どんぐり

十四たえこ

どんぐり

 己の感性の鈍さに、驚くことがある。

 キンモクセイの香り、紅葉する木々、引っ張り出した長袖、いつのまにかホットを頼むようになったコーヒー。

 秋は確かに僕の生活に訪れているのに、僕の心には訪れていなかった。

 季節の移ろいに気がついたのは、通っている心療内科に、小さなクリスマスツリーの明かりがチカチカと現れた時だった。

 そういえば、という形で、先に述べた秋の風物詩を目にしていたことを思い出す。途端に、今は秋であるということ、つまり冬に向かって歩き出した世界は、夏には後戻りしないのだという実感が沸いてきた。

 

 「難しい血管してますねー」

 看護師さんは、右うでをしばり、こすり、左もみて、やっぱり右に戻り、あの手この手で血管を見つけ出し、ようやく針を突き刺した。僕は、それを隣で見ている先生に話しかける。

 「昔はお手本になるくらい刺しやすいって褒められていたんですが、何が悪いんでしょう」

 「不摂生でしょう」

 「食事と睡眠はとってるんですけどね。運動不足も、血管にきますか」

 「きますね。ストレス解消にもなりますし、少し運動した方が良いですよ」

 「何か考えてみます」

 全然その気は無いのに、上っ面で返事をした。ようやく落ち着いてきた生活に、新しい刺激が加わることは避けたい。

 春先に異動して、大した任務も与えられないうちから起きられなくなった。恨む相手でもいればわかりやすいが、敵になりそうな悪人は職場にはいない。慣れないうちは居ても仕方ないと早めに帰されたし、質問すればいつも誰かが手を止めて助けてくれた。

 僕の場合、ストレス源は、仕事ではなく出来ない自分自身なのだから、会社を辞め、実家に帰った今も予後は悪い。

 簡単な仕事すら出来ない自分が情けなくて、あれはこうすればできたんじゃないか、ああすればうまく行ったのではないかといつまでもいつまでも頭の中でこねくり回している。

 こねくり回す元気がある今はまだ良くて、少し前までは寝ることしか出来なかった。

 「来月のご予約をお取りしますね」

 「お願いします」

 心療内科は、カウンセリングをする場所ではない。元気ですか。ぼちぼちです。では検査しますね。お願いします。次回予約とりますね。お願いします。

 とはいえ、話を聞く体制がないわけではない。けれど僕は、初診の時から、自分の話が出来なかった。

 「仕事についていけなかっただけです」

 それ以上話すことはないと告げた時、「もっと自分を愛せればいいね」と先生は言った。

 なんだよそれって思ったことを覚えている。別に病気になったからって、僕は僕なりに生きてこれた自負がある。


 「何してるの? ちゃんと歩いて」

 帰り道で、道端にうずくまってる子どもに母親が言う。

 「どんぐり見つけたの!」

 子どもはどんぐりを握りしめて無邪気に答えた。

 違う。その何してるのは質問ではない。

 何見てるの? 何考えてるの? 何が言いたいの? 

 それは、あなたの行動はママが求めてることから外れてますよ。という合図だった。だから、

 「ううん、何も」

 全てを放り出して、そう答えるのが当然だと思っていた。

 僕は気づく。何も見てない、何も思わない、何も伝えたくない僕が、そうやって形成されたのだと。己の感性を無視して、母親に合わせていた。

 子どもは、どんぐりをポケットにねじ込むと、小走りで母親に追いついた。

 僕であれば、捨てなさいと怒られる前に捨ててしまう。僕であれば、ものに執着しない。僕であれば、もっと上手くできる。

 僕であれば、と思うのは、自尊心の表れである、と思っていた。僕は、軽くナルシストなくらい、自分が好きだと思っていた。

 

 愛の反対は、無関心だと、マザーテレサが言っていた。

 クリスマスツリーを見た時と同じように、見知っていたはずの情報が、ようやく胸に落ちた。僕は僕を愛してこなかったんだ。

 そうか、自分を愛するって、思ってたのと違うんだ。

 気づきは、暗闇に刺す一筋の光のようだった。

 「ううん、何も」としか答えない僕に、母はどう思っていたのだろうか。もぎ取った「良い子ね」は、賛辞だったのだろうか。

 今の僕の感じ方が適切か、僕は不安である。感性を磨いてこなかった僕の鈍さは、並大抵ではない。だけど僕は、僕の感じ方を受け止めてみることにした。

 捨てさせられているどんぐりを見ながらも、冬に向かう季節は、春に向かっているのだと、僕は感じている。

 僕は僕を愛する手がかりを手に入れていた。

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