第27話 橋 5
翌朝、ラドゥはナティが夜のうちに書き上げた手紙を懐の奥にしまい、仲間のカジャリを伴って森の下に長く掘られた道を通って南部第二の都市ダートに向かっていた。ダートまで行けば手紙を投函するポストがある。ダートにはまだゲリラとカサン軍との戦火が及んでおらず、比較的平穏な街といえた。 とはいえ今森を出て町に赴くのは極めて危険な事であった。カサン軍は森から出て来る者はことごとくゲリラとみなし、虫一匹逃さぬよう殺す構えなのは明らかだ。しかしカサン軍といえども広大な森を隙間なく取り囲むのは不可能なはずだった。
事実、仲間のカジャリと共に森の下に縦横無尽に掘られた地下要塞をつなぐ長い複雑な道のうちの一本を通って、地上に出たラドゥの目に映ったのは、実に平穏な、光に満ちた世界だった。ラドゥが仲間と共にジャングルに立てこもって既に長い年月が経過していた。そこは森の入り口に当たる場所であり、いまだカサン兵が足を踏み入れていない場所であった。
今、大量の光はラドゥを圧し潰すかの勢いで降り注いでいる。一瞬、目が眩んだ。ラドゥの足は自然に止まっていた。数秒間、その場に立ち尽くしたまま、自分の身体にアジェンナの日の光が滲んで行くのを感じていた。ああ、何とこの世は美しく、光に溢れている事だろう! この世に悲惨な飢えや苦しみや醜い殺し合いがある事がまるで嘘のようだ……! ……そもそも人はなぜ不毛な殺し合いをしているんだ? ただひたすらこの美しい大地を慈しみ、耕し、称える歌を歌っておれば良いものを……。
しかしラドゥは胸に込み上げた気持ちを一緒にやって来たカジャリに話す事はなかった。スンバ村の村長と役人を殺して農民達がゲリラに加わるきっかけを作ったカジャリは狙撃の腕を磨き、もはや幾人ものカサン兵を倒している。戦いに憑かれた男に自分の今の気持ちは通じまい。
ラドゥとカジャリは光の厚みの中を、一歩一歩歩みを進めて行く。やがて、どうどうと水の隆起する音が男の耳に飛び込んできた。
「川がもうすぐだ。よし、あそこで水でも汲んで、少し休むとするか」
「ああ」
カジャリはそう言って、かつての純朴な若者だった頃と同じ笑顔を見せた。彼もまた、久しぶりに澄んだ川の水音を聞いて素直に喜んでいるのだろう。
やがて二人の目の前に現れた川は、かなり幅がある堂々とした流れであった。ゆったりとした曲線を描いて、森の奥地から下流へと清らかな水を運んでいる。その川の表は目を射る程にキラキラと輝いていた。ラドゥは一瞬、茫然とその場に立ち尽くした。まるでこの世の光景ではないかのようであった。人々が死んだ時にあの世へと渡ってゆく川とは、まさにこのようなものではないのか。
「しかし、里まで下りるには川を渡らなきゃなんねえ。見た所橋は無さそうだがな」
「どこかに川を渡れる飛び石があるって話だぜ。おら、ちょっくら探してくる」
「じゃあ、おらは逆を探してみよう」
ラドゥはカジャリと別れて歩き出した。それからしばらく歩くうちに、川の表の光の粒に吸い取られていたラドゥの視線は、川向うの二人のカサン兵とみられる男の姿をとらえた。思いがけない敵の出現にもかかわらず、ラドゥの心に何の驚きも恐怖心も起こらなかった。それは、「敵」の背後にあまりに美しい光に溢れているからに違いなかった。
(いや、待てよ、あれは二人じゃねえ。後について歩いてるのは妖怪『ヒトカゲ』じゃねえか……)
「ヒトカゲ」という妖怪は人間そっくりだけども、よくよく見ると足が無い。カサン軍の中に、アジェンナ人の妖人で編成された部隊がある事をナティから聞き及んでいた。彼らは「ヒトカゲ」という妖怪を操り、兵士が大勢いるように偽装したり囮に使ったりするのだという。「ヒトカゲ」の特徴は足が無い事だと聞いていたが、実際に兵士のうちの一人は両足首の先が見えない。
(という事は、あの兵士は妖人なんだろうな。それにしてもなんてボロボロの服だ! おめえはカサンの軍隊でもそういう扱いか?)
カサンの軍服は、長い事目にするだけで恐怖心を呼び起こすものであった。憎悪の対象でもあった。しかしこれ程までボロボロな軍服を身に付けている男を、もはや敵とも思えなかった。
(一人で、ヒトカゲだけ連れてここまで偵察に来たのか、それとも迷い込んでここまで来たのか……?)
男は銃を携帯している。見つかればすぐに撃たれるかもしれない。しかし、同時に男は疲れ果てているように見えた。ラドゥはこんな場所にまでただ一人やって来た男を労いたいとすら思った。
(この世で一番虐げられてきた妖人の中に、カサンの味方をする者もいれば反カサンゲリラに加わる者もいる。それもちょっとした運命のいたずらだろうな。あいつにはあいつなりの思いがあって、カサン軍に加わってんだろうな……)
ラドゥが立ち尽くしたまま男を凝視しているうちに、男の方もラドゥを見た。
「銃を置け」
ラドゥはそう呼びかけたものの、その言葉は男には届いてはいないようだった。ラドゥは男に銃を置くように動作で示した。すると男は手にした銃を地面に放り出した。男の顔立ちや表情までは、ラドゥのいる位置から伺い知る事は出来なかった。敵対心か、あるいは恐怖か。それを読み取るには、川を隔てたその位置は遠すぎた。
「お前を殺す気は無い」
ラドゥはアマン語で、次にカサン語で呼びかけた。しかしその声は川のせせらぎや鳥の声にかき消さた。ラドゥは、もし相手が自分に対する敵意を抑えてくれるなら、彼と並んで座り語り合いたいと思った。おめえはアジェンナ人だろう? しかも妖人だ。おめえがカサン軍に入った理由は何だ? それで暮らしは良くなったか? 軍隊でひどい扱いを受けてねえか? こんなボロボロの格好で一人でジャングルに送り込まれる位だ……。
近くに、対岸に渡れる飛び石でも無いか、と思った。
(こんな森の中で、敵も味方も関係ねえだろ? だいたい、こんなに緑はきれいで水も澄んでいて空気もうめえ。ここを血や銃声で汚すのは勿体ねえ。……そうだ、うまい煙草があるんだ。あいつだって疲れてんだ。煙草を一服してえに違いねえ)
ラドゥは相手の警戒心を解くために煙草を取り出そうと、懐に手を入れた。その時だった。
「パン!」
という乾いた銃声が響いた。ラドゥの体はあおむけに倒れた。彼は意識を失う瞬間、空にかかる虹を見た。かつて幼い頃、クラスメイトのマルが虹の橋の話をしてくれた事がある。そこに住む人々はこの世の人々とは全てがさかさまで、人々は逆立ちして歩き、夜に働き昼間は寝てばかり、魚は宙を飛び、人々は釣り竿の先を空中に投げて魚を捕まえるという。そしてその橋を渡れるのはほんのわずかな人間だけだという。ラドゥは薄れゆく意識の中で、自分がその虹の橋を渡る事を思った。そしてその向こうには、クーメイや子ども達、死んだ仲間達がいるのだろうか?
しかしそう思う間にも、ラドゥの目の前から急速に光が失われて行き、最後に川のせせらぎの音だけが残っていたが、やがて全てが消え去った。
完
橋を渡って rainy @tosihisa
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