二三話 ひとりになれた筈、だったのに


 歩きだす。人気ひとけのないそこからさらに奥の方へ向かっていき、なんだろう、廃虚はいきょ遺跡いせき名残なごりを刻んでいる一帯に抜けた私はちょうどよい岩を見つけてひょい、と跳んだ。


 岩に腰をおろし、照りつける太陽が隠れはじめた空を見上げ、周囲をちらり、と見渡したがものの見事に誰もいない。ひとが寄りつかない場所、なのだろうか? いいね。


 ……。よし、だいぶ思考が冷却されてきたし、鬼面おにめんを綺麗にしよう。後頭部の紐をほどき、面を外して素顔を夕暮れ近づく後宮こうきゅうの場に開放する。誰もいないから今日は少し研いてあげよう。そう思って空気中の水のを集めて手のひらにめ、面をくぐらせる。


 手の一振りで水を地に打ち捨て、桜綾ヨウリン様に借りた服のたもと、はさすがに悪いので手巾しゅきんをだして丁寧に、丁寧に拭いていく。ずっと、私と一緒の面は会うこと叶わぬハオの代理。


 この面があれば、つけていれば、浩が矢面やおもてに立って私を守ってくれるような気がしていつからだったか忘れてしまったが手放せなくなった。むらの連中が浴びせてくる心ない言葉に、容赦ない折檻せっかんに耐える為に必要だった私にとって必須の盾であり、ほこでもある。


 乱暴な言葉で牽制する。威嚇いかくする。それをふるう為にはこれがなければダメだった。


 私の弱さの象徴であり、強さだと思い込みたい幼さの名残。体も歳も大人なのに。


 私自身はおそらく五歳にも到達していないであろうほどに、弱い。弱すぎるのだ。弱くて、非力で、幼い心身を必死で守り隠し庇う為の鬼の面を見つめる。嗚呼、なんて。


「……お似合い、だな」


「なにがだ」


 驚いた、なんてものじゃなかった。急に声をかけられてというか、近づかれていることにも気づかなかったなんてどんだけ集中していたんだ。不覚すぎるが、驚いても面を顔に当てるのは咄嗟とっさにできたのでそこは褒めてあげたい。私は早鐘はやがねの心臓を落ち着ける。


 男の声。ここ、後宮で男なら男の象徴を切除した宦官かんがんか、もしくは……いや、こんなさびれ果てた場所に皇族こうぞくが来る筈がない。それにこの声、皇帝こうてい陛下じゃない。なら――。


 おそらく見回りの宦官だな。そう落ち着いた私は身分保証書はまだかかるか、と思ったのでいぶかしんでいる相手に適切な言葉を投げてやった。声は、ひっくり返っていたが。


「なん、なんの、用だ?」


「こちらの台詞だ。ここでなにをしている」


「散歩。ついでに、手入れ」


 私の背後で訝しむ空気が濃くなる。そして、私が鬼面の紐を縛ろうと面から手を放して紐を手繰たぐった瞬間はかったような間で肩を掴まれてぐ、と強引に振り向かせられて面がずり落ちてしまった。あ、と思った時にはすでに遅く。相手は驚愕の表情を浮かべた。


 私もはじめて、真っ向からひとの顔を見た。見て、二重に驚いてしまった。端整、という言葉がここほど似合う男性もいない。キリリとした鋭い色の眼差しは獣のようであるが、獣らしからず理性と知性に満ちた漆黒。す、っと通った鼻筋。薄い唇。……綺麗。


 相手の、宦官だとしたら衝撃のあまり号泣する娘が溢れそうなほど美麗な男性の唇はなにか呟いた。小さな、声。ただ、小さすぎてなにを言ったのか、聞こえなかったが。


 私は動けない。あまりにも唐突で硬直してしまって膝に落ちた面を拾うこともできないまま、男性と見つめあう格好となる。相手の美男子は私の顔を、醜いかおを食い入るように見つめていて、というところまで気づいて私は男の手を振り払って面を顔に当てる。


 どう、しよう。見られた。それも、あんなふうがっつり見つめられるなんて……。


「お前……」


「い、いわ」


「?」


「忘れてくれっ、誰に、も言わない、で」


「お、おい?」


 取り乱して、泣きそうな声で叫ぶ私。みっともないし無様だ。なんという、こと。あんなふう、見られるなんて。この醜い顔を、まじまじと見てくるなんて。……ああっ!


 恥ずかしい。この醜悪しゅうあくで汚らわしい穢れに満ちた顔をこんな美人に見られるとか。


 油断するにもほどがある。ユエの前でだって気を張っていたのに、完全に抜けていたのはどうして? ぬくもりに触れて気が緩んでしまったせい、だろうか。いや、そうだ。


 俯いたまま納得した私は頭の後ろで紐をしっかり結んで顔をあげた。相手はさらに驚いて見えた。唇が動いた。「なぜ?」と。なぜ、なぜっていうのはそれこそなぜ、だ?


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