二五話 ひどい。そんなことを、言うなんて


「お前、ジンというのか」


「……」


「威勢が出張したか。いまさら?」


 なにを言われても私は答えられない。異形に近しい顔だけでなく、異能も見られてしまったのだ。この宦官かんがんが上、皇帝こうてい陛下に「危うい者が後宮こうきゅう内に入り込んでいる」と報告しさえすれば陛下も無視はできない。……と、いいなあ。私の希望はたいがい叶わない。


 そういうふうになっている。私にハオは命あれ、と願ってくれたが幸あれ、とは願わなかったかのよう、私に幸福、なるものは一向に訪れなかった。ありえなかったからだ。


 それはつまり、そういうことなのかもしれない。私は、生きていてもいいが、けっして幸せになってはならない命である。そういう、裏付けとなっている。と、いうこと?


「――忘れない」


 私を覆い守る水の膜を貫く声。あの男の声はなんと言った? 「忘れない」だと?


 私が恐々視線をあげるとユエの向こう、あの男が静かな、なのに熱意を孕んだ瞳で私を見据えているのが見えた。その視線に含まれているのは並々ならぬ激情のようなもの。


 どうして、忘れてくれないと言う? 私を、そんなに笑いたいのか。虚仮こけにして、バカな女だと、汚いと、この後宮にりながらなんとみにくやかなことだ、と言いたいのか?


 ひどい。と、はじめて思った。これまで考えたこともなかったのに、あのむらでどんな仕打ちを受けたとて「仕方がない」とすっかり諦めていたというのに。なんでなんだ。


「忘れられるものか……っ」


 それだけ言って男は身をひるがえした。月が珍しく殺気立っているせいである、と思う。


 さすが。一〇〇〇年以上を生きた白面金毛九尾はくめんきんもうきゅうびきつねであり、獣のあやかしでは上位に喰い込む、と以前旅路で言っていたのは誇張ではなかったらしい。痺れるほどの殺気。


 あのしつこい男がたまらず退散した筈だ。


 私は周囲を消火しながら水の結界を解除する。ふらり、とよろけたところを月が助けてくれる。私は抵抗する気力も残っていなかった。すごく、非常に、とっても疲れた。


「静、大丈夫か? ああ言って遅いので探しに来たのぢゃが……。恐ろしかったな」


「っ、そん、なことでも」


「いや、無理をするな。ぬしはもう少し素直になるべきぢゃ。怖い目にうたなら甘えてくるがよい。誰もとがめぬようなことを責められる対象と思い込むのはぬしの悪癖あくへきぞ」


「だって、私は。私は……っ」


「そうぢゃのう。ずっと害されてきたのぢゃ。そう易々言葉も呑めないであろうな」


 言って、月は私の体をそっと抱いて背をトントン叩いてくれる。熱い、獣の体温だったがそれがどういうわけか心地いい。さっきの男も熱かったが、それと違うぬくもり。


 あの男はなぜだか、私を、この浩という大鬼妖だいきようを宿す私をおびやかすふう感じられた。


 だから、そう、恐ろしかったという月の表現は存外間違ってもいない。怖かった。


 恐ろしかったし、逃げたかったのに、あの男は逃がすまいとしてきて余計に……怖かった。あの邑での折檻せっかんよりなにより怖かった。月はしばらくの間私を抱きしめていた。


「さ、戻るぞ。もうみな夕餉ゆうげも終えた」


「ん。あの、月」


「うん?」


「ご、めん。あ、りが、とう」


「! ……ほんに恐ろしかったんぢゃな」


 月の言葉は優しい。私が、いつだって怖いもの知らずに無礼を通す私が素直に礼や謝罪を口にしたもんだから月には私が本当に怖かったと伝わったらしい。手を繫がれる。


 まるで迷子の幼児にそうするよう。私の手を取ってしっかりとでも強すぎない程度で力をこめてきてくれる。嬉し、かった。こんなふうにされたのははじめてだったから。


 でも、これは月が珍しいのではなく私が珍しく弱って弱さをさらけだしてしまっているからだ。そうじゃなきゃ、月だってここまで世話を焼こうなんてしなかった筈だし。


 ふたり並んで瓦礫がれき廃虚はいきょの中を進んでいった。ゆっくり歩んでいく最中、話題はあの男がどこの誰で、どれほど権限がある者なのだろう? という点だった。桜綾ヨウリン様に迷惑をかけるのは忍びない。ただでさえ私を押しつけられた形になるのにこれ以上迷惑など。


「あの男、かなり権威のある者であろうよ」


「そう、なのか?」


「ああ。衣服もしっかりしておったし、佩玉はいぎょくもアレは相当高貴でないと許されんぞ」


「……そう」


「なにがあった? また暴言か?」


「だったら、よかったのに」


 それから月に顔を見られたことを伝えてあの男が去り際「忘れない」と言ったことが今すごく心に負担だ、と告げると月はぎょっとした様子であの男をなぜか評してきた。


 なんでだよ? ひとがこんなに心労抱えているってのに「あの小わっぱ、よお命があったのう」だのと言っているんだ、てめえは。被害者は私だっつーの。アレ、加害者。


 ……ある意味、被害者ではあるか。私なんかの顔を見たんだ。それについても月は驚きと羨ましい、とばかりの調子で「わらわも見たいのー?」と言いはじめたので手を放す。


「この程度で怒るでない、静」


「うるせえっ茶化ちゃかしやがって」


「なーんぢゃ、真剣にぬしの素顔が見たいだけの好奇心をふざけ心と混同しおって」


 真剣なのになんで好奇心がでてくんだよおかしいだろうが。と、いうわけで黙殺もくさつに処した私は黒亀宮こくきぐうに帰って心配そうな桜綾様に頼んで応接間の椅子で眠らせてもらった。


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