追憶
当日、父さんは時間きっちりに学校についていた。
二人並んで座って生徒指導室で先生を待つ。
父さんは部屋に入ってから一言も喋らない。それに怖いのがずっと無表情で何を考えているのか分からないことだ。
その時、扉が開く。すぐに首を回して誰か確認する。そこにいたのは歌代先生だった。
先生も父と似た表情で、何を考えているのか分からない。
父さんは正面を向いていて、先生の方に首を傾けることはない。先生を見ずに父さんは喋り出した。
「娘が同行する理由は?」
「娘さんが母親のことを知りたがっているからです。それに母親のことなんですから誰だって知りたいはずです。隠すのにも限界があると思います」
「そうですか、分かりました。で、今日はなんの話をしようと?」
父さんはそこでようやく先生を見る。両者は目を合わせてもずっと無表情だ。
「今、塁はどこへいるんですか?」
すると父さんは拳を机に叩きつける。
振動が足に伝わり緊張で体が動けない。全身まで震えてしまいそうだ。
この教室に緊張以外の言葉が見つからない。
「あんたには会いたくなかったよ」
吐き捨てるように父さんは言った。
不愉快そうに父さんは机を指で鳴らす。初めて見るとうさんの姿に驚きが隠せない。母さんと一体何があったのか、そんなに聞かれて嫌なことなのか。
「鏡のこと知っているんですよね」
反射的に先生を見る。先生は真剣な眼差しで父さんを見ていた。
父さんは俯いて首を縦に振る。
「知ってたの? でも先生、父さんは愛莉って呼んでました」
私は先生に問いかけた。
「別に鏡のことを知っていても鏡を使わなきゃ本当の名前を忘れるさ。君のお父さんは鏡のことを聞いていたんだよ。だから塁という名前は聞いていてもおかしくない」
先生は今父さんが事実を知っているのか試したのか。
塁という名前が出てきても、普通なら「誰ですか?」と戸惑うはずだ。それなのに父さんは心当たりがある様子だった。
つまり、父さんは母さんから鏡の話を聞いている。
「霧矢くんさ、どこまで話を聞いているの?」
「……」
「そろそろ娘さんにも話してよ、俺が知りたいのはまだ置いといてさ、自分の娘が母親のことを知りたいと思っているんだよ。親ならしっかり話すべきだ」
「……美月は、お前のことが好きだった」
父さんの言葉で先生は目を大きく開いた。
予想していなかったのか、先生は動揺が隠せないのか口をぱくぱくさせている。
正直そうだろうと思っていたから私はあまり驚かない。
それよりも、父さんがそのことを言うことに驚いた。父さんは母さんから聞いていたのか、それともただの勘なのか。
「美月がいなくなる、多分一ヶ月くらい前。突然真面目な話があると言い出した。その時、美月は鏡の話をしてくれた。名前が変わる鏡、これを使い続ければ記憶が全部変わると、そして今までずっとこの鏡を利用していた。だからもうすぐ記憶が消えるって」
先生はようやく落ち着いて話を聞き出した。
私も父さんを見るが、心底悔しそうな表情だった。
「その時、今まで騙していたことを全部謝らせて欲しいと言ってきた。名前は塁で、美月なんてどこにもいなかった。それに鏡を使っていたのは好きな人を嫌いにならないためだと」
「好きな人って父さんじゃないの?」
父さんは静かに首を振る。
「元々ただの言い伝えだったらしいが、南雲の人は結婚すると相手は人が変わったように性格が悪くなり、幸せになれないって言われていたらしい。それを免れる一つの方法が『名無しの鏡』これを使えば誰にも憎まれず、愛される人間に生まれ変われる、だってさ。どうしても辛くなった時は使ってみるといいっていう言い伝えだったけど、自分の祖母、そして父親。元々美月の母親はもっと優しかったそうだ。一時期名前を変えていたそうだが、娘のことを忘れるのを恐れて父親は鏡を使うのをやめていたらしい」
母はここまで詳しく話していたなんて、思ってもいなかった。いや、もしかしたらもう記憶がなくなるのを分かっていて最後に伝えたかったのかもしれない。
「『名無しの鏡』の効果を実感したから美月は怖かったそうだ。自分の好きな人と結婚して、嫌いになってしまったらどうしようと」
先生は言葉が出ないようで、ただまっすぐ父さんのことを見ていた。
「あんときは悔しかったよ、俺が好きで告白してあっさり受け入れてくれたから、ずっと両思いだったんだって舞い上がってたよ。それなのにどうでもいい相手を選んでいたなんて、正直信じられなかったよ。最初っから、美月は歌代くんのことが好きだったんだよ」
父さんは苦笑いをして、でも悲しそうに笑っていた。
先生も黙って父さんを見据えている。
「あの日、美月は突然家に帰って来なくなった。捜索届も出したさ、それでも美月は帰ってこない。色々重なりすぎて、会社で慕ってくれる梓とあっさり結婚しちゃったよ。それは凪、ごめんな」
突然話をふられて焦って首をブンブン横に振る。
「私は、別に……」
そこで言葉が止まった。
梓さんがきて私は毎日家にいることが苦痛になっていた。それを今父さんにぶつけてもいいのだろうか。それでもやっぱり父さんに心配かけるようなこと、やめた方が……
そこで前から視線を感じる。ゆっくり顔を上げると先生がまっすぐ私を見ていた。
その目を見た時、私の口から自然と言葉が漏れた。
「なんで子供を作ったの?」
「え、あぁ、それは凪が一人だと寂しいかなって梓と話したんだよ。それと凪と話すきっかけが欲しいって言ってたんだよ。子供がいれば一緒に育てられるし、話す機会も増えるだろうって」
梓さんが……? そんなことを言うのか正直信じられない。まだ信じられないけど心が穏やかに傾いていく。
「梓は梓なりに仲良くなりたかったみたいだよ。俺が起こさない方がいいって言ったのも、本当は梓が起こしてあげようとしていたんだって。それがうまく言えなくてあぁなったみたいだけど。梓は梓なりに近づこうとしていたんだんだよ。だから、全部否定はしないでほしい」
私は頭が混乱していて、信じられない。それでも父さんが嘘をついているようには見えない。梓さんといるといつも気まずくて、父さんが帰ってくるたび嬉しそうな表情を見せた。
てっきり私のことを嫌っているのかと思っていたけど、きっと何を話せばいいのか分からなかったんだろう。私も一緒だった。
「あんまり、信じられない」
「そうだろうね、でもいいよ。これからもっと時間をかけて関わっていけばいい」
目の奥がじんわり熱くなって涙が一滴溢れる。
父さんは驚いた表情をしたが、すぐに優しく微笑んで背中をさすってくれた。
なんだか自分が馬鹿みたいだと思った。今まで梓さんは私のことが嫌いだと決めつけて、ずっと関わろうとすらしなかった。
そして何か言いたそうにしている梓さんをずっと無視していた。向こうが悪いと一方的に決めつけて、自分の行いを見直そうとすら思っていなかった。
「帰ったら、梓さんとちゃんと話すね」
「そっか、そうしてくれ」
父さんは嬉しそうに微笑んだ。
「それで、塁はどこにいますか?」
突然先生が口を挟む。
「俺は知りません。もういいですか、そろそろ帰りたいのですが」
「……分かりました。本日はありがとうございました」
先生は目の前で深く頭を下げる。
すると父さんは椅子から立ち上がり、ドアの方へ進んだ。後に続いて立ち上がるが、ふと先生からの視線に気がつく。
先生は、嬉しそうに笑っていた。
私も微笑み返してすぐに廊下に出ていった。
***
それから何日か経った放課後、私は美香達と駅前のカフェに来ていた。
「ちょ待ってよ、何このパフェ、贅沢すぎん?」
「うるさい」
「あー、頭叩かないでよぉ」
いつも通り賑やかな二人を放っておいて、私は美香とパンケーキを食べていた。
「最近凪、表情明るいね」
突然美香がそう言った。
正直、心当たりがあるから自然と笑って頷いていた。
「よかったやん」
「うん、私やっていけそう」
美香は本当に嬉しそうに微笑んだ。
あのあと、梓さんに私はしっかり謝った。今までの酷い対応、言動、そして全て梓さんを悪とみなしたことも。
全部言い終わると、梓さんは目にいっぱいの涙を浮かべながら私を強く抱きしめた。
そして梓さんも私以上の大量の謝罪をして、二人揃って大泣きした。その様子を見ていた父さんも目に涙を浮かべて二人の肩に手を置いた。
それからは私は自分で起きるようになり、梓さんの手伝いをするようになった。
今では名前を変えなくたって普通の家族のように接することができる。いや、もう普通の家族だと思う。
「あぁー、パフェ最高だったぁ」
杏奈が店を出た瞬間大きな声で空に向かって叫んだ。
「うっさいばか」
いつものように頭をコツンと叩く結衣。このメンツも相変わらずだなと思った。
「結衣のバカァ、もう知らない」
そう言って走り出す杏奈、しかしタイミング悪く前を歩いていた人にぶつかってしまう。
「ご、ごめんなさい」
ぶつかった人は振り返って、穏やかに微笑んで「大丈夫ですよ」と微笑んだ。
服装は白いコック服を着ていて60代くらいの小さなお爺さんだった。何度も頭を下げる杏奈のことを優しく見つめては「平気だよ」と声をかけている。
お爺さんを見ていると、ぱちっと目が合う。
すると目を大きく広げて私のことをじっと見つめてきた。
「え、っと、杏奈がすみませんでした」
「ちょっと待っててくれないか」
早口になって急足ですぐ横にある建物に入っていくお爺さん。一部始終を見ていた私たちはポカーンと口を開いていた。
「凪知り合い?」
「いや、知らない」
全員で首を捻って考えていると杏奈の呑気な声がした。
「あの人、ここのパン屋さんの店長さんだよね! コック服着ていたし、パンくれるんじゃないかな」
「馬鹿なのあんた、杏奈がぶつかったんじゃん」
結衣とあんなのいつもの絡みを私と美香は黙って見ていた。
カフェの隣にあるずっと昔からあるパン屋さん。一度も入ったことはないが、そこそこ人気でずっと駅の前に位置している。
今はお休みなのか店内には明かりがなく、暗くてよく見えない。
目を凝らして見ていると、突然パッと店内に明かりが灯る。そして店の奥からさっきのお爺さんがやってきた。
扉を勢いよく開けて鈴の音がチリンと鳴る。
「パン、食べて行かない? 新作のパン、他の人に食べてもらいたかったんだよね」
予想外の言葉に驚かなかったのは杏奈だけだった。
四人は流されるまま店内に入る。すぐに手前の席に座らされ、パンを持ってくると一旦厨房へ行ってしまうお爺さん。
お爺さんが見えなくなると全員机に身を乗り出し小声で話し合う。
「これって怪しい薬とか入ってたりすんのかな」
「無料だよね」
「これ大丈夫だよね」
「誘拐とかされちゃって、その後どうしよう」
「宿題なくなるぞ」
「神やん」
「馬鹿か」
結衣がコツンと杏奈を叩くと同時に、お爺さんが顔を出す。
「これ、新作のパイナップルを使ったパンなんだけど、一回食べて見てもらってもいいかな。もちろんお題はいらないよ」
そう言うと全員顔を合わせてお皿に乗ったパンを食べる。
ほんのり甘酸っぱく、酸味が効いていてとてもフレッシュなパンだった。
「お爺さん、これ美味しいです」
すぐに杏奈が感嘆する。お爺さんは照れくさそうに「よかったよ」という。
「……みかんちゃん、お水お願いできる?」
「はーい」
奥から女性の声が聞こえて、しばらくすると顔を出す。
その瞬間、全員の視線が一気に私に集まった。お爺さんは切なそうに目を細めていた。
「何?」
「え、え、凪やん」
「は?」
美香が珍しく動揺しているのがわかる。結衣と杏奈も手を合わせて口をパクパクさせている。
「顔、そっくりだろ」
お爺さんがそう言うと、三人は首を縦に振った。
私はじっくりその人を見つめる。
確かに、私が老けたらこうなるだろうなと言う感じだ。でも、だからなんだ……
その時、一つの可能性が頭に浮かぶ。私は勢いよく椅子から立ち上がってすぐにその女性の元へ駆ける。
女性は驚いた様子で首を横に傾けている。
そんなことあるだろうか。いやあり得ない、いやあり得るのかも……
「お母さん……?」
女性は戸惑うだけだった。
「お母さんですか? 霧矢塁、美月、どっちでもいい、私のお母さんですか?」
私は必死にその女性に話しかけるが、首を傾げるだけだった。
「初めて会ったのは10年くらい前かな、店の前にずっと立っていて声をかけたんだよ」
気がつけばお爺さんがう私の後ろに立っていた。
「母は、記憶がないんですか」
「うん、最初っから記憶がない、ここにいたいってずっと言っててね、それ以外は全部曖昧な反応だったんだ。あともう一つ、家族を探そうって言ったら、なぜかそれにははっきりと首を振るんだよ」
家族とは私も含まれているはずだ。それなのに会いたくないって、私は愛されていなかったのか。いや、それとも本当に愛した人といたくて……
「あの、会わせたい人がいるんですけど」
「……大丈夫だよ」
そこで美香たち三人には帰ってもらい、私は母さんは学校に向かう。
歩いている途中、母さんはずっと無言だった。ただぼんやり前を向いている感じ、別に私のことは一切気にしていないみたいだ。
これで違ったらどうしよう、不安で頭がパンクしそうだ。でも、やっぱり私はこの人を知っているような気がする。
昔、私に笑いかけてくれたあの笑顔はこの人なのだろうか。
学校につくと、一旦母さんには校門の前にいてもらった。逃げ出さないか不安だが、一瞬だから多分大丈夫だろうと思って走って校舎に入っていく。
すぐに先生を呼んで事情を話すと、最後まで聞かずにそのまま走り出してしまった。
急いで追いかけて、二人で校門に向かう。
しかし、そこに母さんはいなかった。
「なんで……」
「まだ近くにいるはずだ」
先生はそのまま辺りを見渡してから、いきなり走り出す。
先生が走った先を見ると、そこには母さんが立っていて校舎の方をじっと見つめているようだ。
「塁っ」
先生は今までで聞いたことのないくらい大きな声で名前を呼んだ。母さんはビクッとしただけで、自分だとは思っていないようだ。
先生は母さんの元へ駆け寄って必死に何か喋りかけている。
遠くから見ていても分かるくらい先生は必死な様子だった。それとは対照的に母さんはずっと怯えているように見える。
本当に、記憶がないんだ、そう思い。今更だが名無しの鏡が怖くなる。
先生はしばらくずっと何かを喋っていた。それでも母さんは曖昧そうに首を傾げているだけだった。
その様子が切なくて、私は黙って見ることしかできなかった。
辺りが闇に包み込み始めた。そんな時、先生は母さんと二人で私の元へ歩いてきた。
「霧矢、塁を帰してあげて」
先生の目には生気が無かった。目には赤みがあり泣いていたことが分かる。そりゃそうだろう。
10年も探していてやっと会えたのに、相手には記憶がないんだから。ショックだけでは先生の言葉が表現できない。
「先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫、だといいな」
先生は無理に笑顔を作ってそのまま校舎へ向かってしまった。
私の母さんは二人きりになり、一気に気まずくなる。
「帰りましょうか」
母さんはコクンと頷くだけだった。
***
母さんをパン屋に送って私は帰宅した。
結局、母さんにいろいろ話しかけても、しっかり返答は得られなかった。
自分の母親なのに記憶がないだけで、あんなに他人行儀で接せられるなんて想像以上に辛いものだった。
「凪どうしたの? 浮かない顔して」
梓さんが心配そうに私を見ていた。食事中なのに浮かない表情だったみたいだ。私は咄嗟に笑顔を作って首をブンブン振った。
「なんでもないよ、ちょっと今日は疲れて」
「そう、ゆっくり休んでね」
「ありがと」
梓さんは仲直りをしたあと私のことを凪と呼ぶようになった。ちゃん付けは私が好きではなかったので呼び捨てにしてもらった。
もうなんの躊躇もなくそう呼んでもらえている。徐々に梓さんが母親になっていく。
そうしたら、母さんは一体なんなんだろう。
部屋に戻って名無しの鏡を持ち上げる。
こんなもの、残していて大丈夫だろうか。私の娘が母さんと同じように鏡を使って記憶を失ったらどうしよう。そうなれば私は情緒がおかしくなるに決まっている。
頑張って先生は抑えている方だと思う。すごいなと思いながらも先生の辛さを全て知り尽くせていない自分が嫌になりそうだ。
この鏡はない方が絶対にいい。それなのにどうしてずっと引き継がれているのだろう。
頭を抱えて布団に倒れ込む。鏡を乱暴にベッドの上に置こうとした。
しかし次の瞬間、耳を切り裂くような鏡の割れる音がした。
「えっ……」
恐る恐る下を覗くと鏡の破片が散らばっていた。
まさかのベッドの下に叩きつけて……やってしまった。
鏡の破片がないところからベッドを降りて、そのまま掃除機を一階から運ぶ。
いつもなら気がつくのに……
やっぱり母さんと会ってから調子が狂っているのかもしれない。
***
鏡を割ってから何もないまま時間が過ぎて、気がつけばあと二週間で三学期が終わろうとしていた。歌代先生は母さんと会ったあと一週間くらい体調不良のため休んでいた。
この季節だからインフルエンザだとは思うが精神的にも相当きているのかもしれない。
正直心配だが、三月は授業が少なくなかなか会えていない。
しかし今日は今年度最後の数学の授業があるので、その時少し声をかけてみようと思っている。
「おはよ」
「おっはー凪、てか聞いた? うたしー結婚疑惑」
うたしーとは歌代先生のことだ。
最初は何を言っているのか理解できず固まっていた。ようやく理解ができたが衝撃すぎて言葉が一言も喉を通らなかった。
「ある生徒が昨日ね、先生の左指に結婚指輪があるって言い出してさ、それを今日の授業で確かめようってクラスで盛り上がってんの」
「うたしー50でしょ。今更感が若干あるよね」
「でもうたしー顔面偏差値が馬鹿高いからいけるっしょ」
「卒業したらうたしーと結婚しようと思ってたのに」
「あぁ、卒業式の時に先生のボタン全部もらわないと気が済まない」
あちらこちらで先生の話が聞こえる。先生が生徒に大人気だったことを完全に忘れていた。学年では先生はアイドル的存在だったから、そりゃみんなショックだよね。
「うたしーって結婚しないのかと思ってた」
美香も寂しそうに呟いた。
「美香?」
「推しが結婚するって辛いわー」
推し……美香は私の肩に手をかけて力一杯揺らしてきた。
「今日はやけ酒じゃぁ、帰りラーメン食べよ」
「へ、へーい」
今日の美香はずっとこんな感じなんだろうな。
それよりも、先生が結婚だなんて……母さんのことは諦めたのだろうか。あんなに思い続けていたのに。流石に記憶が無くなっていたらもう無理だって諦めたんだろうか。
ちょっと考えてみれば、結婚ってことはずっとお付き合いしている相手がいたと言うことなのか。
そうしたら私に母さんの昔の話をしている時も、ずっと違う女の人と実は付き合っていたってことなんだろうか。
なんか、未練があるなら結婚なんかしなければいいのに、そう思ってしまうのは変だろうか。
「ずっと休んでいてすまなかったな。今日は残りの範囲をささっとやっていくから」
歌代先生は爽やかに微笑んで授業を進める。
確かに、先生の左指には指輪があった。生徒それぞれの感情を抱きながら、とりあえず黙って先生の授業を受けていた。
チャイムが鳴り、先生が廊下に出ようとすると何人かの女生徒が先生の元へ駆け寄る。
「先生結婚したんですか?」
「いつから付き合っていたんですか?」
一気にクラスメートの視線が先生に集まる。
「結婚、しました」
先生は照れくさそうに微笑んだ。
教室が歓喜で包まれる。
女子も「おめでとうございますぅぅ」と頑張って伝えている。中には半泣きの生徒もいて相当好きだったことがわかる。
「ずっと付き合っていたんですか? いつからですか?」
「んー、昔好きだった人と再開したんだよね」
「何それ運命ですか?」
昔好きだった人……母さんのことだろうか。でも母さんは記憶がなくて、まともに会話できなかったはず。
「ちょっと色々あったんだけど、向こうも色々思い出してさ。まぁそのあとはご想像に任せるよ」
思い出す、今そこだけ強く言っていたような気がした。先生を見ているとぱちっと目が合う。先生は親指を立ててにかっと笑った。
「まぁ、想像にまかせるよ。正直俺もどうしてこうなったのか全くわからないから」
先生も分かっていない。ってことはどう言うことだろう。何もわからない。先生に今すぐ聞きたい。先生の方へ駆け寄ろうと席を立ち上がると先生は私を見て喋り出す。
「本当にわからないんだよね、どうして思い出してくれたのか」
先生は穏やかに言っているが私を見ている目がマジだった。私は座り直して先生をもう一度見る。もうこっちを見ていなくて近くの生徒と話していた。
今の様子、本当にわからない。思い出した、それってつまり、母さんが記憶を戻して先生と結婚したってことだろうか。
でも、どうしてかは分からない。だから俺に聞かれても困る、そう言いたげな様子だった。
もしそうだとしたら、どうして突然母さんの記憶が戻ったのだろう。
鏡を使い続ければ記憶を失う。そのあと記憶が戻る保証はないとは言えないけど、あの鏡の効果は本物だ。だからあの鏡は……
そこでふと先日の出来事を思い出す。
私は、あの夜鏡を割った。今はもうゴミで捨ててしまった。
全部、つながったような気がした。私はもう一度席から立ち上がり「先生っ」と声を出す。先生は不思議そうに私を見るが、私は大きな声で先生に伝える。
「おめでとうございますっ」
刹那、先生は嬉しそうに目を細めて笑った。
「ありがとう」
クラスメートも拍手をして全員が先生の結婚を喜んだ。
多分、もう大丈夫だ。
私にはもう母親と呼べる存在がいる、別に名前なんか変えなくたってちゃんと話せばどうにかなる。あんな鏡、割れて正解だ。
よくやった、私。そう心の中で自分を褒めた。
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