第28話 迷宮

 レイはランプを手にして、白亜の塔の地下まで降りた。僕はハンドアックスに指をかけたまま、彼女の後に続いた。円筒状の壁際を螺旋に続く階段の途中、それぞれの階が見えたが、一つは木々が生い茂っていた。森のようだ。続いて海のような世界が広がる。やがていちばん下まで行くと、棺の列がどこまでも続く世界へと出た。白亜の塔の外と違うことは、彼らが起き上がれないことだった。楽しく暮らしていない。ただただ棺で眠っていた。

 レイはランプを掲げた。錆びたランプの音がキコキコと揺れる。

 僕は一人一人確かめた。

 ここは白亜の塔へと行くことができない魂、また還ることができない魂、待っている体へと戻ることもできない魂が、ただ来たるべき行く末を待っているだけの世界だ。 

 僕は棺の中の一人一人を丁寧に覗き込んだ。待っている人、肉体があるのかもしれない。老いた者、まだ生れて間もない者、それぞれが収められていた。僕は一人の赤ん坊の頬に触れた。若草の匂いがした。

「お父さんとお母さんが待っているのかな。戻れるといいね」

 と呟いた。この子が繋ぎ止められたままでいいわけがない。

 青年が眠る。

「若いね。どうしてここにつながれてる。どの世界から来たんだ」

 病気なのか、事故なのか、それとも自殺なのかわからない。それでも死にきれていない者が、ここで待機させられていた。まさしく生者の控えの間だ。はと現実社会も同じようなものかもしれないなと考えた。

 不意にレイの声がした。遥か彼方でランプが揺れていた。この老婆はは今どんな状況で、ここにいるのだろうか。家族や縁のある者に見守られているのか、または身寄りもおらずに見捨てられたのか。そうこうしている間にも、何人もの姿が棺から消えて、また新しい顔が現れた。

 僕がレイのところまで歩いている間にも、無数の陰火が天井の闇へ吸い込まれていた。

「これじゃないのか」

 レイが指差した。

 美月さんが眠っていた。まだ魂は天へと吸い込まれていない。もっと焦るかと思ったが、不思議と急ぐわけでもなく笑みを浮かべた。僕自身が不思議な気持ちがした。美月さんは帰るべだね。後ろで束ねた長い黒髪はゆらめき、頬は青白い光を湛えていた。僕は美月さんの鎖骨のところに触れた。このためにここに来たんだ。ようやく戻れるね。僕の首から吊るした革袋の中が熱を帯びていた。美月さん、まだ天国へ行くのは早いよ。あの世界で待っている人たちがいるんだよ。琥珀の光が美月さんの体へと流れると、彼女の姿は徐々に薄れ、やがて消えた。

 僕の涙が棺の底に落ちた。

 すぐに違う人が現れた。

「さよならだね」

 僕はレイに微笑んだ。美月さんが息を吹き返したのが見られないのは残念だが、僕の願いは済んだ。やさしくて、少し意地悪なことをして笑う人は、また人生を続けられる。

「これで納得したか」

「そうだね。美月さんについては納得できたよ」

「これからおまえはこの世界でわたしと暮らすんだな」

「どうかな」

「何だと」

 僕は両腰に据えたハンドアックスに指をかけるや、一方でレイの頭蓋骨を砕き、他方で鎖骨から肩を裁ち落とした。そして飛び退き樣、真一文字に首をを刎ね落とした。

「貴様」

「おまえはレイじゃない」

「いつから」

「リングが鳴かない」

 僕は彼女の胴から離れた。

 あちらこちらで棺が輝き、人の姿が消えて陰火が飛び、また棺に人が現れた。ずっと繰り返される。

 術使いに背を向けた僕は蛍の光でも見るように、ゆっくりと歩いた。

「僕の願いは叶えられた」

「ならば貴様もわたしの願いを叶えてみよ。この世界から去れ」

 もはや女王は正体を隠す気はないようだった。死者しか招かれない庭園にレイが来れるはずがない。

「レイはね、冬が好きだと話してくれた。くっついて寝ると温かいからとね。ああ見えて甘えん坊だ。どんなに自分の人生が悪かろが、この世界をあんたの率いる死者に渡したりするもんか。あの子は自分より人のことを心配する子だよ」

 やることは目茶苦茶だけど。

 待て、冷静に考えるんだ。少し怪しい気もするぞ。確かに好奇心はあるが、深く考えないところもあるからな。世界なんてどうでもいいとでも言いそうな気もするな。今そんなことを疑問にすることはない。

 なぜ迷うんだ。

 レイ、迷わせるな。

「あんた僕の頭に迷いの呪文を唱えただろう」

「わたしは何もしてない。貴様が勝手にブツブツ言っているのだ」

「待って」

 僕は深呼吸した。

 押しきるしかない。

(わたしのこと疑っただろう)

 と言われかねない。僕は慌てて頭の中の黒板の文字を消した。

 言葉は溢れた。

「それにレイは僕に苦しい選択をさせるようなことはしない」

「貴様はクズだ。わたしと約束したのに破ろうとするクズだ」

「そうかい?」

「魔眼の奴は今頃、わたしの迷路で迷っているわ。永遠の迷路で泣き叫びながら、幻覚の中で苦しむ」

「それがどうした」

 僕は襲いかかる女王の頭を払い除けた。ハンドアックスから抜けた頭は胴体につながる。背中に向いて付いたが、強引に前に戻した。

「強気も惨めだな。貴様は救い出すこともできん」

「あんたはレイのことを何もわかってないんだ」

 僕は革袋から琥珀をつまみ出そうとした。するとそれは菓子のように粉々に崩れた。一つ一つの粉が、まるで割られるのを待っていたかのように、それぞれやわらかに輝き、棺の上を何重にも包み込んだ。

「貴様、それは」

「この光は魂を行くべきところへ導いてくれる。あんたの私利私欲で繋ぎ止められたままの魂は、この光で解き放たれるんだ。世界を死者の兵で侵略しようとでもしたか」

「黙れ。何も知らないくせに」

「術使いも『永遠』の魅力に取り憑かれたか」

「ふん」女王は笑い、「もはやこの世界では、間もなく生者の世界は死者の世界に食われる。ありとあらゆる世界が、わたしにひれ伏すのだ。貴様には止められん。もし貴様がわたしのために働くと言うのなら、ほどほどの地位を与えてやろうと考えていたのに、貴様は間違えた」

「かもしれない。でも僕はレイを守ることに決めたんだ」

「ノロケ話も滑稽よな。貴様にとってのお姫様は、今や囚われの身なんだよ。わたしが死ねば、ずっとわたしの思念の中でネズミのように行き来を繰り返すのだ。どうだ?それでも貴様はわたしを殺せるのか?」

 僕は小さく笑い、

「何度も言わせるな。あんたはレイのことを何も知らないんだ。迷路に閉じ込めるなんてバカバカしい」

 女王は顔を歪めて、両手で頭を押さえた。異変に気づいた様子だった。まず膝をついて、今度は肩から崩れ落ち、目を剥いて、涎を垂らしながら何やら呟いた。

 呪文だ。

 しかしリングが弾いた。

「奴め。この重たさは何だ。内臓が重い。術をかけた奴がいる」

「それはあんた自身だ」

 僕はハンドアックスの柄をホルスターに差し込んだ。

「わたしに何をした」

「何も。僕は穏やかだ。美月さんを救えたんだ。そしてこの世界を死者の浸食からも救おうとしている」

「英雄になる気か。どの世界も私のものだ。わたしが楽園を創る」

 僕はそこに疑問を感じた。なぜそんなことをしようとしたのか。

「あなたは魂を術の源にした。そして隠すわけでもなく、能力のある者に教えてもいた。僕にはあなたのしているこたが私欲だとは思えない」

「そう思うなら、貴様、今わたしにかけた術を解くんだ」

 苦しげにする指は、森の枯れた枝のように曲がっていた。

「僕が解くんじゃない」

 今頃レイは女王の中で迷い続けているに違いない。苛々しながら扉から扉、部屋から部屋、廊下から廊下を走っている。やがてすべて吹き飛ばして、ここに戻ってくる。

「僕は思うんだ。生者と死者の垣根を取り払うには早い。いずれそんな日が来るかもしれないけど、それはもっと違う方法で来るよ」

「貴様は答えを?」

「知らないし、知りたくもない。限りなく同じことを繰り返す世界なんてゲームの世界だけでいい」

「愚かな」息苦しさの中「二度と別れることもない世界が」と。

 次を言いかけたとき、王女の前の空間が歪んで、棺の間全体に熱風が吹き荒れた。僕は腕で顔を隠して石の岩の破片を止めた。女王は仰向けになり、胸をかきむしった。

「レイに迷路なんて意味ないよ」

「ムカついた」

 レイが炎の蛇を身にまとい、女王の体から飛び出してきた。炎の槍で突き刺しそうな勢いだったが、僕の笑みを見てやめた。頭に来ているのはわかる。彼女は這いつくばる女王を見ながら、僕に尋ねた。

「やったの?」

「美月さんは救われた」

「そうか」

「レイを待ってた」

「バカにしてるのか。行き止まりばかりの道だった」

「彼女の術だよ」

「初めは道を歩いてたけど、だんだん腹立ってきて、邪魔になる壁や扉なんかは壊した」

 迷路にいちばん向いていない者を迷路に閉じ込めたせいで、女王の呪術世界の方が崩れた。何も考えていない奴ほど怖いものはないな。

「この黄昏れのような光は何?」

 レイは四つん這いの女王に聞いた。王女は答えの代わりに上目遣いで僕を睨んだ。僕が答えろと。

「琥珀が魂を導いた」

「琥珀?」

「トトを」

 と言いかけたとき、

「あの石ころか」

 レイは答えた。

 すでにここに誰もいない。琥珀に導かれて、魂は自由を得た。さまよえる魂は、還るべき世界へ。

「やったな」

「ああ」僕は続けた。「この女王様は僕たちを幻覚で操ろうとした。でもレイは額に眼を持っていたから騙されずにいて、僕を救ってくれた」

「わ、わたしは別に……」

「ありがとう」

「ど、どういたまして」

 女王を名乗る術使いが、死者へ安住の地をもたらし、死者から得た力を利用し、これからも他の世界を浸食しようとしていたのだ。

 たぶん死者の暮らす街は夕暮れに染まり、多くの窓に灯が浮かび、賑やかな夜が訪れ、やがて静かな朝が来て、昼が来て、また同じことが繰り返される。ここで平和に暮らしている死者は疑うことなく、また同じ朝が来ることを信じている。

「レイ、聞いていいかな」

 僕は迷いながら尋ねた。

「難しいことはわからない」

「おまえは村にも捨てられた」

「そうだね」

「美月さんも同じだ。そんな世界に帰りたいのか。今から壊そうとしている世界で暮らしている魂も次の世界ではひどいかもしれない。僕は運命だと片付けられない」

「わたしはシンと会えた」

 一言しっかりと答えた。

 そうだな。

「ついこの前までのことなんて吹き飛んだ。生きていたからこそだ」

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