第214話 閑話:とある少女の物語34




 どれくらい時間が経っただろうか。


 雨脚が弱まってきたことに気づき、私は再び空を見上げた。

 雨雲はまだ残っているけれど、ところどころに雲が薄い部分もある。

 もう少ししたら、雨は止むかもしれない。


 しかし、幾分かでも好転する空模様に反して私の心にかかる雨雲は厚いまま。

 どうやったら青空を望むことができるのか、見当もつかない。


 東の空から少しずつ夜に侵されていき、貧民街である南東区域に不似合いな街灯が、煌々と光を放ち始める。

 一日の終わりを感じさせる光景を目にしても、立ち上がる気力を取り戻すことができなかった。


(なんで、こうなっちゃったんだろう……)


 雨に濡れて冷えた体を抱き締めるように、膝を抱える。


 期せずして手に入れた二度目の人生。

 幼い私は、誰にも縛られず自由に生きることを願ったはずだ。

 誰かに踏みにじられるくらいなら、誰かを踏みにじることも厭わない。

 それくらいの気持ちでないと、望む未来は手に入らないと思っていた。

 

(私が望む、未来……)


 それがおぼろげにも形を持ったのは、いつの頃だったか。

 <火魔法>の才能を伸ばして好き勝手に暮らすというだけの私の未来図に、いつの間にか彼の笑顔が加わった。

 彼が英雄願望を持っていたことは、知っていた。

 幼い男の子らしい大きな夢だ。

 きっと冒険者や騎士などの職を望むのだろう。


 いつしか未来図は、成長した彼の隣で強力な魔法を使う私の姿を映し出した。

 それはとても魅力的で、そして十分に現実的だった。

 その未来図の実現を、私は疑いもしなかった。


「…………」


 ある日突然、私の未来図から最も大切な部分が抉り取られた。

 中央に大きく穴があいた私の未来図は徐々に色褪せ、ひび割れていく。


 まだ、間に合うはずだった。

 抉り取られた部分さえ取り戻せば、たちまち色彩を取り戻し、輝きを放つはず。

 諦めることなど、できるはずがなかった。


 望んだ未来図の崩壊を止めるため、私は全力を尽くした。

 何が何でも取り戻そうと、それだけを考えて4年間を過ごした。

 

 けれど――――見ない振りをしても、聞こえない振りをしても、現実は残酷だ。

 

「…………」


 私は目を閉じる。

 

 そこには、かつて思い描いた素敵な未来図の残骸があった。

 もう自分の力だけでその姿を維持することはできなくなり、砕け落ちた欠片を拾い集めて無理やり鎖で繋いだだけの歪なものだ。


 砕け散る寸前のそれから目を逸らし、私は戯れに新たな未来図を描いてみる。

 

 魔女との関係は悪化したとはいえ、修復不能というわけではない。

 彼を諦めて宮廷魔術師の務めを勤勉に果たしていれば、きっと悪いようにはならないと思う。

 魔女が引退した後は、私もある程度の自由を得られるはずだ。

 冒険者、騎士、役人、平民、貴族。

 恋も結婚も、よほど高望みをしなければ思いどおりになる。

 鍛え上げた<火魔法>さえあれば、私はどこでだってやっていける。


 そのはずなのに――――

 

「ふう…………」


 雑に描かれた新たな未来図は、どれも中央にぽっかりと穴が空いたものばかりだった。

 輝きを放つことなく、やがて灰色とひびが穴から全体に広がっていく。

 私はただ、それらが砕けて虚空に溶ける光景を見守った。

 不思議と喪失感はなかった。

 

(我ながら、どうかしてるわ……)


 私の未来は彼がいないと描けないらしい。

 彼に執着する想いが、魂にまで染み付いているのかもしれない。


 どうやら、もう手遅れのようだ。


(なら、もういいよね……)


 目を開けて孤児院の裏庭を眺めると、雑草の隙間におあつらえ向きの酒瓶を見つけた。

 割れた酒瓶の鋭利な切先は、下手な魔法よりもよほど上手に私の体を傷つけることができる。

 手首のあたりでも切って眠りにつけば、もう目が覚めることはないだろう。


 酒瓶に来いと念じてもこちらに転がってくるはずもなく、雨に打たれて少しだけ怠くなった体を叱咤して、よたよたと酒瓶のところまで足を動かした。

 しかし、雨に濡れたそれを拾い上げてみると、長い間風雨に曝されていたらしいその切先は、私が期待した鋭利さをすでに失っていた。

 こんなことすら思い通りにならないことに溜息を吐きながらも、どうしようかと頭を悩ませる。


(……どこかに叩きつけて、砕けばいいか)

 

 ぼんやりとした頭でも、多少の時間をかけてやればそれなりに働いてくれた。

 とはいえ、お世話になった思い出の孤児院に向かって酒瓶を振り上げるのは躊躇われたので、また都合よく石でも転がっていないかと雑草の中に視線を彷徨わせる。


 そんなことをしていたからだろう。


「そこで何してるんだ?」


 背後から声をかけられた。

 振り向くと、雨避けの外套を目深に被った男が立っている。

 街灯が逆光になっていて顔は見えないけれど、声の感じから若い男のようだ。


(本当に、思いどおりにならない……)


 孤児院の裏庭と路地を隔てるのは、腰ほどの高さもない頼りない柵だけだ。

 当然、私が裏庭でやっていることは外に筒抜けになる。

 雨の中、びしょ濡れで割れた酒瓶片手に呆けていた私は客観的に見れば間違いなく不審者で、声をかけられても仕方ない状況ではある。

 

 それでも、今は放っておいてほしかった。


「あなたには関係のないことよ」


 それだけ告げて、男に背を向ける。

 しかし、男の方は納得しなかったようだ。


「何か探し物か?そんな恰好じゃあ、風邪ひくぞ」


 私に近づき、それらしきものを探すように首を動かして見せる男。

 私の気持ちを全く汲んでいないお節介に、思わず舌打ちしたくなる。


「ご忠告ありがとう。でも、余計なお世話よ」

「そう言うなよ。俺がこのまま家に帰ったせいで、美人さんに何かあったら寝覚めが悪いだろ?」

「…………」


 男の行動に納得した。

 不慣れなせいで気づくのが遅くなったけれど、私は今、この男にナンパされているのだ。


(そういえば、今までナンパされたことはなかったわ……)


 幼い孤児に声をかけるのは人攫いか奴隷商くらいのもの。

 魔女の宿舎には少女しかいなかった。

 魔女の弟子として魔女に連れ回される頃には、貴族の子弟からの求婚は経験があるけれど、あれをナンパと一括りにするのは少し違う。


 ただ、そうなると――――

 

(この男、どう追い払ったものかしら……?)


 ずぶ濡れの若い女が一人きり。

 場所は揉め事が日常茶飯事の貧民街で、きっと助けを呼んでも誰も来てくれない。

 この男からしたら、私は恰好の獲物だろう。


 お持ち帰りされるつもりなどさらさらないので、どうにかして穏便に男を追い払いたい。

 炎を浴びせれば男はナンパを諦めるだろうけど、それは私がここに居ると喧伝することになる。

 どういうルートで私の情報が魔女に伝わるかわからない以上、それは可能な限り避けたかった。


 せめて最期くらい、自分が決めたとおりに迎えたい。

 それを邪魔されるのは絶対に御免だった。


「行く宛てがないなら家に来るか?ああ、部屋は余ってるから遠慮はしなくていい」

 

 対応に迷っていると、男はより直接的な言葉で私を誘った。

 誘うにしても、もう少しうまく誘えないものかと笑いたくなるような誘い文句だけれど、無視して肯定と取られても面倒だ。


「部屋数の心配はなくても、自分の貞操を心配しなきゃいけないでしょう?」

「え?ああ、えーと……」

 

 明確なお断りを口にしたことで、男の態度が少しだけ変わる。

 どうやら、この男もこういう状況に慣れていないようだ。


 このまま拒絶の言葉を並べれば諦めて立ち去るかもしれない。

 そう思ったところで、男に先手を取られた。

 

「まあ、そう取られるのも仕方ないし、下心が皆無かと言われると怪しいとこだが……。お湯で体を温めて、美味しいご飯を食べて、柔らかい寝床で一晩休めば、気分も落ち着く。いろいろ事情はあるだろうが……明日のことは明日考えるってのも、悪くないと思うぞ?」


 男は私が何をしようとしていたかを察しているようだ。

 気まずそうに言葉を探し、ぼそぼそと呟く。

 これまでの軽薄そうな雰囲気は鳴りを潜め、心から心配しているようなことを口にするので、私は困惑してしまった。


(もしかして、本当に私を心配して声をかけてくれたのかしら?)


 だとしたら、もう少し言葉を選んだ方が良いと思う。

 いや、下心もあると自白しているから、純粋な心配だけではないのだろうか。

 そもそも、心配しているように見せかけているだけで、やっぱり私の体目当てという線もある。


 ナンパ慣れしていなそうな男とナンパ慣れしていない私の間に、微妙な沈黙が落ちる。


 しかし、その沈黙は長くは続かなかった。

 

「…………ッ、動くな!」

「ッ!?」


 突然、男は私の腕を掴んで強引に抱き寄せようとした。

 変な雰囲気に流され、警戒を怠った私の体が男の方に引き寄せられる。

 咄嗟の抵抗も虚しく、私はあっけなく男の腕に抱えられた。


「ッ、離しなさい!」


 男は随分と鍛えているようで、腕力だけではどうやったって勝ち目がなさそうだ。

 けれど、私は何の力もない女ではない。


(このまま慰み者になるくらいなら!!)

 

 不埒者を消し炭にするために魔力を練り上げた私――――その目前を、ヒュッと何かが通り過ぎた。

 

「――――ッ!」


 驚き、体が竦む。

 それでも私の視線は、目の前を通り過ぎた何かを追いかけた。


 視線の先に見つけたのは、一本の矢。

 孤児院の裏庭に、黒く染められた一本の矢が突き立っていた。


「な!?どうし――――」


 私の頭が攻撃されたことを理解するのとほぼ同時に、どこからともなく現れた魔女の配下たち。

 気づけば、私と男は彼らに包囲されていた。


「男の方に用はない。その女をこちらに渡せば――――おいっ!?」


 私にとっては幸いだったのは、動きが早いのは魔女の配下だけではなかったということ。

 私を荷物のように小脇に抱えた男は相手の口上も聞かず、魔女の配下の一人を蹴り飛ばすと、そのまま包囲を抜けて一目散に走り出した。

 

「追えっ!」


 背後から男の怒声が飛ぶ。

 孤児院の敷地を抜けて正面の方に回ると、そちらにも魔女の配下が待ち構えていた。

 弓と短剣を構えた彼らに対して、私を抱えた男は物怖じもせず殴りかかる――――フリで相手を牽制しつつ、両者の間を巧みにすり抜ける。


 逃走中にもかかわらず、脱げかけた外套のフードを押さえる余裕さえあった。

 明らかに荒事に慣れた様子だ。


「何をしている!!絶対に逃がすな!!」


 一方、目まぐるしく変わり続ける状況に頭が追い付かず、私は混乱していた。


(どうして、私の居場所が……)


 魔女から受け取った服も装備も捨ててきた。

 もう魔術的に私を追跡することはできないはずだった。


 事実、私は誰にも止められずに魔導馬車で移動することができたし、この都市に来てからだって――――と考えて、ほどなく私は自分の誤りに気づいてしまった。


(ああ、違う……。最初からバレてたんだ……)


 私はきっと、最初からずっと追跡されていたのだ。

 もう魔術的な追跡はできないからこそ、今回で仕留めるつもりで泳がされていたに違いない。

 

 私が目指す場所を知っていたから。

 その場所で仕掛けた方が周囲に被害が出ないと理解しているから。


 都市に入ってすぐに仕掛けてこなかったのは、この都市を治めているのが派閥争いに関して中立の立場をとる大貴族だからだろう。

 自分の庭先で好き勝手されれば、誰だって面白くない。

 敵でも味方でもない貴族が治める場所だからこそ、下手なことはできないものだ。

 

 そして、今このタイミングで襲い掛かって来たということは、つまり――――


(辺境都市の領主と話がついた、か……)


 この都市は堅固な外壁に囲まれており、門は東、南、西にそれぞれ一つずつ。

 領都にしては珍しく通行税を徴収していないから普段は検問の類はなかったはずだけれど、封鎖しようと思えば実行は容易い。

 私は逃げ出したつもりで、自分から檻の中に入ったようなもの。

 正真正銘、袋のネズミというわけだ。


 小さく、溜息がこぼれた。


「……助けてくれてありがとう。でも、私を置いて逃げた方がいいわ。今なら多分、見逃してもらえるから」


 軽快に走り続ける男に声をかけた。

 私に声をかけた真意はさておき、矢から守ってもらった恩がある。

 このまま私と一緒に捕まってしまうのは、少しだけ心苦しかった。


 しかし、返ってきたのは呆れたような溜息だった。

 

「何言ってんだお前……。こんな状況で見捨てたら、後味悪いにも程があるだろ……」


 男は心底つまらなそうに呟いた。


「後味って……ふざけてるの?これは遊びじゃないのよ?」

「ちなみに聞くが、犯罪者だったりしないよな?大量殺人鬼とかなら流石に考えるが」

「……貴族のお坊ちゃんにケガさせちゃってね。私の上役がお怒りなのよ」

 

 こちらの話を聞かない男に少し苛立ちながらも、質問に答えを返す。

 言ってから、大量殺人鬼だと言ってしまえば話が楽だったかもと後悔した。

 あながち、それも的外れではないことだし。


「ああ、なるほどなあ……。こんな世界じゃ、美人に生まれるのも良いことばかりじゃないってことか」


 男は私が貴族にケガをさせたと聞いて、どうやら違う方向に勘違いしたらしい。

 面倒だからわざわざ訂正しようとは思わないけれど、そういう誤解をされるのは少々複雑だ。


 ただ、今はそんなことよりも、優先すべきことが他にある。


「ねえ、私はちょっと助けられたくらいでコロッと行くほど純粋じゃないの。そういうの目当てなら、悪いことは言わないからやめときなさい」

「まだ疑ってんのか……」

「違うの?」

「……9割くらいは善意だ。1割くらいは、下心もあるかもしれない」

「正直なのは良いことね。でも、死んだらもうナンパもできなくなるんだけど、それはいいの?」

「ああ、それは安心してくれ。あいつら全然戦闘に慣れてないみたいだし、武器の使い方なんてその辺のチンピラの方が上手なくらいだ。あの程度なら、すぐに振り切れる」


 男は自信を持って断言した。

 顔は見えない――それどころか私はまだこの男の顔を知らない――けれど、きっと得意気な顔をしていると確信してしまうくらいに、声が浮ついている。

 私の冷めた声音とは正反対だ。


「ああ、そういうこと……」


 そして、男が私を見捨てずにいる理由が明らかになった。

 なるほど、この男はひと当てした感触で魔女の配下たちを格下と判断したわけだ。

 自分が捕まるなんて夢にも思っていないから、こんな火遊びを続けよう思えるのだろう。


「なんだ?」

「弓とか短剣とか、使い方が下手だから格下だと思ったってことでしょ?」

「ああ、そうだ」

「なら、残念だけど見当外れよ。だって――――」

「見つけたぞ!!」


 私の警告が終わらぬうちに、魔女の配下の一人が私たちの前に立ちふさがった。

 手にしているのは、短剣でも弓でもない。


「あいつら全員、魔術師だもの」


 男は絶句し、魔女の配下が掲げた杖から<風魔法>が放たれた。



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