第73話 ロペジア・アポカリプス#1
ルピナスにとって、この生産現場での管理監督業が、職業人としての黄金時代と言えた。
翌年、彼は同じ製罐会社の中の、設計部門へと異動になった。
この企業集団の新入社員は、ルピナスの1年目にあたる現場業務を2,3年こなしてから他部門へ異動するのが通例であり、
異例とまでは言わないにせよ、早い「出世」だった。
それは、1年目の彼の働きぶりを会社も見ていて、低からず評価していたことの現れだった。
内示を受けて、ルピナスは戸惑った。
取り組み甲斐のある現実の課題を次々と乗り越えて、全てが順調に回っていると実感する仕事への愛着があった。
強い連帯を感じるようになっていた馴染みの職工たちと別れて、別の職場に移ることへの寂しさもあった。
しかし、人の世に別離はつきもので、全てが順調に回っているのだとすれば、俺はこの作業場で出来ることは一定やり尽くしたのかもしれない。
何より会社は自分の能力を評価し、更なる活躍への期待を寄せてくれている。
それは若者にとって大きな喜びであり、何としてもその期待に応えなければならないと感じるものだ。
かくして、ルピナスはその異動話を
もっとも、自らの人事を差配する権限は、もとより彼にはなかったのだが。
多くの職工は彼の離任を惜しみつつ、その昇進を喜び、ささやかな壮行会を開いてくれた。
異動といっても同じ会社の中、製罐工場からは道路ひとつ隔てた、職工たちが呼ぶところの「事務所」であることも、
ルピナスが着任前に気を緩めていた理由のひとつだった。
しかしそこはあくまで、作業場とは別の職場だった。
ナッパ服に作業帽の職工が、コンベアーに沿って並ぶ各種工作機械に取り組む代わりに、
ワイシャツにネクタイ、人によっては袖カバーをつけた社員が、スチールデスクの書類や製図台の図面に向かっていた。
ここでの仕事の成果物はもっぱら、大小の紙面に書き下された文字や図なのだった。
作業場では聞かれなかった言葉だが、実物の製品を製造する製罐部の仕事を「下流工程」と呼ぶのに対し、
設計部の社員は自分たちの仕事を「上流工程」と呼ぶ。
本来は、製品に対する要求事項の整理 → 形状・寸法・材料・製法を決定する設計 → 実製品の製造
という連続を川の流れに見立てた時、左手が上流で右手が下流に該当する、という程度の意味合いに過ぎないが、
そこには暗に、清澄で滔々とせせらぐ上流に対して、雑多な塵芥を浮かべて淀む下流、とのニュアンスも多分にあった。
実際、作業場の職工のほとんどは初等学校卒どまりであるのに対し、
設計部の社員は中等教育校である職能開発校や、その上の、大学の基礎課程に相当する技師養成校を出ていることが、実質的な任用の前提となっていた。
彼らにとっては、名だたる大企業に正式雇用され、作業場ではなく
言うなれば軍隊において、士官学校卒業者とそうでない者では、出発点となる階級も、期待される任務も異なっているように、
同じ企業の被雇用者であっても、非正規雇用の、ひと山いくらの職工と自分たちを同列に見るなど、上流工程の「社員」にとっては、考えるだけでも不愉快極まりない侮辱なのだ。
内心に戸惑いを潜めつつ、ルピナスは作業服から背広に着替え、
この職場で自分に求められる役割と、自分がなすべきことを探った。
表面的には、監督する作業の成果物が金属から紙へと素材を変えたに過ぎないように見えた。
ルピナスもまた、最初はそのように信じていた。
しかし次第に募る違和感のあげくに、これは作業場の監督とは別種の仕事なのだと気づいた。
作業場職工の監督にはなく、設計部社員の管理者に要求される仕事、それは一言で言えば統合の概念だった。
自分の働きを、組織全体の成果や運営に統合してゆく感覚と所作だった。
作業場の仕事は、所与の設計があり、生産物には型式と基準が既定されており、ルピナスが行っていたのは、工程の円滑な運営とそのための改善活動だった。
そこではまた、作業者たる職工と監督であるルピナス以外の利害関係者が実質的に存在しなかった。
設計部から引き渡された設計が、実物の製品となって販売管理部に引き渡される営みに滞りがない限り、彼の仕事に注文をつける者も、報告を要求する者もいなかった。
「下流」と同種の抵抗を覚える言葉に「末端」があるが、比喩的にはまさしく、作業場は企業という大樹についた末端の一葉であって、
職工たちは一葉を構成するひとまとまりの細胞であり、ルピナスは葉と幹を繋ぐ
その比喩に倣うなら、設計部の管理者はいくつもの枝葉を繋ぐ結節点となることが要求された。
部下の作業管理に加えて、製品設計に関係する要求事項を、企画部門と連携してまとめ上げる必要があった。
実製品の製造に必要となる物品の調達、金型を制作する重工房への発注と検品、金属板をはじめとする原材料の、資材管理部への調達依頼、
その他多数の部署との連携の渦の中心に、設計部の仕事は回っていた。
それらの連携は、自明的に粛々と進行するようなものではなく、ルピナスが苦手とする、多角的な配慮を踏まえた折衝と調整を都度に必要とした。
そしてこれらのことを、明示的にも暗黙的にも要求された品質、経費、納期を達成する計画として立案し、決裁者である取締役の承認を取りつけなければならなかった。
それは容易な仕事ではなかった。
闇雲に品質を、あるいは生産性を、といった個別のパラメータを追求すればそれで良いというものではない。
個々の判断が企業組織に与える貢献、競合優位性、市場占有率向上、何よりも重要な利益の確保といったことが、十全に考慮し尽くされていなければならない。
それを踏まえた上で、実現可能であると具体的な根拠を持って計画されなければならない。
管理者の責任において、必要なあらゆる資源を確保し、計画を遂行しなければならない。
企業組織の体現者として、その利益に資する目的から、部下を指導し育成しなければならない。
それは、いち労働者、まして自然人格としてのルピナス以前に、組織人たる認識を要求し、
現場側の人間としての作業監督から、会社側の人間としての管理者への脱皮を促すものだった。
たしかに、作業監督よりも格段に高い視点、少なくとも抽象度を上げた俯瞰の思考が求められる仕事だった。
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