第57泳

 四方八方から、驚いた人魚やイソギンチャクの声がする。

「なんだって!」

「誰だ!」

 一人の声が伝染し、二人に、四人に、そして十六人分の注目になっていく。


 大勢に責められるような気配がして、グリンは大慌てである。ぐったりしたリムを抱えて少し泳いだものの、大都市リュウキューウごと目を開いてこちらを追ってくるような感じだ。

 心臓の鼓動は喉まで響く。手も震えてくるが、合せた手の中にはリムがいる。


 ついに、空いていた窓から誰かの家に入り込んだ。狭く、天井も低いせいで圧迫感のある部屋だが、綺麗に整えられている。ハンモックが下がり、小さな机に向いている。壁には一丁の錆びきったライフルが横向きにかかっていて、手芸用の海藻が引っ掛けられている。

 この部屋の玄関のドアはしっかり閉まっていたが、窓が開け放されていたのだ。


「リム! しっかりするんだ!」

 返事のないリムに固まりそうになるグリンだが、気持ちをどうにか押し留めた。

 何かないかとポシェットに手を突っ込むと、シズルとマリンからもらった気付け薬があった。


 グリンはリムを小さな机に寝かせると、勇気で手の震えさえ振り払うと、気付け薬の小瓶を手にとり、開けてぶっかけた。

「うう、うーん」

 リムは途端に目を覚まし、目をパチパチさせている。これがどんなにグリンの心を救ったか知れない。


「良かった! リム!」

 泣きそうに安心したグリンは、悲鳴を聞いて再び凍るような気持ちになった。悲鳴の主は家人で、帰ってきて玄関を開けたところだった。

 その女の人魚はふくよかで髪は短く、丸い鼻と大きな目のおかげで親切そうな顔立ちをしている。その雰囲気通り、いつも陽気で友人も多い。よく通る声を持っていて本人もそれを気に入っているから、気の合う仲間と集まって刺繍をしながら歌うのが好きだ。

 買い物帰りに、普段にも増して騒がしい近所を通り抜けているところ、乱暴者が逃走中と聞いて、恐ろしいから部屋にしっかり内鍵をして隠れていようと思って帰ってきたのだ。

「きゃあー! 泥棒!」

 その気の良い婦人がこんな風に、玄関先で金切り声を上げている。婦人は買い物で手に入れた手芸用の海藻をバッグごと盾にして、声にならない悲鳴と「泥棒」を繰り返す。


 グリンはまた慌てた。こんなに続けて慌てたことはなかった。心臓が飛び出しそうとか、そういうことを感じる暇もない。

 ものすごく不快な感情の端から、友人の無事を見届けた安心までを一直線に走り、気の抜けたところでさらに二撃目の事件の当事者となったのだ。


 動転しきって気付け薬の空き瓶にリムを入れると、さらに困って、とっさに髪の中に隠した。リムはもぐもぐと何か言ったが、寝ぼけてもいた。グリンは回らない舌で、やっと言った。

「で、でてきちゃダメだよ、リム」

「わかったよう、グリン」

 リムはグリンの髪の、さらにビンの中で目をパチパチしながら、自分をすっかり起こそうとしていた。

 説明して分かってもらわなければと思って口を開きかけるが、何を言えばいいのかが定まる前に、頭の中が人々の騒ぐ声で掻き乱される。


「泥棒だって!」

「この家だ!」

 部屋の周りは完全に騒然として、ドアの前で怯えていた婦人は近隣住民に肩を預けて、らんらんとした好奇の目が窓から、そして玄関からグリンに注がれている。

 もうこの状態では、内気なグリンは自分の状況を説明しようという発想も失って、ただおろおろするばかりである。


「どいてどいて」

「泥棒はここです」

 人混みを割ってやってきたのは、玄関ドアほどもある大柄の女の人魚だった。体をかがめて入るのが大変そうだと悟ると、威厳のある重い声でグリンに命令した。

「あんたか、泥棒は。こっちに来なさい」


 このような流れでグリンは乱暴者、かつ泥棒ということになり、投獄されてしまったのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る