10 予兆
「イーノ、軽食を」
「はい」
出店で買ったものを出してもらい、俺も飲食の準備をはじめる。体面上ドレスが汚れそうなものは食べたらちょっとまずいので、焼き菓子やおやきのようなものを手に取る。
それが新市街――下町の屋台の商品だと悟った子爵がぎょっとした顔になる。
「はい、イーノ」
「なんですかこれは」
焼き菓子の一部をむしって渡すと、アインハードは怪訝そうな顔になった。「毒味(おすそわけ)よ」と笑顔で言うと、ああ、という顔になった。さすがに子爵の前では女王らしさから逸脱した行動はとれないからな。ポーズでも毒味してもらうぞ。
アインハードは少し考える素振り見せた後、あ、と口を開けた。
「……では、いただきます」
(アッおい)
こいつ俺の手から食いやがった。
耳に髪をかける仕草が妙に色っぽく、側に控えていた世話役の召使たちが「きゃあ」と声を上げる。
まったく、差し出したんだから手で受け取って自分で食え。横着するんじゃない。
「いい味ですね」
「……そうでしょう」
なんだこの会話、と思いながらも残りの焼き菓子をもさもさ食う。アーモンドが入っているマフィンだった。うまい。
すると、しばらくもしないうちにざわざわと噂する声が聞こえてきた。
「……あれ、女王様も何か食べてる」
「どこか高級なおやつか何か……いや、あれ、下町の店で売っているような食べ物じゃないか? 俺も買って、家族で食べたばかりだから間違いないって」
「女王様が新市街地にある屋台の食べ物を食べるなんてまさか……」
「あっ、見てよあの腕輪……」
腕にはめた銀の腕輪が、太陽の光を反射して輝く。
「うちに買いに来たお嬢様がつけてたものだな」
「じゃああれは女王様だったってこと⁉」
――すごい、じゃあ俺女王様と話しちゃってるんだ、私も店でやりとりしたわ。
見物客の一部で嬉しそうなどよめきが上がる。今は物見の最中だからないだろうが、見物が終わったらすぐに噂が広まりそうな様子だ。
アインハードが「なるほど」と漏らした。
「……あのわざとらしい簡素な変装は、こういうことでしたか」
「ええ。自分で気づいた方が価値があるような気がするでしょう」
気さくで庶民に親しむ女王をアピールするにしたって、そのまま女王の姿で買い物に行けば委縮させてしまう。かといって気づいてもらいたいものは気づいてもらいたいので、簡単な変装にわかりやすい腕輪(めじるし)をつけた。
あの時のお嬢様が実は女王様だった。ちょっとした特別感の演出を狙ったのである。
「では、わざと軽食は自分の手で調達したのも」
「民に親しんでもらうには、まずわたしの方から親しまなければね。ならわしや食べ物を知り、尊重すれば、心を開いてくれるのではと思ったの」
なるほど、そういうお考えがありましたかとアインハードが呟くように言った。あ、いや、まあ、屋台ぶらりがしたかったっていう気持ちもありましたけどね。
ただ、一応何も考えてなかったわけじゃないんだ――ちまちま人気取りご苦労、って自分でも思うけどさ。
(それでも、千里の道も一歩から、だしな)
グレンロイが舞台の中央に現れる。二人での剣舞なので、グレンロイは相方となる舞い手を伴っていた。
流麗な動きで剣舞が始まる。舞い手は互いに剣を打ち合いながらも横笛の音に乗せて動く。舞というよりは、ある程度優雅に見えるよう計算された殺陣のようだった。
(へえ。殺陣っぽいから実戦で使える動きじゃないけど、なかなかいいな)
自信だけ立派な坊ちゃんかと思っていたが、グレンロイもさすが高位の貴族の子息というべきか、相方の動きに比べて遥かに洗練されている。
――とはいえ、と隠れて苦笑する。
(王宮近衛の剣術とか……何よりアインハードの戦いを見ちゃうとな)
モノが違うのだから剣舞と実際の剣術を比べるなんて野暮であることはわかってる。だが、アインハードのような達人の立ち回りを見ていると、どうしても剣舞の動きと比べたくなってしまうのだ。
(てかアインハードならもっとうまく舞うだろうし。同じく、シャルロットが舞えばあの精霊姫たちよりずっと奇麗だろうし。……って、俺は何を考えてるんだか……)
身内面か? シャルロットはともかくアインハードまで。元悪役の分際で。
なんだか勝手に恥ずかしくなって咳払いをすると、アインハードが怪訝な目を向けてくる。ほっとけ。
「……あ」
ふと見れば、まさに日が舞台の後ろに沈んでいっていた。舞台の上の舞い手たちが、背後から強い光に照らされ、シルエットに見える。眩しくて目を細める。
絵のような光景だと思った。夕日をバックにした奉納剣舞。
笛が物悲しくささやかになっていき、最後のフレーズに差し掛かる。
――そして。
ドオ……ン。
笛の音を掻き消す轟音とともに、大地が揺れた。
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