第15話 大型犬との帰り道

 リーベは職員室を出て、補習室に向かった。

 居残っているのは、アルバート1人だけだった。


「補習、大変だね」


 前の席に腰かけると、


「リーベちゃん……。おれ、ほんとダメなんだよ。数学だけは……」


 アルバートは青い顔で問題文を睨み付けている。まだ白紙だった。どの問題もわからないらしい。


「そっか。それじゃあ、僕の言う通りに書いてね。問1の答えだけど……」

「え、リーベちゃん、これ、わかるのか!?」

「あ……」


 アルバートが愕然としているので、リーベはハッとする。彼に何かお礼をしたいと思っていたので、つい口に出してしまったのだ。

 無能と思われている方が都合がよかったのだが、仕方ない。


「うん、まあね……。たまたま解き方を知ってて」

「教えてくれよ!」

「……えーっと……」


 彼にすがるような眼差しを向けられ、リーベは困った。


 ――教える……教える? 僕が?


『なあ、教えてくれよ。先生』


 その声が脳裏で響く。

 彼が死んだのは、リーベのせいなのだ。聖剣を魔導で起動する方法を、リーベが教えたから……。

 胸が、ぐっと苦しくなる。

 その感情を隠して、リーベはへらへらと笑った。


「僕……人に物を教えるの苦手なんだよねえ」

「ええ?」

「答えを言ってあげるから、そのまま書きなよ」

「教師がそれでいいのか!?」


 絶対によくない。

 でも、リーベはなりたくて教師になったわけではないので、どうでもよかった。


「いいよ。こないだのお礼にね。嫌がらせのこと、君、ほんとに何とかしてくれたんだね。ありがとう」

「んー、リーベちゃんって、いろんな女子から恨み買ってたからさ。おれが担当したのは半分だな。もう半分は、別の奴が何とかした」

「え……それって?」

「ごめん、口止めされてるから」


 アルバートは悪戯っぽく笑う。

 リーベは首を傾げた。口止めって、誰からだろうか。

 その後、リーベの回答をアルバートはそのまま用紙に書き写した。


「よし、やーっと終わった! おれ、提出してくるよ。あ、リーベちゃんって、仕事はもう終わり?」

「うん。寮に帰るところだよ」

「なら、一緒に帰ろうぜ」


 アルバートの笑顔に誘われるように、リーベは頷いていた。

 その後、用紙を提出しに行ったアルバートは、ヴェルネに「全問正解!?」と驚かれる。「あなた、誰かに入れ知恵されたわね?」と疑われていたのだが――その後、ヴェルネはリーベの存在に気付く。「バルテ先生にこの問題が解けるわけないわね。もういいわ、帰りなさい」と納得がいかない様子ながらも、認めてくれるのだった。


 リブレキャリアのある浮島は、山のような構造をしている。三角形の頂点に位置しているのが本校舎で、その外周に沿ってゆるやかなくだり道となっていた。

 校舎の外に出ると、視界は空へと開けていた。西日が星光石に注がれ、オレンジ色のきらめきとなって天空に広がっている。


「あっはっは! ヴェルネの顔、見ものだったなあ! おれがあんなの解けるわけないってびっくりしてたぜ」


 アルバートはけらけらと笑いながら、坂道を歩く。

 リーベは「ん?」と思っていた。彼が「ヴェルネ」と教師を呼び捨てにしたのも意外だったし、その声には棘がこもっていたからだ。


「……ヴェルネ『先生』ね」


 苦笑しながら訂正すると、アルバートはきょとんとした。


「自分は先生と呼ばれたくねえのに、そこは気にするんだ」

「いや、僕は確かに嫌だけど。でも、他の先生たちはさ、ちゃんと真面目に授業やっているし、生徒たちのことも真剣に考えているんだから。敬わないとだめだよ」

「じゃあ、逆に言えば。リーベちゃんは、真面目に授業をしないし、おれたち生徒のこともどうでもいいって思ってるってことか」


 痛いところをつかれて、リーベは目を細める。しかし、それをすぐに覆い隠して、へらへらと笑った。


「そうでーす。僕は教師失格のダメ人間なので。敬わなくていいよ」


 アルバートは口の端を上げて、リーベのことを見ている。その瞳がきらりと輝いた。


「――でも、リーベちゃんって、本当は頭がいいんだろ?」

「そんなまさか。そんな人間が毎日、ヴェルネ先生にお説教されて、泣きべそかいているわけないでしょ」

「じゃあ、さっきの問題をすらすらと解けたのは何で?」

「たまたま解き方がわかる問題だったんだ」

「へえ?」


 アルバートは含みのある笑顔で笑う。しかし、それ以上は追及してくることはなかった。

 彼はリーベから視線を逸らして、道の先を見た。

 山のふもとには空港がある。そこから飛行船が離陸するのが見えた。


「お、飛行船」

「首都まで飛ぶやつだよね」


 首都の上に浮かぶ浮島――それがこの学校だ。飛行船に乗らなければ、街からこの島まで来ることはできない。リーベは自分で空を飛んできたので、乗ったことはないけれど。

 アルバートはしんみりとした顔付きで、夕焼け空を見上げている。


「何で人間は、空に住もうだなんて思ったんだろうな。おれ、飛行船も飛空挺も苦手なんだ。というか、高いところが嫌いだ」

「何か意外だね」

「はは、そうか? リーベちゃんは、高いところも平気そうだよな」


 彼はリーベのことをちらりと窺う。それから、黙って歩き出した。

 何かを考えこんでいるようだった。

 夕焼けが2人の影を長く伸ばしている。


「なあ……ちょっと昔の話、してもいいか?」

「うん」


 アルバートはリーべではなく、前方の空を見つめながら話し始めた。


「お礼を言いたい人がいるんだ。昔、おれの命を助けてくれた人」

「う……うん?」

「昔、親父と飛空艇に乗った時さ、事件が起きたんだ。その船がハイジャックされて……」

「それって、テロ?」

「そう。おれは子供だったし、人質として都合がいいって思われたんだろうな。犯人につかまって、縛られて……すげー怖かったよ」


 リーベは口をつぐんだ。彼の話に黙って耳を傾ける。

 その時、リーベの脳内に弾けたのは、1つの記憶だった。


『リュディヴェーヌ様。すぐに来てください!』

『ふわあ~、セザール、どうしたの……。僕、起きたばっかりで……』

『緊急事態です! 3年に一度、政府はあなたの力を借りるということができるという盟約……飛空艇強取事件の解決にあたっていただきます』


 その会話に連なって、リーベの中で様々な光景が蘇る。


「途中でおれ、気絶してさ……。それで気が付いたら、誰かがおれのことを抱きしめてくれていた」


 航空中の飛空艇に乗りこんだこと、誰かに顔を見られてもリュディヴェーヌだとは気付かれないように幻術をかけたこと、そして、犯人を捕らえた時、人質になっていた子供を助けたこと――。


「『怖かったね。もう大丈夫だよ』って、優しい声と、メガネをかけた優しい顔。……ずっと、忘れたことはなかったよ」


 アルバートが足を止め、リーベの顔を覗きこんだ。懐かしむように目を細めて、ほほ笑む。


「6年前――おれを助けてくれて、ありがとう」


 リーベは何も言えずに、息を呑んだ。

 不思議な気持ちだった。

 アルバートの瞳に映っているのはリュディヴェーヌではなく、リーベだ。アルバートはリーベの正体がリュディヴェーヌであることには気付いていない。

 三英雄リュディヴェーヌ・ルースが多くの人から好かれているのは、リーベも理解している。その一方で、『ただのリーベ』に価値がないことも――。

 しかし、アルバートが今見ているのは、リーベなのだ。


「おれ、このことは誰にも言ってないから。これからも知らないふりをするよ」


 なぜか胸が苦しくなって、リーベは真っすぐな視線から顔を逸らした。

 それきり会話はなく、寮までの道を歩いた。

 学生寮と職員寮は別棟だ。その分かれ道にたどり着くと、


「じゃあ、また明日な!」


 何事もなかったかのように、明るく告げるアルバート。

 リーベは思わず声を上げていた。


「待って、君に聞きたいことがあるんだ。レオナルトくんって……どういう子なの?」

「すげえ奴だよ。あいつ、良い奴なんだ」


 アルバートは顔だけで振り返って、笑う。


「リーベちゃんも、レオの悪い噂を聞いたかもしれない。低学年の頃は、ケンカばかりしていたとか……」

「ああ、その噂も聞いたよ」

「誤解しないでほしいんだ。だって、そのケンカ相手って、おれのことだから」

「え?」


 リーベはハッとして、彼を見つめる。

 アルバートの顔には夕日がかかり、物憂げな雰囲気を作り出していた。


「6年前、テロ事件で人質にされたって言ったろ。そのせいで、おれ、いろんな連中に好奇な目を向けられることが多くてさ……。それでいつもむしゃくしゃして、誰かに当たってた」

「それって……」

「レオはおれの絶好のケンカ相手だったんだ。今では親友だけどな!」


 それは無邪気な笑顔だった。その笑顔にリーベの胸がざわめいた。

 ――僕は何か、大きな勘違いをしているのかもしれない。

 そんな予感が脳裏をかすめる。


「カミーユくんと、アーチボルト先生の噂を聞いたよ。あれは……」

「言えない」


 その瞬間、アルバートは眉を下げて、切なそうな顔をした。真摯な瞳でリーベを見つめている。


「ごめん。それはおれの口からは言えないんだ」


 彼が去った後、リーベはその場に立ち尽くしていた。

 心臓がじりじりと痛むような感覚――リーベは手を胸元に添えた。

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