第10歩 ストーブ
ありがたいねぇ
あったかい
しあわせー
と口々に言いながら社員たちが食堂に流れ込んでくる。
今日は社食名物ストーブ開きの日だ。
11月から3月末日まで、朝の9時時点で10度を下回る日に限り、社員食堂では始業から13時まで灯油ストーブがつけられる。
その日は食堂で社内打ち合わせや軽作業をしていいことになっていて、ストーブの上のやかんで沸かしたお湯でコーヒを入れたりカップ麺を作ったりしてもよい。
換気のために開けた窓から入る冷気が心地よいほど暖まった空間には10時から行列ができていて、ストーブ開きの日にだけ振る舞われるぜんざい(もちろんストーブで温められている)を受け取ってめいめい食べ始める。
早い者勝ちなので、例え役員でも並べなければありつけないし、上客であっても並ばなければ決して受け取れない。
新入社員たちに至っては初めての事についていけず、しかもタイミング悪くお客様との打ち合わせを入れてしまった者までいて食べ損ねが続出した。
残念ながら美味しいものを残してくれる優しい先輩先輩がいるはずもなく、「来年頑張れ」と言われるだけなのがこの会社である。
なぜこんな文化が定着したのか、と言うと遡ること十数年、入社半年目の木下次長(当時はまだただの木下でした。)が同期の大岩さんと杉本さんに「寒い!木下くんなんとかして!」と命じられて食堂の責任者に掛け合ったのが始まり、と言い伝えられている。
一説では勝手に大岩さんと杉本さんがストーブを持ち込んで、それを木下次長のせいにした、とも言われている。
何にしても好評で、こうして今日まで続く伝統となったのだ。
ちなみにこのストーブで酒粕を焼いて食べるのが社長の愉しみだったのだが、匂いが強いと不評を買い今では禁じられている。
ぜんざいを作っているのは朱色で「妖怪あずきババア」とかかれた濃紺の前掛けをした杉本さん。彼女は総務のお局様である。
塩昆布とお茶を配っているのは同じく朱色で「守銭奴」とかかれた濃紺の前掛けをした大岩さん。彼女は経理のお局様である。
熱気と湯気でもわもわしている食堂のアイスの自販機の前に社長が立っていて、アイスを奢るために首から小銭の入ったがま口と「アイスサービス中」と書かれた即席と思われるダンボール製の看板を下げている。
社食は幸せな甘い香りと湯気が優しく満ちている。これからやってくる冬の寒さから、この社員たちを守ろうとしているみたいに。
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