08 アバスターの箱

 結局、占い師の目を覚ますのには、宮廷魔術師の魔力と癒し手の神力の両方を必要とした。それは祭司長と宮廷魔術師の自尊心を半分満たし、半分傷つけた。敗北はしなかったが勝利もしなかったと、彼らがそのように考えていることが言葉の端々から判った。

 何と益のない争いか、とジョリスは思うが、彼らがナイリアン中の神官と魔術師を代表している――と、少なくとも彼らは思っている――ことからすれば致し方のないところもあった。

 だが彼らはそのことについて静かなる言い争いを続けることはなかった。ピニアが目を覚ましたからだ。

 しかしながら、彼女は何も覚えていなかった。

 王城にやってきてジョリスと話をはじめた頃までは覚えているが、そのあとのことは墨で塗りつぶされたかのように真っ黒になっていると。

「ううむ、それはやはり、憑依状態に似ているな」

 祭司長はうなった。

「だがピニア殿、貴女は神女ではない」

「憑依……と言うのかは判りませんが、ごく稀に、強い星が目に入ると私ではない何かが喋り出すことがあります」

 ナイリアンの二大実力者を前に、ゆっくりとピニアは告げた。

「協会の導師に相談したところでは、私が普段眠らせている力だとのことでした」

 彼女の言葉は宮廷魔術師の説明と一致した。「魔術師の理」であれば当然のことだろう。キンロップ祭司長は少し難しい顔をしたが、反論はしなかった。

「ですが、記憶がないというのは初めてです」

 少し不安そうに占い師は言った。

「何が起きたのか、自分でも……」

 彼女はうつむいた。

「三十年前の星という話について伺いたいのですが」

 コルシェントがそっと尋ねた。

「はい、確かに私は見ました。とても不吉な……」

 ピニアは両手で自分の身体を抱いた。

 そうして彼女はもう一度、協会の記録を調べたという話をした。やはり祭司長はいささか胡乱そうだったが、宮廷魔術師が相槌を打つのを黙って聞いていた。

 ジョリスもまた、黙っていた。

 占い師が覚えていないと言ったこと、彼は無論、覚えている。

『箱の封印を』

『タルー神父を探せ』

 「箱」。

 それが何を意味するのか、見当はつく。

 だが――。

「ジョリス様?」

 ずっと騎士が沈黙を保っていることに不安を覚えたか、ピニアが呼んだ。

「箱の……」

 彼は迷った。

「箱?」

「――『封印された箱』と言えば、お三方は何を思われるか」

「何だと?」

「どうなさったのです、突然」

「箱、ですか?」

 三者は目をぱちくりとさせた。

「真っ先に思い浮かぶのは、アバスターの箱だが」

 キンロップが言った。

「まさか貴殿は、『ヴィレドーンの再来』に際し、三十年前の英雄に頼ろうと言うのか?」

「アバスターは確かに英雄の名に相応しい活躍をしましたが、その後の行方は知れません。もし生きていたとしても、六十を越そうという年齢でしょう。黒騎士を相手に剣を振るえるとは思いませんが」

「アバスターの箱とは何ですか?」

 ピニアが首をかしげた。男たちは目を見交わした。

「……そう呼ばれる箱がある。かつてアバスターが、当時の王子殿下にして先々代の王デュール様に託したものだと言われている」

 祭司長と宮廷魔術師が口を開かなかったので、騎士が簡単に説明した。

「箱の中身については極秘となっている。いかな非公式の場であっても、それを口にすることはならぬと」

「ですが、その箱を開ければ再びアバスターが王家に力を貸すと、そうした約束があるとは耳にしています」

 コルシェントが続けた。

「術師」

 咎めるようにキンロップが言った。

「軽々しくお話しになるな。そうしたことを知っていてよいのは我々だけだ」

「失礼。ですが箱の中身についてお話しした訳でもない。もとよりピニア殿は余所に言いふらすような方ではないと思いますが」

「言いません」

 ピニアは誓いの仕草をした。

「アバスター……伝説の英雄ですね」

 四人のなかでいちばん年若いピニアは、アバスターの活躍した時代にはまだ生まれていなかった。

「彼の残した箱が封印されている? ジョリス様はその封印を解くと仰るのですか?」

「いや……」

(そうするようにと、貴女が)

 彼はその言葉を飲み込んだ。

 もとより、彼が気にかかることはほかにもあった。

 三十年前の星。そして「箱」の中身。

「ふん。〈白光の騎士〉ともあろう者が弱腰だな。自らで国を守ろうとは思わぬのか」

「キンロップ殿。ジョリス殿は何も、アバスターに頼るとは仰っていないでしょう」

 コルシェントが諫めた。

「ヴィレドーンの再来などという話になれば、アバスターの箱のことを思い出しても不思議ではありません。三十年前の〈白光の騎士〉ファロー殿のこともありますし……」

「成程」

 キンロップは唇を歪めた。

「裏切りの騎士は〈白光の騎士〉を斬り殺した。オードナー殿はその『再来』を怖れられたという訳か」

「そうは言っていません」

 コルシェントは顔をしかめた。

「いまの言いようはジョリス殿に失礼でしょう」

「む」

 祭司長は眉をひそめ、仕方なさそうに謝罪の仕草をした。

「もとより、箱の開封にはレスダール王陛下のご許可が要ること。陛下がお認めになるのであれば、私たちが口を挟むことではありませんね」

「無論、陛下がお許しになるなら、別の話だ」

 彼らは互いを牽制するように言い合った。

 それからジョリスは話題を換えることも兼ねて、自らの知りたかったことを問うた。即ち、「黒騎士」に関する調査はどうなっているのかという肝心のことだ。

 外部の者がいる前では話せないとキンロップが言ったこともあり、ピニアは席を外した。体調はもう万全ということだったが、ジョリスは案じて兵士をひとり護衛につけた。

 しかし、そうしてやってきた答えは、とてもではないが満足いくものではなかった。

「――これまで、何をしていらしたのか?」

 知らず、ジョリスの口調は険しくなった。

「陛下のご指示があってから、もうひと月になる! その間、あなた方が指示したのは、街道巡回数の増加だけだと!?」

「そう仰いますが、ジョリス殿」

 コルシェントは目を伏せた。

「国中に魔術の網を張ることはできません。地道に人の目で、状況を確かめていかなければ」

「貴殿の要望通り、兵らには守護符を持たせている。あれとて手間であったのだぞ」

 まるで起きていることを理解していないかのような物言いに、ジョリスは呆然とした。

「子供が、殺されているんだ! このひと月の間にも三件の知らせがあった。話の行き渡らない田舎では、ナイリアールまで届けることを考えず内々に処理しているかもしれない。そうしたものを含めば被害は幾人に上るか」

「判っている。たったひとりの人物にそうして国が蹂躙されるなど由々しきことだ」

「そのために右往左往していると知られれば、ナイリアン国の威信にも関わることですね」

「国の威信とは!」

 ジョリスは怒りを抑えることができなくなった。気づけば彼は卓をばんと叩きつけて立ち上がっていた。

「威信をかけるなら、狼藉者を捕らえて処罰することにこそ躍起になるべきであろう!」

「そのように騒げば馬鹿げていると思われるのだ、オードナー殿」

 キンロップは顔をしかめた。

「馬鹿げている? 外聞を気にして、行動を起こさずにいると? 大したことではないというふりをしようと!?」

「オードナー殿、落ち着き給え」

「あなたらしくありませんよ、ジョリス殿」

 彼らは眉をひそめた。

「焦ることはない。軍団長セレキアルに命じて、巡回に出す人数も増やしている。不埒者もいまに見つかろう」

「国が動いたとなれば不埒者も怖れをなして、縮こまってしまっているかもしれませんけれどね」

「成程。この件に関して、あなた方の意見は一致しているという訳だ」

 苦々しくジョリスは言った。

 何ということか。

 力ある者たちとして一切を預けてきたのに、彼らはこれまで警戒の目をくぐり抜けてきた黒い剣士が運よく見つかったり、捕縛を怖れて悪逆非道をやめることだけを期待している!

「――陛下にお話しする」

 どうにか声を抑えて、ジョリスは言った。

「いったい、何を」

 キンロップが問うた。

「誤解しているようだな、〈白光の騎士〉殿。これは陛下のご命令なのだ」

「何と」

「ええ。大ごとにせぬよう、というのは陛下のご希望なのですよ」

「陛下が……」

 ジョリスは力が抜けそうになるのを感じた。

「もしも、陛下がそのように仰ったのであれば、それには……違う意図が」

「それはどのような?」

 尋ねてキンロップは肩をすくめた。

「それは」

 ジョリスは詰まった。

「疑問があるのなら、陛下に直接、お尋ねしてみればよかろう」

 何しろ、と祭司長は続けた。

「貴殿は〈白光の騎士〉。ナイリアンの守り手であるのだからな」

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