家庭教師の先生 (高校三年生男子 @自室)
「集中できないんですけどね」
明人は椅子に座ったまま腕組みをして振り返った。
そして、慌てて視線を壁に向ける。
振り返ったときに絵里のパンツが見えてしまったからだ。
スマホを見つめる絵里はベッドに背を預け、膝を三角に立てて床に座っている。
立てた膝の下にできた空間から赤いそれが覗いている。
頬を引きつらせて眉根をひそめるその表情は丸顔で朗らかな絵里が見せたことのないものだった。
有名国立大学に通う明晰な頭脳の持ち主だが、一つのことに集中すると他のすべてがお留守になる彼女はきっとワンピースのスカートの中が見えてしまっていることに気付いていないのだろう。
「え?私、何かした?」
「ため息。スマホが鳴ってからずっと」
問題に集中できなくて、こっちがため息をつきたくなる。
「あー、ごめん、ごめん」
絵里はよいしょと立ち上がって、机にやってきた。「全部解けた?どれどれー」
赤ペンを手に机の上の問題集を覗き込む彼女の耳とうなじが、その温もりが感じられそうなぐらいに目の前にくる。
フワッと良い匂いが漂ってきて、血がたぎりそうになる。
ったく、何だよ。
俺を試しているのか。
それとも、何もできないと思って舐めているのか。
明人はズズーっと椅子のキャスターを引いて彼女と距離を取った。
小柄な絵里は大学二年生。
いかにも運動神経が鈍そうで非力だ。
陸上部で長距離を走る明人は腕力には自信はないが、絵里が相手ならあっという間に組み伏してしまえるだろう。
従って、他に誰もいない平日昼間の家の狭い一室で絵里の貞操を守っているのはひとえに明人の理性と自制心の賜物だと言える。
もう限界だ。
前々から冗談で口にすることはあったが、いよいよだと明人は悟った。
部活と勉強の両立ということで親が用意した家庭教師だが、成績はほとんど変わっていない。
明らかな効果が出ているのなら耐えもするが、明人にとって、知ってか知らずかメスの色気を漂わせる絵里と一時間半密室にいるのは苦行と言える。
彼女が来る度に自分が暴発しそうになるのが怖い。
実際問題、家庭教師の日は絵里が帰った後に、彼女の姿態を思い出して自分で自分を慰めるというのがルーティンになっている。
もう限界。
契約打ち切りにしよう。
「あのさぁ、今月でもう……」
口火を切ろうとして、その火種がジュッと湿って消えた。
絵里の瞳が潤んでいる。
引き結んだ唇が微かに震えている。
「ちょっと、ごめんね」
絵里は姿勢を起こし、俺に背を向けた。「目にゴミが……」
女の涙。
こんな日に契約打ち切りの話はできない。
俺は今、どう振舞うのが正しいのだろう。
高校生の明人にとっては受験勉強よりも難しい問題だった。
しかし、同じ部屋に居て知らないふりもできない。
「これ……」
明人は本棚の上に置いてあったティッシュボックスを差し出した。
絵里は「ありがと」と言って二枚、三枚とティッシュを抜き取る。
泣いている女性にティッシュを差し出す行為は正解のようだ。
これは一つの発見だった。
これからの人生、必ず役に立つ。
しかし……。
ティッシュボックスを机の上に置いて、明人はもう手詰まり感を覚えている。
次の一手が見つからない。
沈黙が重い。
「ごめんね、困らせちゃって」
絵里は化粧が落ちないようにそっと目尻を拭いながら、照れ隠しのように笑った。
さすが大学生。
涙は周囲を困惑させるということは理解している。
「別に……」
明人は仕方なくそう言ってみたが、本心では、何しに来たんだよ、と思っていた。
家庭教師が生徒の前で泣いて生徒を困らせて何がしたいんだ。
しかし、パンツを見てしまった負い目からむげにもできない感じがある。
「あーあ」
何故か絵里は元気溌剌な感じを装って「トゥッ」と明人のベッドに飛び込んだ。
俺のベッドに気軽に寝転ぶな。
そう言おうかと思ったが、腰のくびれから尻の盛り上がりが作り出す体のラインが扇情的でもうしばらく見ていたくなる。
「これ、合ってるってことで良いですか?」
「あ、それ、最後の一問だけ間違ってる。ケアレスミスね。ちょっと確認してみて」
「え?嘘」
明人は机に向き直って問題を見直した。
確かに微分で求めた接線の傾きのプラスマイナスを間違っていて、結果、求める方程式を誤っている。
むむ、と顔をしかめて消しゴムを使った。
集中できていなかった証拠だ。
我ながら情けない。「これで良いですかね?」
ベッドを振り返り、そこ上に女の子座りをして手にした髪の毛先を見つめている絵里に問題集を突き出す。
絵里は問題集を受け取ることなく、ちょっと前傾になって首を伸ばす格好で確認する。
「オッケー。微分の計算は理解できているみたいね」
「次はグラフですか?」
「そうねぇ……」
絵里は何かもの言いたげに毛先を摘まむ。「ねぇ。理由、訊かないの?」
「理由?」
絵里と視線がバチッと合う。
絵里は気まずそうに顔を伏せた。
「何でもない。えっと、次はねぇ……」
「失恋ですか?」
これぐらいの年齢の女性が泣く理由って他にないだろう。
「んー」
絵里は顎に人差し指を当てて天井を見上げた。「男の人って難しいね」
「俺には女子の方が難しいですけどね」
男は単純だ。
自分本位。
深層心理で相手が自分に合わせるべきだと思っている。
その辺りの融通が利かない。
思っていたことと違う状況になると機嫌が悪くなる。
「明人君。今日の分はバイト代なしってことで、ちょっと話聞いてくれない?」
絵里は迷い犬のような、すがりつく目で明人を見つめる。
「いいですけど……」
正直、完全に集中は切れていて、部屋の雰囲気がたるんでしまっている。
ただ、失恋女子を立ち直らせるようなテクニックは持ち合わせていない。「俺で役に立てるかな」
「例えばなんだけど、男の人ってさ……」
絵里は話を切り出したが、恥ずかしそうに顔を赤らめる。「ちょっと、面と向かっては言いにくいな」
「電話の方が良い?」
明人は冗談で机上のスマホを手に取って示す。
絵里は笑って首を横に振り、ポンポンとベッドの自分の座っている横を叩く。
ここに座れということのようだ。
何かで聞いたことがある。
視線が合わない方が緊張を緩和できて話しやすい。
そう理解して明人は拳一つ分ぐらい距離を開けてベッドに腰を下ろした。
が、座った途端に聞く側の明人が緊張感を覚えた。
絵里がすぐ傍に居る。
しかもここはベッド。
話す内容は恋愛について。
取り巻く状況にどこか淫靡な感じを受ける。
「男の人って好きでない人とでも、そうだなぁ……」
絵里が少し顔を赤らめてか細い声で質問してきた。「例えば、キスってできる?」
「えっと……」
いきなりキスの話になって明人は戸惑った。
しかし、戸惑いを見透かされるのも癪に障る。「そりゃ、できるかできないかって言えば、できると思う」
「じゃあ、……それより先は?」
「それは……人によるんじゃないかな」
これが当り障りのない答えだろう。
「好きでもない人とキスをしたり、それよりも先のことをしたりするうちに好きになっちゃうこともあるのかな?」
絵里は彼氏に浮気をされたのだろう。
浮気のつもりが本気になってしまい、絵里は捨てられてしまった。
そういうことか。
略奪愛。
ドラマではよくある話だ。
「男は好きだって言ってくれる女子のこと、むげにできないってところ、あるから」
口にしてから何を言っているのだろうと思ったが、的外れでもないとも思う。
「ふーん」
絵里は何もかも嫌になったような声を出してそのままベッドに仰向けに倒れた。
が、何故か怪訝そうな顔をする。「明人君、ちょっと」
「ん?」
「何か聞こえない?」
絵里は目をキョロキョロ動かし、何かを探っている様子だ。
しかし、俺には何も奇妙な音は耳に入ってきていない。
「え?何が?」
「ここ、かな。このベッドの中……」
絵里が少し顔を起こし、自分が頭を置いていた辺りを凝視する。
「え?何?」
「ここよ。何か聞こえない?」
言われて俺がベッドに耳を近づけると、不意に絵里が俺の首に両手を回し、俺をベッドに引き倒そうとする。
予想もしていなかった絵里の行動に俺は為す術なく体勢を崩し、唇が絵里の唇に不時着する。
絵里はさらに俺の上にのしかかって、唇を押し付けてくる。
絵里が少し力を緩め、俺のまさに目の前で絵里が「へへっ」と笑った。
「明人君。むげにしないでね」
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