第209話 閑話:とある兄妹の物語1
僕たち兄妹が捨てられた日のことは、今でもよく覚えている。
『少しだけ、ここで待っていてね』
『うん、わかった』
それが母との最後の会話だった。
少しだけと告げた母は、二度と僕たちの前に姿を見せなかった。
僕たちが捨てられた日の夜は、その季節にしては少しだけ肌寒かった。
なるべく治安の良さそうな大通りの近くで、妹のローザと抱き合って暖をとったことを覚えている。
人目もはばからず泣きわめきたい状況で、それでも僕は必死に涙を堪えた。
僕がローザを守るんだ。
その想いだけが、僕を支えていた。
見知らぬ土地で、僕たちは二人きりになった。
僕たちが6歳になって間もない頃のことだった。
翌朝、藁にも縋る思いで衛兵の詰め所を訪ねた。
そこにいた大人たちは僕たちの境遇に同情してくれたけれど、やはり僕たちを助けてはくれなかった。
大人たちの一人が、この都市に孤児院があることを教えてくれた。
孤児院に行けば最低限の衣食住は面倒を見てもらえるから、飢えて死ぬことはないと言われた。
けれど、僕は知っていた。
孤児院のある場所は大抵の場合、治安の良くない場所だということを。
そして、そこに住む孤児たちが僕たちの味方だとは限らないということを。
僕が住んでいた場所にも孤児院があった。
そこの孤児たちはよく周囲に迷惑をかけていたし、孤児同士のいじめもあった。
自分たちの食料の分け前を減らす幼い新入りが歓迎されないことは明らかだ。
ローザもそのことを理解しているのか、孤児院に向かう足取りは重い。
それでも兄妹で孤児院の世話になるしか生きる道はなかった。
通りを行く人々に道を尋ねながら、何とか孤児院の正確な場所を聞き出した。
治安の良い大通りからスラム街の方へ少し歩いて、目的の孤児院にたどり着く。
建物の中から、僕たちよりも幼い子どもの泣き声が聞こえてきた。
ローザとつないだ手が、ギュッと握られる。
きっと大丈夫だから。
そんな根拠もない励まししかできない自分の無力を恨めしく思った。
僕がローザを守るんだ。
その想いを一層強くして、孤児院の玄関の扉を叩いた。
「よう、新入りか?」
声は背後から掛けられた。
振り返ると、僕より少し年上の黒髪の男の子が、興味津々といった様子で僕たちを眺めていた。
早速ちょっかいをかけられて、不安から体が強張った。
「そんな顔するな。親に捨てられたって世界が終わるわけじゃない」
僕たちの表情を誤解した少年は見当違いの慰めを口に出しながら、ローザに手を伸ばした。
気づいたとき、僕はその手を払いのけていた。
僕の手が少年の手を叩くパシッという音が、孤児院の庭に響く。
やってしまってから後悔した。
もっと穏便な方法があったはずだ。
この少年が孤児院でどういう立場にいるのかわからない。
僕のせいで、これからの厳しい孤児院の生活がさらに厳しくなる可能性だってある。
怒鳴られるかもしれない。
殴られ、蹴られるかもしれない。
この場は何もなくても、これから陰湿な嫌がらせを受けるかもしれない。
僕の行動に、少年はどのように反応するか。
僕は戦々恐々としていた。
けれど――――
「妹を守ろうとしてるのか?良いお兄ちゃんだな。でも、そんなに気を張ってると疲れるぞ」
その少年の言葉は、僕が予想だにしていないものだった。
ローザへと伸ばした手は僕へと向かい――――そして、僕の頭をくしゃりと撫でる。
「よし、お前は今日から俺の弟分だ!孤児院のこと、いろいろ教えてやろう。まずは、院長先生に挨拶だな」
そう言うと、少年はこちらの返事も聞かずに背を向け、玄関の扉に手を伸ばす。
「そうそう、俺はアレックスだ。これからよろしくな。それと――――」
少年はこちらを振り向く。
「ようこそ、名もなき孤児院へ。歓迎するぜ!」
孤児院の扉を開いて、少年は笑った。
僕たちはすぐにアレックス兄の後ろをついて歩くようになった。
そうなった理由はアレックス兄が熱心に僕たちの世話を焼いてくれたからというだけではなく、アレックス兄が姉のように慕うリリー姉さんの存在も大きかった。
アレックス兄よりもさらに2つか3つ年上のリリー姉さんは<火魔法>使いとして最年長の孤児たちや一部の先生にまで恐れられていた。
そんなリリー姉さんを慕いながらもはっきりとモノを言うことができるアレックス兄は、僕たちとひとつしか歳が変わらないにもかかわらず孤児たちの中でしっかりとした立場を確立していたからだ。
アレックス兄の近くにいれば、ローザの安全は約束される。
最初はそんな打算からの行動だった。
しかし、打算が純粋な尊敬に変わるのも早かった。
アレックス兄が、僕が追い求める資質の多くをすでに備えていたからだ。
自分より体の大きい年長の孤児にも負けない喧嘩の強さ。
好き勝手に動き回る孤児たちをまとめるカリスマ。
孤児院の先生たちと話しているときに垣間見える知識と知恵。
困っている人を探して助ける積極性と行動力。
独力でどこからかお金を稼いでくる交渉力。
それら全ては、ローザを守るために僕が必要としたものだった。
特に、頭の良さで遥かに上をいかれたということは、僕に小さくない衝撃を与えた。
孤児になる前、家がまだ裕福だった頃に通っていた学校では、自分が同年代の他の子どもより優れているという自覚があったからだ。
後から振り返っても、それは決して自惚れではなかったと思う。
それだけアレックス兄が優秀だったということだ。
また、それだけの能力がありながら、アレックス兄はそれを自慢する素振りを見せなかった。
自分が孤児の中で最も優れていることが当然であり、それゆえ孤児たちの面倒を見ることも当然だと、本心から思っているようだった。
僕たちや他の孤児たちの多くは、アレックス兄が孤児たちの中心であることに疑問を持たなかった。
アレックス兄が10歳になる頃には、アレックス兄より年上の孤児たちさえそうであったと思う。
アレックス兄に嫉妬する気持ちは不思議と湧いてこなかった。
ローザはいつか、僕の手を離れるときがくる。
そのとき、ローザの手を引くのがアレックス兄だったらいいと思ったほどだ。
幸い人見知りのローザは僕よりも早くアレックス兄に懐いていた。
それによってリリー姉さんの視線が厳しくなるという別の苦労もあったけれど、傍若無人なリリー姉さんですら、アレックス兄の目を気にしてローザに辛く当たることはしなかった。
リリー姉さんが孤児院を去ってからは、ローザはさらに積極的にアレックス兄との距離を縮めようとしていた。
アレックス兄のことだから競争相手は多いだろうけれど、年を追うごとに綺麗に成長しているローザなら、アレックス兄の心だって射止めることができると思った。
一方、自分の未来について、僕はそれほど心配していなかった。
アレックス兄のように自分で大金を稼ぐことはできないから、自分のスキルを確認することはできなかったけれど、役人を目指す分には大きな影響はない。
アレックス兄のようになりたいと勉強を頑張っていたから、僕ならきっと試験に合格すると先生も言ってくれていた。
孤児というハンデを背負った以上、これから先も楽ではないという予感があった。
けれど、頑張れば望む未来に手が届くという希望もあった。
だから僕たち兄妹はきっと幸せだった。
アレックス兄が孤児院からいなくなったのは、そんなときだった。
孤児たちも先生たちも、誰もアレックス兄の行方を知らなかった。
アレックス兄が12歳になり、冒険者ギルドで登録するはずの日の朝に失踪したらしい。
僕とローザは、そんなはずないと何度も訴えた。
アレックス兄は僕たちに言っていたのだ。
冒険者になってもすぐに稼げるようにはならないから、当面は孤児院にお金を入れながら世話になると。
稼げるようになっても、しばらくはこの都市で冒険者を続けると。
その言葉に嘘は感じられなかったし、アレックス兄らしい合理的な考えだと思った。
けれど、大人たちは誰も取り合ってくれなかった。
仮に何かのトラブルに巻き込まれたのだとしても、孤児を助けてくれる人はどこにもいない。
孤児というハンデの重さを、僕はようやく思い知ったのだった。
心に不安が根ざし、それは日に日に僕の奥深くへと食い込んでいった。
僕たち兄妹の生活は安定しているようで、実のところアレックス兄に大きく依存していた。
明るい未来が、少しずつ音を立てて崩れていくような気がした。
事態が動いたのは、アレックス兄の失踪から数か月の時間が流れた頃だった。
季節が移り変わり風が暖かくなったある日、すごい魔法使いになると言って孤児院から旅立ったリリー姉さんが、本当にすごい魔法使いになって孤児院を訪ねてきた。
どうやらアレックス兄を孤児院から連れて行こうと考えたようだ。
美しさに磨きがかかり、魔法使いとしての実力と権力まで手に入れたリリー姉さんを相手に、孤児のローザでは勝ち目がない。
本当ならアレックス兄をめぐるリリー姉さんとローザの水面下の戦いに、終止符が打たれるはずだった。
しかし、リリー姉さんにとっては残念ながら、そうはならなかった。
アレックス兄の不在を知ったリリー姉さんは、見たこともないくらいに激昂した。
傍若無人なリリー姉さんに歯止めをかける唯一の存在を失ったのだから当然と言えば当然のことだ。
予想外だったのは、リリー姉さんがやってきたその日、院長先生とアマーリエ先生が突然行方不明になったこと。
アレックス兄ほどではなくともそれなりに頭が回る僕が、リリー姉さんが引き起こした結果からアレックス兄の失踪の真実にたどり着くのは、そう難しいことではなかった。
その後は、表面上は穏やかな日々が過ぎて行った。
リリー姉さんの使いが支援金を持って定期的に孤児院を訪れたことで、孤児たちの生活は保障され、孤児たちが12歳を越えても突然お迎えが来ることはなくなった。
しかし、良いことばかりではなかった。
アレックス兄の失踪の真実を知った頃から、ローザが体調を崩すようになってしまったのだ。
リリー姉さんのおかげで十分な治療は受けられるため大事に至ることはないけれど、精神的なものが原因らしく、完治することもなかった。
僕たちが孤児院で過ごす間、リリー姉さんはアレックス兄を探して各地を旅していた。
一刻も早く見つかってほしいと思いながら、見つかったときに孤児院への支援金がどうなるかというところが不安でもあった。
だから、僕は早く大人になりたいと願った。
役人になるための試験は15歳にならないと受けられない。
孤児院での生活が安定しているうちに、ローザを守れるだけの生活基盤を手に入れること。
それが、この頃の僕の望みだった。
現実が牙をむいたのは、突然だった。
アレックス兄が見つからないことに業を煮やしたリリー姉さんが、孤児院の先生たちを処刑しようと考えている。
そんな真偽不明の噂が流れてから、孤児院の先生が一人、また一人と減っていった。
そしてある日の朝、僕たちが起きたら先生が誰もいなかった。
待てど暮らせど、誰も孤児院に戻ってこなかった。
ここは大通りに比較的近いとはいえ、スラム街を抱える南東区域。
孤児院の変化は、すぐに悪い大人たちに知れ渡る。
ここに留まり続けても、次にやってくる大人たちが味方とは限らない。
こうして僕たち兄妹の孤児院での生活は、唐突に終わりを告げた。
僕の望みは叶わなかった。
孤児院での生活が終わる前に、大人になることはできなかった。
成人するまでの1年と数か月が、僕にとっては絶望的に長かったのだ。
◇ ◇ ◇
「朝……?」
ずいぶんと長い夢を見た気がする。
僕は木箱を並べただけの固いベッドから上半身を起こして顔を洗い、寝ぼけた意識を覚醒させる。
「夢、か……」
嘲るように呟くのは、自分の口だ。
孤児院での生活は、孤児というハンデを背負いながらも本当に夢のようだった。
今ならば、誇張なく本心からそう思える。
水で濡れた顔を拭くための布はない。
顔に水滴を付けたまま自分が寝ていたベッドを振り返ると、隣に寝ていたローザはまだ眠ったままだ。
せめてもう少し寝かせておこうと思い、毛布代わりの厚手の布をローザの肩に掛けなおした。
「…………」
安らかな寝顔――――とは程遠い疲れ切った寝顔を見て、僕は何度でも決意を新たにする。
(僕がローザを守るんだ……)
頼れるアレックス兄は、もうどこにもいないのだから。
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