2. 奴隷のアズサ

 る一〇四、アズサ。それが私の名前。


 名前を初めて知ったあの後、名前を呼ばれた奴隷たちは全員がこの納屋なやらしい場所に、家畜かちくのように押し込められた。


 柱こそ堅牢けんろうそうではあるが、屋根は所々腐り落ちており、壁板の間からは隙間風すきまかぜ容赦ようしゃなく吹き込んでくる。

 まともな手入れがされていないことは、素人しろうとの私でもよくわかった。


 唯一ゆいいつの出入り口は、当然だが鍵がかけられており、やせ細った子供ではどうやっても壊せないのは明白だった。外光がいこうが差し込むのは、その出入り口である引き戸よりはるか上、二箇所かしょの吹き抜けだけだった。


 そんな吹き抜けからの日差しも、基本的には早朝と夕方にしか差し込まなかった。そして小さい窓故に風通しも悪く、空気はいつも鬱蒼うっそうとして息苦しく感じた。


 草も生えない程に踏み固まった地面の上に、薄いわらを敷き詰めただけの暗い場所。ここが、今の私たちに与えられたほぼ全てだった。


 しばらく経ってから、かわいたパンが一握りだけ与えられた。三食がこれなのかと驚いたが、翌日になってこの一握りが一日分だと知ったときは、言葉が全く出てこなかった。


 それでもまだ、この体にある記憶と比較すれば、ここははるかに安らげる場所ではあった。ただし、お世辞せじにもきれいな場所とは言えないことも、また事実だった。


 一番つらかったのはトイレだった。

 納屋である場所にそなけのトイレなどなく、我慢がまんができなかった私は納屋の片隅、積まれた藁の裏、他の奴隷から少し見えづらくなっていた場所で用を足してしまった。

 やがて、ひとりが同じようにその藁影に向かったかと思えば、次第にその場所は皆が使う場所になっていった。


 もちろん、そんな状態をいいと思うわけもなく、私は度々たびたび食事を運んできた人にトイレを用意して欲しいとお願いをした。だけど、結局は奴隷のせいなのかまともに相手にはされず、日に日に悪臭が酷くなっていくだけだった。


 それでも、体調を崩した何人かがその場で垂れ流していたに比べれば、距離があり直視をしないだけでもいくらかはマシではあった。

 体調を崩している子の中には、まだあどけなさが残る少年もいたが、今の私には介抱かいほうをするだけの余裕はなかった。


 そしていつまでも続くこの境遇きょうぐうに心がすり減り、無気力むきりょくになっていくにつれて、私も含めて、この惨状さんじょうを気にする者はいなくなっていった。




                  ◇




 名前を呼ばれたあの日から、多分、二十日は経とうとしていた。


 この納屋での生活は何も変わらなかった。質素しっそなままの食事、劣悪れつあくなままの環境。そのせいか、栄養不足か風邪気味かの判別もつかないまま、朦朧もうろうとした意識でここ数日は過ごしていた。


 体力を消耗しょうもうさせないために、ここにいる全員が同じように、ただ横になって寝ている。


 何も考えたくない。いや、考えられるほどの余裕がない。でも、今はそれでいい、そう言い聞かせるしかなかった。


 隙間風と呼吸だけが延々と続く、空虚くうきょな静けさを壊すように、急に金物かなものがぶつかる音が耳に刺さった。


 音の鳴る方を見れば、出入り口の引き戸が乱暴に音を立て、勢いよく開いた。出入り口からの外光が私たちを容赦ようしゃなく照らす。


 唐突な光を前に、思わず目を閉じてしまった。暗所あんしょに慣れたこの目には、昼下がりの明るさは真っ白に見えるほどに眩しく、頭に響くほどに痛かった。


「全員、外に並べ」


 筋骨隆々きんこつりゅうりゅうの男が、淡々と告げる。

 しかし、その声で起き上がる奴隷はまばらだった。私を含めその多くはその場から動けず、顔だけを男の方に向けるので精一杯だった。


 その光景を見てか、男が地面にかかげた手を振り下ろした。瞬間、鋭い風切かざきおん破裂はれつにも似た衝撃音しょうげきおんが納屋に響いた。


「てめぇらぁッ!!!!!外に並べぇッ!!!!」


 男の手には一本の細いムチが握られていた。そのムチの先からは、一筋ひとすじ軌跡きせきが地面を削り、まっすぐと伸びていた。


 岩のように踏み固められた床を削るムチ。それは、今の私にとっては、何者でもない純粋な恐怖にしか見えなかった。


 その場にいる奴隷らはあわてて立ち上がり、出口に向かって動き出した。私も遅れまいと無理やり体を起こし、力の入らない足で光の方へなんとか向かおうとした。


 ふと、が目に止まった。あれからずっと横になっているが、やはり体調が優れないのだろうか。後ろを振り返れば、他にも何人かは寝たままでいる。このままじゃ彼らはあのムチで……そう思うと、目前の少年に手を差し伸べられずにはいられなかった。


 だが、すでに遅かった。

 出入り口から差し込む光で照らされた彼の顔は、すでにウジ虫がわれ先にと、その頬肉ほほにく下瞼したまぶたを食い漁っていた。




                  ◇




 無理やり外へ出された私たち奴隷は、そのまま納屋の出入り口から出て左側、長い壁に背を向けるように並ばされていた。

 なにをされるのだろうか、早く終わってくれ。横になりたい。

 雑草の緑や土壁つちかべなどが見えているのだろうが、朦朧もうろうとした意識の前では、それらはただうつでしかなかった。


「――ッあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ ゛ッ!!!!!!」


 だが、突然聞こえた絶叫ぜっきょうによって、私の遠い意識は急激に引き戻された。


 何事かと思い、叫び声がする方へ視線を向ける。そこには、地面にうずくまったままの少年と、そのそばだい大人おとな二人におさえつけられている少女、そして何か作業をしているガタイのいい男がいた。


 少女は叫びながら抵抗をしているが、木製の台座に仰向あおむけで押さえつけられている。

 ガタイのいい男の側には、簡素かんそ排気口はいきこう煙突えんとつそなえたかまらしきものがあった。その短い煙突の先からは、オレンジ色の火がうなるように立ち上っている。その煙突の下には燃料であろうまきがくべられていたが、男はそこから伸びた細長い棒の一つを抜き出した。


 その瞬間、私は何をされたのかを理解してしまった。


「ぃや゛っ!!や゛だっ!!や゛め゛でっ゛でばぁ゛ ッ!!!!!」


 遠目では白にすら見える焼きごての先が、周囲の空間をぐにゃりとゆがませている。ねっされた焼きごては、そのまま全力で抵抗する彼女に近づいてゆく。やめて、お願い……!

 そんな願いは届くこともなく、焼きごてが彼女の左鎖骨にしっかりと押し付けられた。


「ッあ゛あ゛あ゛ッ!!!!あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ッ!!!!!!」


 腹の底から出た少女の絶叫が、肉が激しく焦げる音を全てかき消した。


 その悲鳴はさっきと同じように私の耳をつんざいたが、同情どうじょう憐憫れんびんねんは浮かばず、ただただ恐怖を増幅ぞうふくさせる呼び水にしかならなかった。


 彼女の声が止んだ。恐る恐る視線をそちらに向ければ、焼きごてを外された彼女はそのまま横に転がされ、流れるように次の奴隷がまた台座に押さえつけられていた。淡々と業務としてこなされてゆく光景がただただ続く。そうして一人、また一人が叫び、地面にうずくまってすすり泣くにつれ、私は確実に訪れる、避けられない未来におびえきっていた。


 あれを、わたしも、される。

 いやだ。こわい。

 やめて。

 たすけて。

 いやだ……!!!

 いや、だ……!!!!!!!


 絶望の真っ只中、突然、私の両腕と両肩を掴まれた。気づけば、すでに私の目前にあの台座が鎮座ちんざしていた。瞬間、こらえきれなかった恐怖があふれ出すかのように、私は叫んでいた。


「っいや!!いやだ!!!やめてぇっ!!!!!」


 出せるだけの体力でなんとか抵抗をしようとするが、せこけたこの体では何もできず、むなしく台座に押さえつけられた。汗が吹き出る。涙が止まらない。歯はしきりにガタガタと音を立て、ひざりきむことすらままならないほど震えている。こんなにも日がっているのに、悪寒おかんすら感じている。


 視界のはしに焼きごてが映る。ひどくオレンジに色づき、ゆらゆらと陽炎かげろうをまとわせながら、私へ容赦ようしゃなく近づいてくる。その恐怖を前に、私は言葉すら発することができず、いっそう歯を鳴らし、涙を流すだけだった。


 いやだ、やめて、いやだ、いやだ……!!!


 その熱された先が近づくに連れ、頭の中が恐怖と拒絶きょぜつ幾重いくえにも支配されていく。


 そして、今はどちらの感情が強いのかも分からないほど頭がぐちゃぐちゃになったとき、その焼きごてが私の左肩、鎖骨さこつの下辺りに強く押し付けられた。


「――っ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ッ!!!!!!あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ッ!!!!!!い゛っ゛、ぅ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ッ!!!!」


 痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたい!いたい、いたいいたいいたいいたいやだいたいいいやだいやだいやだ!!!!


 肉が焼ける音と共に、焦げ臭い煙が一気に立ち込める。反射的に強烈きょうれつな激痛から逃れようとするが、大の大人に全身を押さえつけられ、逃れることは叶わない。私にできることは、ただただ全力で叫ぶことだけだった。


 そして声を出すのにも疲れた頃、私は他の奴隷と同じように、硬い土の上に倒れ込んでいた。




                  ◇




 日はしずみ、私たち奴隷は再び納屋の中で横たわっていた。

 ここを出る前にくなっていた奴隷は、いつの間にか居なくなっていた。ただ、今の私にはそんなことはどうでもよかった。


 永遠とも思えるあの時間はとっくの前に終わっている。体力は使い切っている。のども酷く痛い。なのに、左肩の痛みと焼け焦げた匂いのせいで、私は未だに眠りにつくことができなかった。

 あのときに思わず失禁しっきんしてしまったのか、かわききっていない内股うちまたがまだ気持ち悪い。


 いつまでこの地獄は続くのだろう。いつになれば、この痛みは消えるのだろう。まだ思い出せてしまう日本でのあの生活が、今は心の底から恋しい。


 温かいパジャマ、ふかふかの毛布、朝ごはんの味噌汁とサクサクのトースター、温かい電車の座席、暖房の効いた教室、購買こうばいのジュース、スカートの下に履いていた短パン。


 そんなもの、全部ここにはない。


 あるのは痛みと苦しみと、希望のない現状だけ。


 でも、これが今の私の全て。これが、私の現実。


「かえりたい……たすけて……」


 そんな襲いかかる恐怖を前に、思わず言葉が漏れる。

 だけど、今の私には、膝を抱え、ただすすり泣くことしかできなかった。

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