第114話 新たな日常11
この世界で最も幸せを感じられる場所は、一体どこだろうか。
俺は世界の全てを知っているわけではないから、その問いに答えることはできない。
しかし、それでも思うのだ。
この場所は、この世界で最も幸せを感じられる場所のひとつではないか、と。
「ん…………」
少しだけ開けられた窓から吹き込む穏やかな風がカーテンを揺らす。
小鳥たちの鳴き声が朝の訪れを教えてくれる。
それでも俺は、もう少しだけまどろみに包まれていたいと思った。
ふわふわのお布団を首元まで手繰り寄せ、ふかふかの枕に頬をうずめる。
眠りから覚めたあとにもう一度眠りを求めることが許される幸せを噛みしめながら、まどろみに落ちて行く感覚を味わう。
至高の贅沢、そのひとつの形と言えるだろう。
しかし、そんな俺の眠りを妨げる者がいた。
妨げるというにはあまりにささやかであるが、何者かがやわらかな羽毛布団の上からゆさゆさと俺を揺さぶっている。
もちろん、そんなことをするのは一人しかいない。
薄目を開けてフロルの姿を探す。
キングサイズよりもさらに一回り大きいと思われるベッドの端――――小さな家妖精は、ちょこんと正座してこちらを見つめていた。
「もうそんな時間か…………ふわあ……」
あまりに快適な眠りを提供するこのベッドから逃れるために、俺はある程度日が高くなったら起こしてくれるようにフロルに言い付けていた。
最近は自分で起きることが多かったが、昨日はクリスと夜更けまで飲んでいたからか、どうやら寝過ごしてしまったらしい。
体を起こし、背伸びしながら大あくびをして、ぼやけた頭を少しずつ覚醒させる。
フロルが差し出す冷たいタオルで顔を拭い、フロルが差し出すグラスをあおる頃には、ほとんど目が覚めていた。
フロルに礼を言ってサラサラの髪をひと撫でし、ベッドから立ち上がってベランダに出る。
ベランダで陽射しと風を浴びて深呼吸すると、これがなかなか気持ち良いのだ。
しかし、ベランダに出た俺は、ある事に気がついた。
(空の様子がおかしい……)
黒雲が渦巻いて悪魔の高笑いが聞こえてくる、ということではない。
普通の青空に、ほどほどの白雲。
春の朝という題で絵をかいたらこれに近い風景になるだろうというくらいにらしい景色が、そこには広がっていた。
では、何がおかしいのか。
「朝、だな……」
おかしいのは、朝であるということだ。
俺はベランダから部屋に戻り、部屋の中で行儀よく控えていたフロルを見つめる。
俺がフロルに起こしてほしいと頼んでいる時間は、朝か昼かと問われれば微妙に迷って昼だと答えるような時間であって、決して朝ではないのだ。
「フロル、何かあったのか?」
俺は何か異常が起きていないか、フロルに尋ねた。
フロルはこれまで俺を起こす時間を間違えたことなどない。
俺を起こす時間に限らず、フロルは俺が出した指示を間違えることなどなく、もはや粗を見つけることが難しいほど完璧に屋敷の管理を行っている。
加えて言えば、俺を甘やかすことに関してフロルは自重というものを知らない。
そんなフロルが、俺が指定した時間より早く俺を起こすなどということがあり得るのだろうか。
俺の経験から言えば、フロルが俺を起こす時間を間違えた可能性よりも俺の指示を違えても俺を起こすべき何らかのトラブルが発生した可能性の方が、ずっと高いと思えた。
「うん?」
果たして、俺の予想は正しかった。
フロルは俺の問いに対してベランダと反対方向を指さした。
その方向にあるのは、自室の扉、廊下を挟んで向かいにある書庫、そしてそのさらに向こうには――――
「玄関…………ということは、来客か?」
こくり、と頷くフロル。
「一体どうした、こんな時間に……」
こんな時間というほど非常識な時間ではないが、それでも人の家を訪ねるにはやや早い。
この屋敷を知っているのはフィーネとクリスの二人だけであり、フィーネはこの時間なら冒険者ギルドで働いているはずだから、消去法で来客はクリスということになる。
大方、早速依頼を受けてどこかに行こうと張り切っているに違いない。
(あれ?というか、もしかしてずっと待たせてるのか?)
俺がフロルに揺らされていることに気づいた時点からですら、すでに結構な時間が経過している。
俺にだだ甘なフロルなら、来客があっても俺が一度起きるまでは起こさない、なんてことも十分に考えられた。
「フロル、次から来客があったらすぐに起こしていい」
少しだけシュンとするフロルを「お前は悪くないよ。」と言って軽く抱きしめてから、急いで身支度を整える。
「ああ、そうだ。クリスを食堂のソファーに通しておいてくれ。待たせていたお詫びにお茶とお菓子を忘れずにな」
シャツに袖を通しながらフロルに指示を出すと、頷いたフロルは小走りで部屋を出て行った。
俺はゆっくりと衣服と髪を整え、階下へ向かう。
階段を下りながら、ふと、なぜか開いている玄関に目をやった。
そして、俺はもたもたと身支度をしていたことを後悔することになった。
「悪い……待たせた、よな……?」
「………………」
玄関で、フロルとティアが向かい合っていた。
困り果てたようなティアの表情が、彼女が待たされた時間の長さを何よりも物語っていた。
「だってアレンの屋敷を預かる家妖精が通せんぼするのを、客である僕が無理やり通すわけにはいかないじゃないか」
「まあ、それはそうなんだが……」
俺はフロルに『クリスを通せ』と指示を出した。
だからこれはフロルが忠実に指示を守った結果だ。
なにせフロルにとってのティアは、昨日初めて屋敷を訪れた客であるクリスの同行者でしかない。
そんな人間を主人の許可なしに屋敷に迎え入れるというのは、人間でも判断に迷うところだろう。
昨日何者かが屋敷に侵入したばかりなのだからなおさらだ。
しかしそんな事情を知らないティアにしてみれば、今回のフロルの対応は納得できるものではないはずだ。
彼女は見知らぬ相手ではなく大切なパーティメンバーの一人。
よく考えてみればクリスがいる時点で彼女がいる可能性も考慮すべきであって、それを失念していた俺の指示が悪かったということに尽きる。
「本当に悪かった、ティア」
俺の隣に腰掛けるティアの手を軽く握ると、彼女は柔らかく微笑んでくれた。
少なくない時間待たされただろうに、フロルを責めもしない彼女の優しさには感謝を禁じ得ない。
一方のクリスはというと、テーブルを挟んで向かい側にあるソファーに腰掛け、「僕は何も見ていない。」と言わんばかりに目を閉じてフロルが用意した焼き菓子を頬張り続けていた。
どことなく雰囲気が冷たいのは昨日の話に対する無言の圧力のつもりか。
ただ、今このときに限って言えば、目を閉じてくれているのは幸いだった。
「……おとといのこと、クリスには内緒な?」
彼女の耳元でそう囁くと、彼女は恥ずかしそうに頬を赤らめて顔を背けてしまった。
あのときのことを含めて少し攻めすぎたかと不安になったが、握った手に絡められた彼女の指が彼女の気持ちを代弁している。
そんなかわいらしいティアの様子に思わず頬が緩んでしまい――――その様子をいつの間にか目を開けていたクリスに見られて気まずくなった俺は、コホンと咳ばらいをひとつ。
フロルが用意してくれたサンドイッチを摘まみながら、ジト目を向ける相棒に問いかけた。
「それで、こんな時間から一体どうした?」
「え?」
何を聞かれているのかわからないという顔でぽかんとするクリス。
しかし数秒後、クリスの表情はみるみるうちに真剣なものになり、しまいには突然身を乗り出して大声を上げた。
「そうだ!!アレン、ネルちゃんが大変なんだ!助けてくれ!!もう時間がないんだ!!」
「…………そうか。まあ、順を追って聞いていこうじゃないか」
ようやく出てきた回答は、さっぱり要領を得ない。
これは、こちらから情報をうまく引き出してやらないと話が進まないやつだ。
そう思った俺は、クリスの話を聞いていくために、最初に聞いておかなければならないことから尋ねることにした。
「で、ネルって誰だっけ?」
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