8.立場が変われば見方も変わる(時には中国の立場になって考えてみよう)
思いがけず中国の話しが続いてしまったが、ついでにもう一つ中国関係の話をしたいと思う。
それは立場が変われば見方も変わるということだ。
何を当たり前の事を言っているのだと思うかも知れないが、案外これが難しいというか、そもそも立場を変えて考える必要などないという思い込みが世間には溢れている。
例えば、現在日本の一番の仮想敵国とえいえば中国ということになっているが、最近は物事に対して中国側がどう思っているのかを語るだけで「中国の肩を持つのか」「中国を擁護するな」と激昂する人がいる。
しかしこれは明確な誤りで、敵国であるからこそその国がどういう視点で何を考えているのかを考察する必要があるのだ。
最終的に和解するにしても戦うにしても、相手への理解があって初めて冷静で的確な対処が出来るようになるわけで、思考停止して相手の全てをシャットダウンしてしまうのであれば、黒船に驚き攘夷だと叫んでいた連中や、敵性言語だからと外来語を排除していた連中と何ら変わりがない。
さて、本題に入るが、中国・ベトナム・フィリピンに囲まれた海域に南沙諸島というところがある。
ここは近年中国が領有を主張し、本土から不自然に領海を伸ばしており、その形から「中国の赤い舌」等と呼ばれている。
この領海に関しては、恐らく日本人の見方はほぼ100%一致している。
それは「本来中国の領海でない海域に遠路はるばる出張ってきて欲張りにも領有を主張している」大方こんなところであろう。
その見方は正しい。我々西側諸国の人間からすればそうである。
確かに南沙諸島の、特に南部は明らかに中国本土よりフィリピンに近いし、西部も明らかにベトナムに近い。
これを武力に物を言わせてぐいっと横取りするのはどう考えて侵略行為である。
だからこの見方は正しいのだ、一面においては。
そう、あくまで一面においてはなのである。
それではなぜ中国がそもそも無茶をしてこの海域に舌を伸ばして来たのか、その理由を説明する。
現在の世界情勢は東西冷戦の対立構造をベースに変化し続けていることは自明の理であるが、この冷戦とその後の世界秩序は概ね核抑止力によって保たれてきた。
すなわち、核保有国同士が直接戦争を行った場合は核攻撃の応酬になりそう滅びる可能性が高い。
そうなっては誰も得をしないので大国同士は戦争しない。
そういう暗黙の了解の下に世界の秩序は保たれてきた。
その中で東西の大国は、より効率よく核攻撃・核反撃する技術を競い、相手を出し抜いて一方的に殲滅する方法を考え続けた。
しかしこの技術競争はイタチごっこであった。
ミサイル発射基地は固定されているから場所がバレるとそこを先制攻撃されてしまう、それに対抗してミサイル発射台自体を移動できるようにしたが、今度は飛ばす前に液体燃料を注入していると衛生カメラで見られて先制攻撃されてしまうようになった。
それにも対抗して固体燃料を予めセットしておいたが、今度は迎撃ミサイルを開発されて途中で撃ち落とされる可能性が出てきた。
そこで開発されたのがICBMである。
ICBMは一度宇宙に出てから目標に向かって落ちていくので、地面に対して水平に飛んでくる既存の線の動きのミサイルと違って、地面に対して垂直に点のように落ちてくるのだ。
その速度は地球の引力も利用しているので実にマッハ5に相当する。
とてもではないが通常火器では迎撃できない。
ここで双方が双方を滅ぼす手段が確立して、冷戦の膠着状態が決定した。
しかしそれでも大国は安心できない。
地上に配備した移動ミサイル発射台だけでは、本当にやられたあと反撃出来るのか心もとない。
ここで、更にどこから撃ってくるのか分からないミサイル発射システムが開発された。
それがSLBMである。
これは潜水艦の中から発射される核ミサイルであって、ただでさえどこにいるか分からない潜水艦からいつでもすぐにこっそり核ミサイルを発射できるというものだ。
さて、何故こんなにも長々と核兵器の話をしたのかというと、ここで南沙諸島の話が関係してくるからだ。
すなわち、南沙諸島にはアメリカがSLBMを積んだ原子力潜水艦を配備していたのである。
もちろんその照準は中国に向いている。
何かあれば中国を確実に焼き払うために配備されているのだ。
さあ、ここで立場を変えて中国の見方になってみて欲しい。
自国に隣接した海域に、航行の自由をたてに、自国をいつでも焼き払える敵国の潜水艦が潜んでいるのである。
この海域をなんとか封鎖したいと思うのは傲慢だろうか?
いや、中国からしたら至極当然の発想になるだろう。
なんせ、南沙諸島まで遠くに出張ってきている距離で言えば、アメリカのそれは中国の数倍なのである。
「わざわざ遠くに出張って来やがって」というのは中国こそ声を大にして言いたい台詞であることが分かるだろう。
私は何もだから中国の南沙諸島領有には理があると言いたいわけではない。
正義というものは多分に相対的なものだということが言いたいのだ。
そして、そういう正義の多面性を知らずに一方的にお互いの正義をぶつけ合う不毛さも知ってほしい。
つまりお互いに「俺達のほうが絶対正しいのに、あいつらは何考えているんだ!?」と思い合っているわけだ。
これでは手を取り合うこともまともに戦うこともできない。
孫子も「彼を知り己を知れば百戦殆からず」と言っているが、敵を知るということはこういうことである。
相手の見方も理解しなければ、何らの突破点も見えてこないのだ。
アメリカが真の意味で「航行の自由」を訴えるのであれば、自国の武力を南沙諸島から完全撤退させる必要があっただろう。
しかしアメリカにその気はないし、中国も一度軍事拠点化してしまった以上はもう退くことはない。
こういった相互不理解によってお互いはお互いを「悪」だと思い込んで事の本質を見失っていくのだ。
これは実に恐ろしいことである。
さて、ここでもう一つ見方を変える話をしてみようと思う。
前回中国崩壊論の話をしたが、現在の中国崩壊論のもっぱらのトレンドは不動産バブル崩壊に伴う経済破綻を根拠にするものである。
彼らの主張は要約すると、中国は不動産バブルをコントロールできずにバブルは崩壊、大手不動産が破綻するのを手をこまねいて見ていることしかできない。そしてバブル崩壊は他の経済にも負の連鎖を引き起こし、恐慌状態なって民衆反乱が頻発し最終的には内戦になる。
大体こんな感じである。
そうであろう、そうであろう。
我々資本主義陣営の民主主義国家からすれば、これは当然な見方である。
資本主義の自由経済ではバブルはコントロールできないし、富が国家ではなく民衆に属している民主主義国家では民衆の富力イコール国力なのであるから、民衆が貧しくなれば国はすぐに弱くなるし、当然その時の政府は民衆に支持されないので政変が起きるのだ。
しかしここでまた立場を変えて考えてみて欲しい。
まず社会主義は経済に無制限に介入できる。
社会主義は自由競争を保証していないし、そもそも国力の発展を自由競争に頼っていないのだ。
社会主義国は富を公平に民衆に分配するという建前上、国家権力を強大にして一度富を民衆から吸い上げざるを得ず、結果的にその富は民衆ではなく国家に属する。(そのため社会主義は度々その理想に反してこの構造を独裁者に利用され変節する)
なので、社会主義国家の発展は民衆が自由競争によって行うのではなくて、国家が掌握した富を必要と思う部分に投資して行うのだ。
だから社会主義は民衆が貧しいのにやたら軍事力は高いのである。
そして、これは逆に言えば国家が望まない発展は国家によって潰されることも意味する。
例えば、中国の大手不動産の倒産が取り立たされているが、実はそもそも中国政府は不動産の経営が苦しくなるように法改正してきている事を知っているだろうか。
中国は不動産バブルを抑制するために投資目的の居住しない不動産の購入には銀行にローンを組ませないように法改正したし(それでも投資したくてシャドーバンキングを利用する人はいたが)、これまでも一貫して不動産業を盛り上げる方向ではなくて取り締まる方向に舵を切ってきた。
つまり中国政府は不動産業を守って経済を守るどころか、積極的に不動産業を潰しにかかってきていたのである。
ではなぜそんな事をするのか?
中国の目下一番の問題は貧富の差である。
鄧小平の改革開放政策以降、中国はどんな汚い手を使ってでも金儲けができる人材が珍重されてきた。
いわゆる「黒い猫でも白い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ」というやつである。
その結果中国は世界でも稀に見る速度で経済発展を遂げたが、その副作用は甚大で、社会倫理が根っこからてっぺんまで腐りきってしまった。
下は木っ端役人から上は国家中枢の幹部までが腐敗し、更にその権力に資本家が群がり、悪代官と越後屋もびっくりの賄賂天国が出来上がってしまったのである。
つまり、単純に金を儲けられたやつは悪いやつで、貧乏人は清貧な善人、こんな構造ができあがってしまったのである。
しかも経済発展が頭打ちになってしまうとこの貧富の差が固定化されてきてしまって、もうこれから一旗揚げるような機会は滅多にない。
それで何もかも無気力になった若者(寝そべり族)等が流行り始めたのだが、コロナ禍を経てこの貧富の差が死活問題になってきた。
すなわち、「頑張ってもどうせ上を目指せない」という虚無感から「貧しい身分に固定されてしまう」という不満に民衆の感情が変わってきたのである。
ここで民主主義国家の政治家であれば、当然如何にして貧困層を底上げして貧富の差を埋めるか考えるであろう。なぜなら貧困層の方が数が多くなれば、それは票田として馬鹿にできないからである。
しかし、社会主義は違う。選挙などないのでガス抜きさえできれば良いのだ。
すなわち、民主主義とは逆に富裕層を苅り取って貧富の差を埋めようとしたのである。
アリババのジャック・マーが逮捕された話や、女優のファン・ビンビンが脱税で逮捕された話は皆さんまだ記憶に新しいだろう。政治家も薄熙来を始め有能とされてきた大物がたくさん粛清された。
こうやって有名な高所得者や大物政治家がスケープゴートに祭り上げられることによって、貧しい庶民は溜飲を下げるのである。なぜなら金持ちは悪いことをしているに違いないからである。
中国政府は現在この悪い金持ち狩りに躍起になっているのだ。
悪い役人も悪い資本家も悪いスターもどんどん槍玉に挙げられ、大部分の国民は喝采を上げている。
そしてそういった悪を退治する中国政府は正義なのだと国民に認識させるのだ。
こういったことから、「中国が貧富の差を埋められずに民衆の反乱を招く」などという指摘は的外れだということが分かる。
なぜなら、貧困層の底上げは難しいが、富裕層の頭切りは簡単だからである。
皆で貧しくなってしまえば不満もなくなるのだ。
後は食う事にさえ困らなければ命の危険を冒してまで立ち上がろうとするものは多くはない。
さて、しかしここで皆さんは疑問に思うだろう。
皆で貧しくなってしまえば中国は昔のように弱い国に戻ってしまうのではないか?と。
だが社会主義国家の富は民衆にではなく国家に属している事を思い出して欲しい。
あるいは中国政府はこう思っているかも知れない。
すなわち、「鄧小平以前の中国社会主義は富の分母が少なかったので、分配するだけの富力が足りず失敗した。しかし中国は30年に及ぶ改革開放政策で産業が発達し、富の分母をじゅうぶんに増やすことができた。既に中国は本当の社会主義国家を運営するに足る国力がある」と。
考えてみて欲しい。例えばこのまま中国の経済がバブル崩壊の負の連鎖で破綻し国民全員が破産したとして、その結果来るのは国民総生活保護状態である。
つまり、それこそ社会主義国家そのもの姿ではないか。
もし中国が一時の資本化を経て社会主義を実行する国力を得たと判断している場合、一番手っ取り早く資本主義を捨て去るには国民全員を破産させるのが一番の近道なのだ。
見方を変えるということはこういうことである。
中国のバブル崩壊は中国崩壊には繋がらないし、もしかすると逆に国家体制の強化の前段階なのかも知れないのである。
以前のソ連型社会主義経済は需要と供給を計算しきれずに大規模な物資不足や飢餓を招いた。
この予測不能な「いつ」「誰が」「どれぐらい」物資を必要とするかという問題には資本主義社会だけがニーズに対して過剰に物資を生産・供給することによって対応してこられたが、中国の産業も発展を経て、現在はかなり余裕のある生産・供給が出来るようになっているだろう。
そして現在はAIなどの助けもあり、ソ連型社会主義経済とは比較にならないほど正確に需要と供給を予測できるようになっているはずだ。
このように視点を変えれば今まで見えなかったことがたくさん見えるようになってくる。
今回は分かりやすい敵対者の視点として中国を例に取ったが、これは日常生活の人間関係も同じことである。
ムカつく上司も嫌味なお局様も、彼らの視点に立てば今まで見えていなかったことが見えてくるし、何らかの対処法が思い浮かぶかも知れない。
誰かと友好を結ぶにしても敵対するにしても、まず相手の視点を理解することが重要だということをこの文章から感じていただければ幸甚である。
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