【鶴】


 ある朝。

 出勤する琴浪が玄関を開けると、鶴が居た。

 立派なタンチョウである。


 無言で見つめること十秒。

 琴浪は一度、誰が見ても分かる仕草で、持っていた鞄を振りかぶろうとした──が、途中で思い当たったように動きを止めると、生肉を振り返った。


「友達か?」


 なんとも呑気な質問だった。

 あんな存在が生肉の友達な訳がないだろうに。


 案の定、問いかけられた生肉は僕の足元で縮こまって震えている。

 背を撫でてやっても収まる気配はない。

 玄関で首を揺らす鶴が、ずっと喋り続けているせいだ。


『こんにちわあきょおもすてきなあさですねとってもげんきにすごせるさいこうのいちにちになるでしょう!きょーおもみんなさんがんばってみんなさんみんなきえてきれいになっておまえがすごせるさいこうのいちにちになるでしょうおまえがすごすためにみなさんみんなさんげんきにきれいにがんばっておまえがすごせるみんなこんにちわげんきですねあさですね!』


 人を模した声が、細い嘴からどろどろと零れ落ちている。

 言葉自体に意味があるようには思えない。

 それでも、明確に悪意だけは感じるから不思議なものだ。


 怯えた声で鳴く生肉に、琴浪は特に言葉をかけるでもなく、土足のまま冷蔵庫へ向かった。

 せっかく履いた靴を脱ぐのが面倒だったんだろう。琴浪は今朝、靴を履くという行為に十五分の気力を要した。まあ、それにしても、と思わなくはないが。


 空っぽの冷蔵庫から胡麻を取り出した琴浪は、首を揺らし続ける鶴にそれを与えると、ついでに持ってきた中華鍋とお玉を鶴の近くで五分ほどを打ち鳴らしてから、飛び立った鶴を見送ることなく、そして僕らを振り返ることもなく、扉を閉めて出勤した。


 残された部屋で、頼りなく鳴いている生肉とそっと寄り添う。

 もし生肉に尻尾があったなら、きっと丸まって股の間に入り込んでいたことだろう。かわいそうに。


 時間だけは有り余っているので、その後は丸一日、生肉を慰めて過ごした。


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