第14話 私の師匠

「お邪魔します」


 僕が一声かけてから部室の引き戸を開けた途端、むせ返るような暑い空気が廊下に流れ込んだ。

 部室はチア部の部室と同じ広さで、左右の壁にはチア部と同じように縦長のロッカーがずらりと並べられていた。部屋の中央付近には向かい合うようにベンチが置かれていて、空き教室から持ってきた机と椅子もいくつか見られた。ただ、しばらく使われていなかったせいもあってか、少し埃っぽく感じる。


「結構整っているみたいだね」

「そうね。一旦は物置にしようかという話があったけど、いざという時使えるようにしているのよ。卒業生からの寄贈品を含めてレオタードは別のところに保管しているから、気にしなくていいわよ」


 レオタードと聞いて、思春期の男子の悪い部分が出てしまい、とっさにあの日の高橋さんが着ていた汗にまみれたユニフォームと彼女の汗の臭いが頭の中を駆け巡った。途端にスラックスのある部分が盛り上がり、前傾姿勢を取ってごまかそうとした。

 恥ずかしい格好をしている僕を見て、米沢さんが睨むような目つきで小泉さんを見つめて口を開く。


「ちょっと奏音、優汰をからかわないでくれる?」

「ごめん、そのつもりで言ったわけではないんだけどね。さてと……」


 米沢さんに諫められると、小泉さんは申し訳なさそうな表情を浮かべながら部屋の西側にある窓へと向かった。小泉さんがカーテンとサッシを開けると、途端に西風が部室の中に入り、体感温度が下がったように感じた。

 グラウンドから聞こえてくる野球部やサッカー部の威勢の良い声や陸上部の部員たちがトラックを駆け抜ける音、体育館から聞こえてくるバスケットボール部がバスケットシューズを鳴らしつつボールをドリブルする音などがより鮮明にこちらに伝わる。

 小泉さんは窓をバックにして入り口付近に向き直ると僕たちを見回した。


「このままでもユータの着替え場所として使えるけど、ちょっと埃っぽいじゃない。今日は部活も休みだし、アタシたち四人で掃除をしない? そうすれば明日からユータもここを快適に使えるはずよ」

「でも、こんな広い空間を一人で使うのはちょっと申し訳ないというか……」

「お昼休みに話したけど、アタシたちが着替えしている時のトラブル防止のためだから。それに、ユータがまずいことになりそうだったらここへ逃げ込めばいいわ」

「だけど……」


 すると、高橋さんが僕に向かって微笑んだ。


「優汰君、奏音は奏音なりに優汰君のことを考えているんだから心配する必要はないよ」

「それに、奏音はいざとなれば一歩も引かないわよ。西村先生って知っているでしょ? 優汰が今までお世話になっていた吹奏楽部の顧問相手に……」

「その話は聞いたよ。あの先生に誘われたにもかかわらず、一歩も引かずに軽音楽部とチア部に入ったって」


 二人が小泉さんにまつわる話をしていると、当の本人は色違いのロッカーに向かっていった。そこで小泉さんはロッカーの中から何かを取り出して、床に置いた。金属音から察するに、バケツがあったのだろう。ここの部室を使っていた部員たちも几帳面に掃除をしていたのかもしれない。


「さてと、早速掃除に取り掛かりましょう。ユータはバケツに水を汲んできて。ナツは床を自在ホウキで掃いて、ちり取りはマリンがやってくれる?」

「了解、任せておいて」

「分かったわ」


 高橋さんと米沢さんがそろってうなずく。


「それで、小泉さんは何を?」

「アタシはロッカーの中がきれいに空いているか確認するわ。もちろん、掃除もするわ。そうと決まれば、さっさと始めましょう!」

「はい!」

「はいっ!」


 小泉さんが号令をかけると、高橋さんたちはあっという間に持ち場についた。とはいえ、近場に水を汲む場所がどこにあるか全く見当がつかない。僕は部室を離れる前に振り返って、小泉さんに訊ねた。


「小泉さん、水が汲める場所って……」

「どこでもいいから。任せたわよ」


 任せたわよと言われてもどこに行けばいいか困る、と心の中でつぶやきながら、僕は部室棟の男子トイレに入って水を汲み、それから再び階段を上って新体操部の部室に戻ってきた。道中で同じクラスの誰かとすれ違うかもと心配したが、そうならなくて一安心だった。

 それから皆で部室内の掃除に取り掛かった。教室と比べると狭いこともあって、掃除自体はあっという間に終わった。高橋さんと米沢さんが協力してくれたおかげだろう。もちろん、後片付けは全部自分が一人でやっておいた。


「みんな、お疲れ様」


 小泉さんがマイボトルを片手に労いの言葉をかけると、高橋さんたちも一緒になってマイボトルを開いて喉を潤していた。


「お疲れ様。それにしても、暑いね」


 暑さのあまり、僕がつい口にした言葉がこれだった。明日から九月だというのに、ちょっと動いただけでも汗が噴き出るのは何とかならないのだろうか。


「当たり前よ。今日も三十度は優に超えているからね。北国とはいえ、こんなに暑いのはないわ……」


 僕の左手に見える小泉さんはブラウスのボタンを外して、手で扇いでいた。ブラウスのボタンを外しているせいもあってか、小泉さんが身につけている可愛らしい柄の下着がチラリと見えた。


「ここまで暑いのは勘弁してほしいね」

「ホントよ。明日もこれだから、参っちゃうわね」


 いつもはブラウスの第一ボタンまでも留める小泉さんが胸をはだけるくらいだから、部室の掃除をしていた高橋さんと米沢さんも尚更だ。はだけたブラウスからは二人の下着が少しだけ顔を覗かせていた。

 つい先ほどの小泉さんの発言を思い出して、思春期の男子の悪い部分がまた出てしまい、つい自分の下半身に目が行ってしまう。


「どうしたの、優汰君?」

「もしかして、私たちの胸が気になるのかしら?」


 高橋さんと米沢さんがからかい半分で問いかけてくる。二人の顔はいつもの小泉さんが浮かべる悪戯心に満ちた笑顔にも似ていた。本音を言ったらまず間違いなく二人に嫌われてしまうだろう。


「いや、ちょっと二人とも仲が良いのかなって……」


 苦し紛れの言葉に二人は急に顔を合わせてクスクスと笑いだした。


「仲が良いというよりは、真凛は私の師匠……、といった感じかな」

「掃除する前に話した通り、私も奏音と同じようにキッズチアをやっていたの。チア部に入ってから手塚部長に奈津美の指導を任されてね、それ以来ずーっとマンツーマンで教えているのよ」

「そうだったんだ。だから掃除の時も息ぴったりの動きをしていたんだね」

「そうね……」


 途端に、カラッと晴れた夏の空のような笑顔を今まで見せていた米沢さんの顔が暗くなり、ため息交じりで大きく肩を落として僕に語りかける。


「本当はね、文化祭の演技発表に出たかったのよ。本当なら私がセンターで、奈津美は私を支える役割だったの。その前日も出店をやりながら練習していたんだけど、そこで捻挫しちゃってね。奈津美が私の代わりにセンターを務めることになったけど、最初は心配だったの。私の代わりが務まるのかなって。実際は見事な演技を見せてくれたけど」


 誇らしげに語る反面、米沢さんの顔は悲痛に満ちていた。本来は師匠である米沢さんが先陣を切って踊るはずだったのに、弟子の高橋さんが踊ることになったのはあまりにも辛いだろう。

 そこで、僕はふとある言葉を思い出した。そう、幼少期の僕を形作った不良漫画のセリフを。

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