第12話 血の山河

 二日後、エセンの使者が来て講和を申し出た。

 渡りに船だ。私は安堵した。蛮族どもも陛下の前では、わきまえている。講和の条件は私にとってたやすい内容だった。下賜の品を元に戻すだけなのだから。


 使者が引き上げ、土木堡の包囲が解かれた。川の周辺からオイラト軍は消えた。そこからが地獄だった。講和の件は完全な罠だったのだ。


 川に駆けつけた明軍は、取って返したオイラトの敵ではなかった。

 土木堡の高台から見える無残な光景。次々とほふられる明の兵士たち。血に染まる大地と川、土煙に混じる怒号と悲鳴、止むこと無き殺戮。


 いつの間にか、甲冑に身を包んだ陛下が営舎を出て、無言でそれを眺めている。私の傍で、微動だにせず……。


 数騎が高台に駆けあがって来る。血まみれのはん将軍だ。

 私は部下と共に陛下を営舎にお連れする。戦場の殺気で陛下を汚してはならない。陛下だけは無事に北京にお戻りいただかねば。


 樊将軍が営舎に飛び込んできた。

「王振! この奸官め! お前こそが明の敵、成敗いたす!!」


何を言っているのだ、この男は。訳が分からない。第一、陛下の御前で血塗りの刃を手にするとは、何という無礼。

 私は陛下の老師せんせいなのだぞ。気安く名前を呼ぶな!


「死ねい、死ねい、王振!」

樊将軍はよろめきながら狂ったように私を追いかける。陛下は呆然とされ、私の部下たちは物陰に逃げるか、立ち尽くしている。


私は叫んだ。

「陛下!」

が、次の声が出ない。


 樊将軍の刃が私の胴を切った。倒れかけた私の胸倉をつかんだ彼の息がヒューヒュー鳴っている。彼の首元から血が滴り落ち、眼から力が尽きようとしている。が、刃は私の胸を貫いた。

「バ……バカな……こんな所で、この私が……」


樊将軍が先にこと切れ、私の体に落ちてきた。土臭い床に血の匂いが広がっていく。

「北京に…戻…るのだ、北京……」


 ああ、なんてひどい場所だ。私に優しくなかった故郷、乾いて埃まみれで痛々しい山々。

 オイラト人の言葉が聞こえる。奴らがここまでやって来たのか。

 陛下……陛下は何をなさって……。

 ああ、陛下、南面に向かって座しておられる。こんな時にも天子としてご立派であられる……私が育てた甲斐があるというもの……。


 視界が暗くなっていく。どんどん暗くなっていく。陛下、御一緒に北京に帰りましょう、あと少しで紫禁城が見えるはず……。



 正統十四年(1449年)、土木堡どぼくほの変、あるいは土木の変と呼ばれる明軍大敗により、皇帝はオイラトの捕虜になった。二十万の明軍と文武百官が戦死し、北京は間もなくオイラト軍に包囲された。

 この時、南京遷都を阻止し、北京を守ったのが兵部尚書に任命された于謙うけんと胆力ある宦官の興安こうあんだった。 


 一年後、朱祁鎮しゅ・きちんは北京に送還され、さらに七年後、皇帝を務めていた弟を幽閉し、皇帝に返り咲いた。

 彼は王振の像を香木で彫らせて葬式を行い、神中寺を建て深く供養した。王振は死後も皇帝の心に生きたのだ。

 その後の宦官たちにとって王振は手本となり、大いに慕われた。そのため、明朝は中期からその末期まで、宦官の跋扈を許し続けたのである。

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宦官・王振、かく語りき セオリンゴ @09eiraku

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