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 薄闇色の教室を、月の光が照らし出す。

 雲の合間から射した月明かりが、闇のカーテンに閉ざされた夜の世界を暴き出す。

 互いを庇い合う三人の少女。

 牙を剥いて後ずさる獣の少女たち。

 その間で対峙する、同じ造形をした、白と黒。服と髪の色が対照である以外、全く同じ姿をした二人のわらわが、陰陽となって静謐を湛えた教室で向かい合う。

 空に浮かぶ月だけが、静かにその行く末を見守っていた。


「さて、お主らをどうしてくれようか」


 白いわらわが口を開く。その声は担々と、しかしこの場の空気を抑え込むのに十分な威厳を感じさせた。

「わらわの姿など取りおって、無礼者め」

 冷たい怒気を孕んだ声色に、能面の表情を浮かべたままだった黒いわらわが忌々しげに唇を歪める。

「大方、祭りの熱に惹かれて迷い込んだ、どこぞの野狐やこの類いであろう」

「……!」

 きっ、と呪詛の込もった瞳で、黒いわらわが同じ顔をした相手を睨みつける。そこにあるのは、正体を見破られたことに対する怒りか、同族を嫌悪する感情の表れか。

 その様子に、わらわは鼻を鳴らして応える。

「不服か? じゃがな野狐、わらわはそれ以上に不愉快じゃ───故にその正体、暴いてやろう」

 わらわはそう言うと、人差し指をついと頭上に掲げる。

 そして唱えた。

「〈高提灯たかちょうちん箱提灯はこちょうちんおびただしくともし立て〉」


 ふっ。

 一瞬、教室に存在する全ての光が消えた。

 そして、


 ぼう


 と、教室中の蛍光灯が、赤く、ぼんやりとした光を放ち始めた。

 その光は蛍光灯が本来持つ白い照明のものではなかった。例えるなら祭りで目にする提灯や、ぼんぼりが放つ橙色の灯によく似た光。しかし視界を染める赤色は、そのどれとも違う、どこか妖しげな雰囲気を思わせる艶めかしさで教室を染め上げていた。

 そして、赤光が教室を包んだ瞬間、


「ぎあああああああああああああっ‼」


 耳をつんざく絶叫が辺りに響き渡った。

 それは黒いわらわの叫び声。同時に、床を這う少女たちが一斉に悲鳴を上げ、全身を掻き毟りながらその場にのたうち回る。爪の剥がれ落ちた指先が肌を滑り、少女たちの体に真っ赤な線を引いていく。身悶えするたび飛び散る血が、赤い光に包まれた教室にコントラストのしぶきを撒き散らす。

 突如訪れた阿鼻叫喚の様相に、マキは言葉を失い立ち尽くす。

 朱(あか)く。紅(あか)く。緋(あか)く。どこまでも赤に彩られた景色。今や目に映る全てが、白く輝く月の光に至るまでもが、血のように鮮やかで、墨よりも深い赤色に塗り替えられていた。

「…………!」

 口元を押さえて後ずさるマキの目の前で、苦悶の唸り声を上げる黒いわらわの表情が、ありえない形に捻じ曲がった。

 口が頬まで裂け、捻じれた眼窩から目玉が飛び出し、頭の造形が人ではないものに膨れ上がる。体を内側から沸騰させたようなその異様な変化はすぐに全身にまで及び、黒いわらわの体を、びくびくと蠢くおぞましい肉塊へと変貌させた。

 そしてその肉塊から、ずるりと音を立てて何かが這い出してきた。

 それはひどく年老いた狐だった。その体を覆う黒い毛は所々が焼け焦げ、血と肉と毛をまとめて燻した凄まじい異臭を放っている。老狐は影のように黒い体をずるずると引き摺りながら、憎しみに満ちた視線をわらわに向ける。

 気が付けば、黒狐の背後に倒れ伏す少女たちの体からも、煤のような影が溢れ出し、それぞれがやがて小さな狐の姿を形成していった。

「この灯の下では、何者も己の姿を偽れぬ」

 わらわが呟いた。

 生きたシチューを腐らせて煮詰めたような肉塊から這い出す、おぞましい狐たちを前に、わらわは静かに問うた。

「わらわはこやつらと同じか?」

 目の前の光景を呆然と見つめていたマキは、その問いが自分に向けられたものであると、少し遅れて気が付いた。

「……………………」

 マキは、隣に佇むわらわを見る。背けられた顔からは、その表情は窺えない。

 横顔を覆い隠す白い長髪が、赤い灯火に照らされていた。

「マキには同じに見えるのか?」

 再び、問う。血と肉と、吐き気を催す悪臭の充満する教室が嘘のような、小さな声。それはまるで、問いに対する答えを恐れているかのような、寂しい声色だった。

 そしてわらわは、血を吐くように言った。


「わらわはこのような獣ではない……友達じゃ!」


 風のような孤独が通り抜けた。

 火を失って揺れる孤独の灯。白い煙の残滓を纏う茫々ぼうぼうたる寂寞せきばく

 それらの感情が声に乗って、マキの心の中へ流れ込んだ。

「……!」

 その時、マキは全てを理解した。

 わらわの孤独と、悲しみを。

 わらわはずっと一人だったのだ。あの誰もいない世界を一人きりで漂っていたのだ。そんなわらわが誰かと関わる方法が、あの『おまじない』。『わらわちゃん』という手順に沿わなければ、わらわはマキにも、他の誰にも気付いてもらえない存在なのだ。

 儚いという言葉さえ濃密に思えるほどの、希薄で矮小な個。それがわらわという存在であり、わらわが過ごしていた無の世界なのだ。

 気が狂いそうなほどの孤独と絶望。その中で時たま自分を呼ぶ声に誘われた先で感じる、心からの安堵。だがそれも一時の安らぎでしかない。いずれ誰もがわらわを疎ましく感じ始め、ぞんざいに扱うようになり、そして最後には忘れ去る。そうして再びわらわは一人きりになり、いつ訪れるとも知れない声に焦がれて孤独に苛まれる。

 悲しみ。安らぎ。苦しみ。怒り。安息。孤独。絶望。

 空しく繰り返される徒労の感情。

 わらわは一体、何度同じことを繰り返したのだろう。俯くわらわにのしかかる重たい影からは、もはや想像さえ出来ない。

 友達という関係に拘ったのも、マキに疑われて腹を立てたのも、全てはそういう感情の裏返しだったのだ。今回こそはという希望と、どうせ今回もという諦念。その狭間で矛盾し続ける自分と、それでも逃れられない執着。

 そしてまた、今回も。

「………………」

 言葉にすることが出来なかった。わらわのために何か言ってあげたかったが、何を言えばいいのか分からなかった。

「……」

 だからマキは何も言わず、力なく垂れたわらわの手を、そっと握った。

「……!」

 わらわは一瞬、ぴくりと指先を震わせると、しばらく躊躇った後、ゆっくりとマキの手を握り返した。

「いいのか?」

「いいよ」

「………………そうか」

 相変わらず、わらわは顔を背けたままだった。ただ強く握られた手の温もりが心地よく、さわさわと素肌に触れる尻尾がくすぐったかった。

「では、あれをなんとかせねばの」

 瞬間、黒い影が唸りを上げてマキに飛びかかった。


 ───ばちん!


「!」

 塊のような影が音を立てて、目の前で弾け飛んだ。

「不届き者め」

 手をかざすわらわの視線の先で、黒い老狐が牙を剥いていた。その背後には煙のようにおぼろな姿をした子狐たち。皆一様に牙を剥いて喉を鳴らしている。

 狐たちは再び距離を詰め、一斉にわらわに襲い掛かる。

 だが、わらわが手を振るう度、狐たちは透明な力の塊に弾かれたように吹き飛ばされ、その身を引き裂かれていった。崩れ落ちた体はぐずぐずと不定形な影となり、すぐに新たな狐へと形を変える。そして巻き戻しのテープのように再びわらわに襲い掛かった。

「埒が明かんな」

 わらわは面倒だと言わんばかりに唇を尖らせる。嵐のように襲い来る狐の牙が、わらわに届くことはなさそうに見えるが、仮にこのまま続けたとしても、この果てしない状況が終わりを迎えるとも思えなかった。

「なんとかならないの?」

「『みち』じゃ」

 マキの問いにわらわが答える。

「こやつらは『道』を通じてこちらに来ておるのじゃ。それがある限り、いくらでも湧いてきおる」

「でもそんなもの、どこに……」

 そう言いかけたマキの背後で声が上がった。


「ありますよ‼」


 都だった。七尾の手を借りて立ち上がった都は、興奮した様子でわらわに問いかける。

「『道』を、塞げばいいんですね?」

「そうじゃ」

「分かりました」

 都はそれだけ聞くと、踵を返して言った。

「マキさん、七尾さん、行きますよ」

 都はそのまま返事を待たず、わらわの見えない力で吹き飛ばされた教室の扉をまたいで、廊下の向こうへと消えていった。

 未だに状況が飲み込めていないマキと七尾はしばらく、ぽかんとした表情で、都が通って行った扉を見つめていた。

「おい、はよう行かんか」

 二人は、はっと我に返ると、慌てて廊下に飛び出して都の背中を追った。


 背後からは唸り声と、机が吹き飛ばされる激しい音が聞こえていた。


         *


「わらわさんのおかげで、突破口が見えました」

 こちらを一瞥いちべつした都は、早歩きだった歩みを駆け足に変える。

 迷いなく廊下を走る姿は、明確な目的を持っているようだった。

「鏡です。あいつらは鏡を通して、こちらの世界に繋がっているんです」

 その言葉でマキは、黒い本にも鏡の記述があったことを思い出す。しかし、同時にマキの内で疑問が生まれた。

「でも待って、わらわちゃんが言ってた『道』が鏡とは限らないよ」

 確かに『道』と言われれば、真っ先に思いつくのは鏡だろう。だけどそれは単なる思い込みで、実際にわらわやあの狐たちをこちらに繋いでいるのは、お供え物の方かもしれないし、おともだちになった人たちかもしれない。『道』の正体を鏡と断定するのは、いささか早計ではないだろうか。

 しかし、都は言い切った。

「いえ、鏡で間違いありません」

 都には確信があった。鏡こそ、奴らをこちらの世界に繋ぐ媒体であるという確信が。

 あの時、都は見ていたのだ。絶体絶命の教室で、自分たちを助けたわらわが、どこから現れたのかを。

「手鏡です。わらわさんは、マキさんの持っていた手鏡から出てきたんです」

「そうか、その手鏡がわらわちゃんの『道』か」

 納得する七尾に、都は首肯する。

「ええ、同様にあいつらにも『道』がある。それを壊してやれば……」

「……!」

 言われてマキは気が付いた。自分たちが今どこに向かっているのかを。

 やがて三人は廊下を走り抜け、その先にある階段を駆け降りる。

 そこはつい先ほど、自分たちがおまじないを行った場所。


「踊り場の大鏡…………」


 誰ともなくそう呟いた。

 大鏡は普段と変わらぬ姿で鎮座している。しかしその周囲には、持ち寄ったお供え物が食い散らかされたかのように散乱しており、それに混じって、じっとりとした獣の臭いが充満していた。

 悪夢の残滓が漂う空気に、先刻この場で体感した恐怖が蘇る。

「…………」

 強く脈打つ心臓とは対照に、大鏡は闇と同化するような静謐さを湛えており、影との境界を曖昧に広がるその姿は、真っ黒な怪物が自分たちを飲み込もうと口を開けているようだった。

「……やるぞ」

 ゴトン、と七尾が廊下に設置されていた消火器を掴む。逆手に掴んだ消火器を握る手に、ぬるついた汗がじわりと滲んだ。

 不安はある。不確定な要素も多い。だが、対処不可能と思っていたところにやっと見えた糸筋だ。結果がどうなったとしても、やるしかないんだ。

 七尾は緊張を飲み込んで、消火器を振りかぶる。そしてそのまま消火器を鏡に叩きつけようとした、その瞬間───


「うわっ!」


 ───突然背中に強い衝撃が走り、勢いのまま七尾は床に倒れ込んだ。

 ゴン! と手から滑り落ちた消火器が鈍い音を立てる。背中の衝撃が、誰かに体当たりされたものだと気付くと同時、それは凄まじい声を上げて七尾に襲い掛かった。

「ぎいいいいいいいいいいいっ‼」

 美麗だった。人間とは思えない凄まじい形相で絶叫する美麗は、仰向けの体勢で防御を固める七尾に飛びかかると、華奢な体のどこにそんな力があるのかと思うほどの恐ろしい力で七尾を抑え付け、喉笛を噛み千切ろうと歯を立てた。

「うああああああああああああああっ‼」

 恐怖のままに絶叫した。必死に体を捻って、喉元に迫りくる牙を避ける。力任せの拘束から逃れようとする七尾の頭を、美麗が強引に鷲掴みにする。全ての爪が剥がれ落ちた血塗れの手から滴る、ぬるりとした血が顔中を汚してゆく。

 その悍ましさに恐慌の嵐が吹き荒れた。

 七尾は、今にも薙ぎ倒されそうな精神を総動員して、叫んだ。

「マキ──っ! やれ──っ!」

「!」

 意図を理解したマキが、弾かれたように動き出す。

 考えている時間はなかった。

 マキは床に転がる消火器を掴むと、大鏡に向かって勢いよく叩きつけた。

「─────────!」


 凄まじい破裂音が響き渡った。

 両手に痺れるような衝撃が広がり、鏡が破片となって砕け散る。まるで時間が止まってしまったかのような感覚に、頭が真っ白になる。 

 瞬間、


 ぐるん。


 と世界が反転した。

 突如として床と天井がひっくり返り、上下の境が消え去った。

 音と色彩が唐突に失われ、世界がモノクロに反転する。そんな単一の世界で、無音の音が耳鳴りのように響き渡る。

 まるで鏡とともに世界の在り方まで壊れてしまったかのよう。

 異様な感覚に体が平衡感覚を失い、思わずその場に倒れ込んだ。自己という存在すら曖昧な空間に投げ出されたまま、消えてしまいそうな意識をなんとか繋ぎ止める。

「ぎあああああああああああああああああっ‼」

 美麗が恐ろしい絶叫を上げていた。その体からは、黒い霧のようなものが沸騰した蒸気のように抜け出している。

 霧は次元の裂け目のように、ぱっくりと割れた鏡の中に吸い込まれていき、やがて小さくなる絶叫とともに消えていった。


 そして、世界が色彩を取り戻し、あの異様な感覚がどこか遠くに行ってしまったと気が付いた頃、マキはようやく全てが終わったのだと理解した。


  

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