第5話
家のこと……
あの人が来なくなって、お母さんは嬉しそうにしている。忙しかったと言い訳しながら朝に帰ることもなくなった。そのかわり、彼氏をときどき連れてくる。
優しげな男の人。筋肉質で背の高いあの人とは違って、細身で小柄。声は大きくない。威圧感もない。
それでも、怖い。大人の男の人が怖いのかもしれない。
「ごめんなさい。なんか、いやなこと言ったかもしれない……です」
及川くんは、慌てながら言った。
「私ね、男の人が怖いんだよね」
そう言うと、及川くんは何か考えているのか黙ってしまった。
気まずい。言わなかったらよかったかな。
及川くんは怖くないんだよって、早く言わなきゃ……
「俺、家のことでいろいろあって、むしゃくしゃしてて、いらいらして、喧嘩ふっかけられてそれで発散してるんです、たぶん」
「たぶん?」
「よくわからないけど、親父を殴るわけにはいかないし」
お父さんと何かあるんだ。でも、追求するのはよくない気がした。
「そんな俺でも、一緒にいて平気ですか?」
一緒にいたいからいるんだよって、言いそうになった。
でも飲み込んだ。
「俺は怖くないんですか?」
私が黙っていると、決まったような顔をした及川くんが、私の目を見て言った。
「陽太くん、私をそういう目で見てないでしょ? 弟がいたなら、こういう感じなんだろうって思うんだよね」
ずっと及川くんって呼んできたのに、弟を強調するために陽太くんって呼んだ。
そういう目で見ているのは私かもしれないのに。
長く一緒にいるために、予防線を張ってしまった。
「弟、ですか」
「うん」
私は自然な流れに見えるようにさり気なく陽太くんから目をそらす。うつむいて手元を見ると、右手の人差し指のささくれが目についた。
心にも、こんなふうなささくれがあった気がした。あの人からの暴力。夜の静けさに怯えるあの時間。
「早瀬先輩、絆創膏持ってますか?」
「うん。あるよ。どうして?」
「その指の……」
私がポケットから絆創膏を出すと、陽太くんはそれを素早く手に取り、私の指にそれを不器用に貼り付けた。
「不格好になったけど、いじって傷めるよりは……」
照れ笑いを浮かべるその姿、一瞬だけ触れた指先――私は、陽太くんのことを好きになってると意識した。
そうかもしれない、と思っていたけど……
陽太くんが、きっと私の心にあるささくれの絆創膏なんだ。
指のささくれみたいに、心のささくれが目に見えたらいいのに――
「俺、強くなって、傷作らないようにします」
陽太くんはそう言うと、「今日は帰ります。また明日、勉強教えてください」と言って去っていく。
私は手を振りながら、後ろ姿をずっと見つめる。
陽太くんも何かを抱えている。
踏み込んで聞いてしまえば、心のささくれがあらわになるんだろう。
知らないから見えない傷を、優しく触れられるかもしれない。
今のままで、お互いが絆創膏みたいに傷口が見えないように蓋をし合う。
私の気持ちが恋だとわからないように、強くなろうとする陽太くんの支えになれたらいい。
〈了〉
『この距離のはかりかた』
第二章で登場する、早瀬優実の初恋でした。
未読の方、お時間あれば『この距離のはかりかた』本編をよろしくお願いします。
及川くんが出てきます。
m(__)m
ささくれに絆創膏 香坂 壱霧 @kohsaka_ichimu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます