まずは食べる分のカロリーを消費しないとな」

 おそらくアルは早速プールで泳ぐつもりなのだ。寝坊したのでもう外の気温はかなり上がっている。泳ぐのに支障はない。

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