真夏のメトロノーム
牧野薪
第1話 スーツケース2個分の引っ越し
わたしが実行したことと言えば、住む場所を変えた。たったのそれだけだった。
見慣れた町、見慣れた学舎であるはずなのに、世界は一遍に変わってゆく。
学期末テストと課題提出を終え、夏休みに入った。
周りの同級生は、実家に帰省するべく、あるいは、夏休みの予定を満喫するべく、早々に大学を後にした。
普段であれば、通学でにぎわう通称「親不孝通り」も閑散としている。
通りに連なる店の中でも、一際目立つ看板を見上げた。
葛飾北斎「神奈川沖浪裏」が大きく描かれている。
物価高騰で世間を賑わせている中、良心的なお値段で評判な「八百屋八十六景」だ。
店番のおばちゃんは、普段よりお客さんが少ないので、風に揺らめく風鈴と青空を見上げながら団扇をゆっくり仰いでいた。
その最中、突如としてピンクと緑、2つのスーツケースを両手で引きずり、盛大にゴロゴロと不規則に音を鳴らして、おばちゃんを驚かせてしまう俺。肩にはギターをかけている。
道が凸凹しているため、余計に壊れそうになっている車輪がけたたましく鳴り響く。
ついこの間まで住んでいた下宿を引き払い、大学の寮で生活することになった。
俺は片付けが若干苦手だ。
とはいえ、モノが散らかっている状態はストレスであるため、すぐに捨ててしまうことが多い。結果、スーツケース2個分で所有物は収まった。
一時期、シルクスクリーン印刷のポストカード集めが趣味だったが、店頭で選び、購入する時間が楽しいだけだった。
多すぎると管理ができない。むしろ何を買ったのか忘れてしまう。アホだ・・。
虚しくもその事実に気づいたとき、厳選した10枚を残し、全て友人との文通を趣味にしている祖母に譲った。
蝉の鳴き声がやけに響く。
アスファルトの熱が反射して、顔がほてる。汗がしたたる。
もう大学に入学してから、1年半も過ぎたのか。
暑さで茫然とする頭で、これまでの大学生活を反芻し、時折思う。
皆が感じている時間と自分自身が感じている時間は、実は違うのではないかと。
「私を通してみる世界があるように、皆各々がそれぞれの視点で世界を見ている」と明治時代の文豪が述べている。
例えば、同じ事象があったとしよう。
それに対する、俺の見方、他者の見方。仮に大まかな共通点があるとしても、感じ方は人それぞれだ。微妙に違う。
JPOPトップチャートにランクインする曲が、必ずしも万人に響くとは限らない。
実はこのように時間の体感も、人それぞれ違うのではないか。
「退屈な時間はゆっくり流れ、楽しい時間は早く過ぎ去る」
そんな話を中学生の頃、友人が話していたと思い出す。
俺は大学入学以降、世界の時間があまりにも早く流れている気がしてならない。
一度集中したら止まらない性分だと気が付いたのは最近のことで、
その対象は、ゲーム、ギター、漫画、大学の勉強、と転々として変わる。
それらに熱中している間、つまり、俺自身は短く感じる間に、周りの世界が早く過ぎ行くような。俺の思い違いだろうか。
1人きりでいると余計にそうだ。中断する切っ掛けもない、静寂の中。
ついには、飯を食べることを忘れて倒れてしまった。
高校生時に思い描き、受験のモチベーションにもなりえていた華やかな大学生活とは程遠くて、過ぎ行く時間の速さに戸惑う。
気が付けば1学年も終わり、あまりにも早すぎて、心は半ば浦島太郎だ。
現状を心配してくれた両親が、寮で生活してみるのはどうかと、帰省した際に提案した。
寮から下宿に切り替える者がいるとしても、逆にこの中途半端なタイミングで入寮する者がいるだろうか。
最初は気乗りしないものの、自室のベッドでパンフレットを寝っ転がりながら読み進め、ある一点に目が留まった。
「温泉大浴場付き・・・・案外広いな・・」
魅力的だった。大学は田舎にあって、近くには温泉街もある。
まさか寮の風呂まで温泉とは・・。
家賃も安いし、想像していたよりきれいな場所だった。
設備も良い家電を使っている。
自由参加型のイベントも多く開催され、気が付けばずっと引きこもっている俺には案外ぴったりかもしれなかった。
そんなわけで、現在にいたるのだ。
八百屋のばあちゃん、びっくりさせてごめんな。
なるべく足早にスーツケースを引っ張り、目的地を目指す。
真夏のメトロノーム 牧野薪 @makinomaki
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