美と共に歩んでゆく生(テーマ:「第一座右の銘」)
「自然は芸術を模倣する」という言葉がある。
オスカー・ワイルドが『虚言の衰退』という随筆に記したものだ。これは哲学者のアリストテレスが語った「芸術は自然を模倣する」という言葉のアンチテーゼだとされている。
ワイルドは芸術や美こそが全てに先立つものだと考えた。もしこの世に芸術がなければ、我々は自然や人生、ありとあらゆるものに美を感じることはなかっただろう、と言うように。
それでは、「美」とは何なのか。
私は「個人にとっての価値」だと考える。これは良いものだ、これは面白いものだ、これはカッコいいものだ、これは可愛いものだ。そういったポジティブな感情全てをひっくるめた、その者にとって価値あるものの総体こそが美なのだ。価値観は人それぞれであり、ゆえに美も人の数だけあると言える。
私は基本的に認知科学的な独我論を支持している。私達が感じている世界とは自らの脳が身体からの情報をもとに生み出した仮象であり、決してその外側に出ることは出来ない。どこまでいっても私達は自らの主観というある種の檻に囚われているのだ。詩人のエミリ・ディキンソン的に言えば「頭の中は空より広い」だ。
生物学者のユクスキュルは環世界という考えを提唱した。それはあらゆる動物はその種特有の知覚が生み出した独自の世界を生きている、というものだ。その考えは突き詰めれば、種に限らず個々に適用できるだろう。
一人一人が持つ主観的な仮象の世界、それらを包括する言わば客観的な実在の世界。社会学者の見田宗介(真木悠介)はそんな二つの世界の前者を「世界」とし、後者を〈世界〉として書き分けたので、本稿でもそれに倣うことにする。
では、「世界」と〈世界〉を隔てるものとは何なのか。それは価値観である。私達は常に自らの無意識的な価値観というフィルターを通してしか世界に触れることが出来ない。私の「世界」とあなたの「世界」は直接は重ならない。けれども、その一面を互いに映し出しているとも言える。決して単純な二元論ではない。
私の価値観で見たあなたを感じることは出来る。それは確かに私の「世界」の一部なのである。作家の宮沢賢治が『春と修羅』の序に記した「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに みんなのおのおののなかのすべてですから」というように。
私達の「世界」はいつでもお互いの「世界」を映し出している。これは元を辿れば、仏教へと通じる考えである。
ここで芸術という営みに戻ってくる。
芸術とは美を描くことだ。そして、美とは個人としての価値である。
価値観は土台のように人生を通じてゆっくりと培われていき、「世界」と重なる。そこにはその者の人生が表れているとも言える。
すなわち、芸術とは己の人生を描くことにも繋がる。ゆえに哲学者のベルクソンは「芸術家が私たちに暗示する感情や思想が彼の生涯の大なり小なり相当の部分を表現し凝縮している」と述べた。
私の「世界」における価値あるものを〈世界〉に送り出し、誰かの「世界」に伝えようという営み。何かを美味しいと感じた時、誰かにそれを伝えようとする行いは既に芸術である。そういう意味では誰もが広義の芸術家と言える。明確な作品を介するか介さないかは些細なことでしかない。
ただ、私の芸術は〈世界〉を経由して、あなたの「世界」に届くが、その時にはあなたの価値観、見方に左右されてしまう。受け取り手のフィルターを介さずして作品が受容されることはあり得ない。同じ知識、同じ価値観のもとに作品は受け取られない。それゆえに、芸術とは常に祈りのようである。
ならば、なぜ芸術家は美を追い求めるのか。芸術をし続けるのか。それは己の価値観を、人生を、「世界」を肯定する行いだからである。それは時に他者や社会との摩擦を生むであろう。決して独りよがりを意味する生き方ではない。そこで折り合いを付けることを良しとするのもまた一つの価値観である。
けれども、決して美を捨ててはならない。その感覚、価値観をなかったものにしてはいけない。それは己の生をやめることに他ならないのだ。
芸術家とは、気まぐれで不合理な美に手を伸ばし続け、誰でもない己の生を生きる者を表した言葉である。
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