お気に入りの部下 (会社員女子(三十九歳) @居酒屋の個室 (その2))
運び込まれたのは二合徳利が三種類。
「古賀君、まだこんなに飲めるの?」
「僕だけじゃないですよ。部長もお願いします」
古賀君はお猪口を私の前にも置き、勝手に注いだ。
「お願いしますって、私、日本酒なんてほとんど飲んだことないんだけど」
私の抵抗を意に介していないようで、古賀君は自分のお猪口にもなみなみと満たし、躊躇なく一気に呷った。
ギュッと目を閉じたのは、液体が喉を通って胃に落ちていく感触に集中しているようだ。
「くー。やっぱり、日本酒はカーッと来ますね。失恋にはこれが一番です」
「え?失恋したの?」
私は思わず前のめりで訊いてしまった。
「まぁ……」
古賀君は苦笑いで酒を注ぐ。
「いつ?」
あまり訊いてはいけない話題ではないかと思いつつ、訊かずにはいられない。
「一昨日です。日曜日にフラれました」
「あらー」
二日しか経っていないとなると、まだ心にできた傷から赤く熱い血がだらだらと流れているだろう。
可哀そうに。
素直にそう思った。
そして、目の前のお猪口に手を伸ばす。
ちびりと啜るように飲むと、喉の奥がカッと焼けるような感触があった。
しかし、意外にフルーティーで飲みやすい。
「飲みましたね」
古賀君が嬉しそうに笑う。
その表情を見られただけでも飲んだ甲斐があった。
「古賀君のために、今日は付き合うわ。それに、古賀君、私が何言っても受け止めてくれるって言ったもんね?」
「さすが、部長。話が分かる。全て僕が受け止めますよ」
古賀君は私に向かって、胸に飛び込むのを求めるように両手を開いた。
マジでそこに飛び込みたい。
「で?何でフラれたの?」
「いきなり直球ですね……」
さすがに古賀君は言い淀んだ。
「じゃあさ、彼女はどういう人?」
私の問いに古賀君はまたグッと日本酒を飲んだ。
「その子とはマッチングアプリで知り合ったんですよ」
「ほうほう」
私も古賀君にペースを合わせて日本酒を飲む。
本当に自分がどうなるか分からないけれど、どうなっても良いような気がしてきた。「それで?」
マッチングアプリ。
そうか。
そういう手もあるのか。
使ってみようかな。
「一回会って、手応えあったんです。また会おうねって約束できたし。それで、一昨日が二回目だったんですけど……」
「ですけど?」
「こうやって、個室で飲んでたんです。それで、だいぶお腹もいっぱいになって、適度に酔って、それでトイレに行った帰りに思い切って彼女の隣に座ってみたんです」
隣に座る。
私はドキッとした。
私が望んでいる展開だ。
「えー。どうやって?」
「どうやってって……」
古賀君はやにわに立ち上がって目の前の障子を開け、一旦廊下に出て、私の近くの障子から個室に戻ってきた。「お邪魔しまーす」
古賀君は掘りごたつの中へ足を突っ込み、半ば強引に私の隣に腰を下ろした。
二の腕が密着する。
古賀君の横顔がすぐ近くにある。
ドキドキして体が熱くなる。
「なるほど。近いね」
「やっぱ、近すぎますか?」
古賀君の赤ら顔が少し強張る。
「私はいいよ」
って言うか、むしろこうしていたい。
「じゃあ、続けますね」
古賀君は手を伸ばして自分のお猪口を手繰り寄せた。
「お一つ、どうぞ」
私は古賀君のお猪口に徳利を傾けた。
何か、いい。
誰かに酌をすることでこんなに高揚したことはない。
「部長に注いでもらえるなんて贅沢ですねぇ」
「役員にしかこんなことしないわよ」
「僕、役員待遇ですかぁ」
古賀君になら役員にもしないようなことをしてもよいけれど、と言ってしまいそうになって、グッと奥歯を噛みしめる。
自分が怖い。
飲み過ぎなのかもしれない。
「で?」
「ああ、そうでした。それで隣に座っても拒否られなかったんで、そのまま、時々肘とか肩とか触れさせながら飲んでて」
「こんな感じ?」
私はちょっと肩をぶつけてみる。
ああ。
このゲームはクライマックスに近づいている。
「そうです。それでも彼女は笑ってくれてて。これはいい感じだと思って、ちょっと手を握ってみたんです」
「うわぁ。いいじゃん」
思わず本心が出てしまった。
私も握られたい。
古賀君の大きな手で包んでほしい。
「こんな感じで」
古賀君がその分厚い左手を私の右手の上に重ねた。
「温かい」
古賀君の手は温かかった。
熱いぐらいだ。
私は息が苦しいぐらいに鼓動が早くなるのを感じた。
「うわっ。それ、その時、彼女にも言われたんです」
古賀君は体をのけぞらせた。
「そうなの?でも、温かいのはいいことだと思うけどなぁ」
私は両手で古賀君の左手を包んだ。
自分の手がカサカサしていないことをひたすら願いながら。
「暖、取ってます?」
「ちょっと、肌寒くって」
この手を自分の胸の膨らみに押し当てたい衝動に駆られる。
この温かい手で私の心の奥に触れてほしい。
だけど、これで満足しなければ。
ゲームはクリアだ。
瞼の裏でエンドロールが流れる。
私は古賀君の手を優しく揉みながら余韻に浸る。「それで?」
「俺が握った手を彼女が凝視してて。ここは勢いで一気に行こうと思ったんです」
「ほうほう」
「だから……」
古賀君はキッと自分のお猪口を睨んだ。「キスしていいか、訊いたんです」
「キャー」
もう頬が火照るのを止められない。
血がたぎる。
「そしたら、ちょっと無理、って。それで、手も外されて。で、そそくさと帰り支度始めて……」
「えー。そこまで許しといて何でだろう」
「ですよね。って部長も今、同じ状況ですけど」
「私は訊かれてないもん」
ゲームがエクストララウンドに進んでいる感覚。
これは、別のエンディングを見ることができるチャンスか。
「じゃあ、キスしていいですか?」
うわっ。
本当にキタ。
「いいよ」
私はおどけた感じで隣に顔を向けて目を閉じた。
後は野となれ山となれ。
こんなキュンキュン、人生でもう二度と来ないかも。「……なんてね」
私は寸でのところで目を開いて笑って見せた。
これはゲームじゃない。
ここで酒の勢いに任せてキスをしてしまっては私も彼も後悔しかない気がする。
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