気持ちの相違
美咲の発する言葉に、頭がくらくらとするような想いに襲われた。
言葉ひとつひとつの意味が頭に入ってこない。ただ、美咲に「好きじゃない」と言われたそのことだけが、脳天をぶつけられたような衝撃に感じた。
「ちょっと、待って」
俺は深呼吸をして、頭を抱えた。一世一代のつもりで告白をして、思ってたより深手を負った。一旦、整理をさせてほしい。
美咲は、俺と一緒にいるのは楽しいと言ってくれた。つまり、好きじゃないということは俺を嫌っていることを意味しない。
「だから、あまり言いたくなかった」
考える俺を横目に、美咲がそんなことをボソリと言った。
「どういうこと?」
俺に聞こえていると思わなかったのか、美咲はぴくりと肩を震わせて「えーっと」と唸る。
「何でもないです。とにかく、私は先輩と付き合うのは無理、です」
でも、と美咲は言葉を続ける。
「以前も言ったみたいに、私と体の関係を持ちたいというのであれば、私は先輩を拒みません」
「は?」
俺は頭の中に疑問符を浮かべる。そんなこと言ってたか?
そして思い出す。あれだ、ミサキと付き合うことになったから、もうこの部室には以前のようには来れない、と言った時のことだ。美咲は「エリカさんに絶対バレないのであれば」と、自分とセックスすることはできるか聞いていた。
「待って。余計わからん」
美咲は俺と付き合いたくはない。だけど、セックスは問題ない。
「え? セフレってこと?」
俺は金元のことを思い出した。あいつにも美咲のことはセフレにしたのかみたいなことを聞かれた。あの時はふざけんなよ、と返したけれども。
「ありていに言えばそう、ですかね?」
美咲は首を傾げながら答えた。そこ、お前が自信なさげだと俺は余計混乱するんだけど。
「体の関係だけなら良い?」
「はい」
「俺と一緒にいるのは楽しい」
「はい」
それは……正直なところ、恋人関係と何が違うのか。
俺の脳内ショックが少しずつ緩和されていった。美咲の言葉に絶望しそうになった俺だが、おそらく俺が受け取ったような気持ちを美咲は想定していたわけではない。これは、何やら俺と美咲の認識に根本的に齟齬がある。
「俺が部室にいない間、美咲は寂しかったって言ってたっけ」
「寂しかった、です」
美咲は不服そうに俯く。その仕草を素直に可愛いと思えるようになったのは、俺が美咲への気持ちを嘘偽りなく口にしたせいだろうか。
「俺さ、今割と混乱してるんだわ」
だからもう、いっそのこと自分の頭の中にある気持ちは修飾せず、そのまま発しようと決めた。そして俺と美咲は、最初からそういう関係のはずだ。文学論を語り合う時のように、好きな小説の話をする時のように、部室で他愛ない話をしている時のその延長のつもりで良い。
気負うことはない。それで俺はミサキに別れ話を切り出す際、自分の気持ちを見誤ったのだから。
「確認するけどさ、一緒にいて楽しくて、体の関係があって──いや、体の関係は別になくても良いんだけど──それで二人が了承したらそれはもう恋人じゃない?」
「了承すれば、です。私はしません」
そこがわかんねえんだよな。
いや、美咲の気持ちの問題だし、俺だってミサキのことを好きでいたのに関係を解消した。美咲の中に何か、俺と恋人関係にはなりたくないという理由がある。
……よし、思考はクリアだ。またここで涙をボロボロ流す羽目になっていたかもしれないが、そうはならない。心が穏やかでないのは確かだが、それは途中途中こうしてクールダウンしよう。
「俺のこと、好きじゃないんだっけ」
「好きじゃありません」
「恋愛の意味でってことで良いよな? たとえば俺は茉莉綾さんのこと好きだけどさ」
美咲は俺の言葉を聞いて、またぴくりと肩を震わせた。そういう反応は、するんだな。
「でも、それは恋愛感情じゃない」
後、茉莉綾さんは普通に女性としても魅力的な人だと思う。以前、学食で美咲と話したことを思い出す。
茉莉綾さんに限らず、俺は見学店のキャストに対してはそのつもりで接している。彼女たちの魅力を引き出すのが、俺の仕事なのだから。以前勉強の為、人物写真の撮り方について調べていた時にプロカメラマンのインタビューを読んだことがある。そこでそのカメラマンは「自分はある意味、撮影の度に被写体に恋をしていると言えます」なんてことを言っていた。俺もそれには一部同意する。この場合の恋とは、俺の解釈としてはあくまで比喩だ。
「そうですね。私も茉莉綾ちゃんのことは好きです」
「女性として?」
「違い、ます。今となっては、仲の良い友達です」
「古宮さんは?」
「古宮先輩は、まあ頼りになる?」
「……」
不覚にもちょっと笑いそうになった。そこは好きって即答しないんだ。これ以上俺の情緒を弄ぶんじゃねえよ。
「俺のことは?」
「好きです」
ドキッとした。いや、俺の求める意味で言っているんじゃないのは分かってはいるが、俺はその言葉を、誰よりも美咲から欲しかったから。
「先輩のことは好きです。ただ、それが恋愛対象としてかと聞かれると、私は違うと答えます」
美咲の方も、いつもの調子になっているように思う。
「たとえば、恋愛対象に対する嫉妬という感情があるかと思いますが」
「全員にあるとは限らないが」
「そうですか? 恋愛関係において、嫉妬は切っても切れない感情のように思うのですが」
「それはお前の経験として?」
美咲は首を横に振る。
「いえ、あくまで一般論としてです」
「なるほどな。だとするなら、一理あると思う」
「ではそうだとして。私は先輩にカノジョができたと聞いた時にも、嫉妬は感じませんでした」
「……あー、そうだったな」
正直なところ、あの時のことは、あまりに辛くて記憶の奥底に仕舞い込んでいた。俺はある種、美咲への当てつけとして自分の初体験の話をしたわけだが、あの時美咲は俺のことを心から祝福しているように見えた。
待った。また気持ちが落ち着かなくなってきた。これあれかな、対面で話さねえ方が良いかな。そんな弱気なことを思いながらも、ここで逃げてしまっては何も始まらないと思い、俺は息を整えた。深呼吸を繰り返す。脳みそに酸素を送り込むだけでもだいぶ心持ちは違うはず、と自分に言い聞かせた。
「先輩を好きになる人がいると言うのは少し嬉しかったですね」
「ん?」
また難しいことを言うな、お前は。
いや、変なことではないのか? 自分の恋人や好きな人が、他人に好かれている様子を見て嬉しく思う、というのは割と聞く話のようにも感じる。
「そっか。そういや美咲、よく俺が褒められてる時に鼻高々にしてたな」
「そ、そんなわかりやすくはないはず」
「いや、してた」
俺のカメラの腕とかが片桐さんや野々村先輩に褒められた時、こいつは自慢げに鼻を鳴らしたりしていた。
「後はさっきも言ったように、先輩といても私はドキドキしたことはありません。古宮先輩なんかには、アドレナリンとドーパミンの分泌による物だと聞きましたが」
「らしいな。人間の感情も脳内に分泌される化学物質の作用と考えれば、恋愛のドキドキはそれが原因だ。ただ、それも個人差がある」
「はい。寧ろ、関係が安定していたカップルの間にはオキシトシンなどが分泌されることにより、二人でいると安らぎを感じるようになってドキドキは収まっていくそうですね」
それも聞いたことがある。かなこさんに、俺がミサキと別れた理由として倦怠期を少し疑われたが、付き合い始めた頃に感じる脳内麻薬の分泌が落ち着いてくるのが三ヶ月頃なのだそうな。
──待って、俺ら今何の話してんの?
「一般論として、後は化学機序としての恋愛についてはわかった。もう良い。美咲はそういうのを感じないから恋愛じゃないって言いたいってことか?」
「そうですね。人を好きになる感覚が、私にはあまりよく分かっていないので、どうしてもそうしたアプローチからの話になりますが」
「まあ、お前がそういうアプローチするのはお前の性格の問題だと思うが」
ただ俺は今、美咲の言ってたことが引っ掛かった。
「人を好きになる感覚が分からない、つったか」
「……はい」
「俺のことだけじゃなくて、誰かと一緒にいてドキドキしたこととか、好きだと思ったことがない?」
「はい」
なるほど? 少しだけ、すれ違いの根本が見えてきた気がする。
「それ、どっちでも良くないか?」
「良くなくは、ないです」
「何で」
「だって、私はこれからも先輩を好きになることはないと思います!」
美咲の言葉に、少しだけ怒気が混じった気がした。
「先輩は私を好きでも、私は先輩を好きになったりしません」
「……セフレなら良いってのは?」
「先輩が望むなら、それで良いです。それなら、恋愛は関係ない。私も、先輩と一緒にいれるならその方が良いので」
「俺も美咲と一緒にいたいだけなんだけど」
「私は──私は、先輩にまた恋人ができても構いません。エリカさんのことばかり優先していたのはそりゃ寂しかったですけど」
──色々と言いたいことは募る。俺は美咲のことが好きだから、美咲とは恋人関係になりたいと思う。でも、それは言ってしまえば口約束でしかなくて、実際の気持ちはどうでも良いじゃないか、とか。
けれど、そこがこいつにとっての線引きなのだろう。
まだミサキと再会する前、俺が美咲を好きだから美咲以外の他人、たとえば茉莉綾さんや古宮さんに性的魅力を感じでも、体の関係を持ちたくなかったように。茉莉綾さんが、自分の性的価値を売ることに躊躇はなくとも、実際に男性と相対することには拒否を示すように。
「あのさ、それだと金元のことは……」
「もう良くないですか? 先輩の分からず屋ッ」
「は?」
いや、それを言うなら分からず屋はお前の方だが?
「とにかく、私は先輩とは付き合えません。セフレなら考えます。これでこの話は終わり。先輩も不毛な話はしたくないですよね? 他の話、他の話しましょう」
美咲はそう言って、自分のアルバイトの話をし始めた。どんなバイトが厳しかったとか、どんなバイトが面白かったとか。ただ、当然そんな話は、右から左へ流れていく。
話を続けている以上、このまま喧嘩別れというのも美咲の本意ではないのだろう。ただ、俺が美咲と付き合いたいというなら、これ以上その話だけには口を出すなと、そういうことだ。
──なるほどね。わかったわ。
こいつのことはめんどくさい奴だと思っていた。そのめんどくささを含めて好きになった。正直、俺も他人のことは言えないとは思う。それでもだ。ただ単純に、俺が思ってた以上に、かなり、だいぶ──。
こいつ、圧倒的にめんどくさいな?
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