ひとりになりたかった。ところがどっこい

二二話 暮れなずむ空の下、駆けゆく


夕餉ゆうげまでまだありますし、親睦しんぼくを深めるのに茶会ちゃかいをいたしましょ。ね、ジンユエ?」


わらわはどちらかといえば酒をやりたい」


「まあ。でしたらせっかくですし、優杏ユアンに酒のたしなみを教授していただけませんか?」


「お、お母様っ!?」


「月は強そうですし、静も」


「私は結構だ。月に頼んでくれ。のぼせたから涼んでくる。夕餉もらないから月、私の分はてめえが食っておいてくれ。めんも洗っておきたい。夜までには、戻る。だから」


 お願いだから、放っておいてくれ。慣れねえんだよ、こんなあったかいの。こんな安らかな空気。せ返りそうで、吐き気がする。反吐へどがでそう。居心地悪くてならない。


 ずっと、ずっと、そしてずっと冷たくてくらい目で見られてきた。そしられて……さげすまれてあなどられてあざけられて冷遇れいぐうされて当然だった。なのに、こんな甲斐甲斐かいがいしくされたらっ。


 息が苦しくて、喉が詰まって。これまでの日々がことさら惨めに思い起こされてしんどくなってならない。だから、ひとりになりたい。ひとりにしてくれ。昔の、ように。


「……。いってらっしゃい」


「っ、う、うるせえ!」


 暴言をひとつ吐き捨てて私は黒亀宮こくきぐうを飛びだして扉を勢いよく閉め、弾かれたように駆けだした。どこかないか? ひとが寄りつかなさそうな場所、誰も来ないどこか!?


 胸を押さえる。苦しい、痛い、つらい。どうしてだ、温かい場所なのに。ずっと夢見ていた憧れのぬくもりが溢れるところだというのになぜ、なんで、どうして痛いんだよ?


「は、は、はあ……っ」


 そうして、駆けて駆けて。走って走って。黒亀宮から離れすぎないでも充分距離を置いた場所で足を止める。振り返れば遠く黒亀宮の輪郭りんかくが見える。……さすがにまずい?


 でも、もう吐きだしたもんは戻らない。覆水ふくすいがけっしてぼんに返らないのと同じで。


 新しい水を注ぐことはできても同じものを元に戻すのは絶対にできない。この世は皮肉に満ち溢れている。大鬼妖だいきよう魅入みいられるほどこの身には妖気がみやすいのに式無しきなし


 でも、式無というのはこと後宮こうきゅうにおいては不利にはならない。なにせ、しきをつけることを免除されているのはほかでもない皇族こうぞくたちと後宮に住まうきさきたちなのだから――。


 が、言い替えればそれは後宮でハオの力を使うのは後ろ指差される要因になるということであり、奇異や好奇ならまだしも恐怖や嫌悪の目を向けられる、ということだ。……まあ、これまで通りといえばそうだが。式をかいさず妖力を操れる私は異端中の異端な者。


 それこそ私そのものがあやかしだ、と判じられても仕方ないくらいには異常者で。


「……アホくさぁ」


 終わったことを悔いるくらいならおとなしくもてなされておけばいいのに。終わってから変に後悔するなんてアホ臭すぎ。そこはかとないバカしゅうがする。だけど、だって。


 あんなふうにされるなんてはじめてでどうしたらいいかわからない。私は、まともに感謝も謝罪もしたことがない。「ありがとう」も「ごめんなさい」も音は知っているが唱えたことはない。だって、そんな機会、一個としてなかった。相手も場もなにもかも。


 なにひとつとしてなかったから。無知で、そういう意味では赤子のままの精神。成長できない弱い心。なにも知らぬまま体だけ育ってしまった究極の世間知らずで愚者ぐしゃだ。


 桜綾ヨウリン様たちを傷つけたいわけではない。月とだってもう少しまともに交流したいとは思うけど、だけどもしもを考えると胸がうずく。目の前が真っ暗になる。だから、拒む。


 私が傷つかないように、しているんだと思うと自分の弱さと愚かしさが恥ずかしくて死にたくなる。いっそ、死んでしまえたら、楽なのに。こんな複雑さに、煩雑はんざつな様に懊悩おうのうを抱えることもなくなって在れるのに。どうしてこう、うまくいかないんだろうなあ。


 消えて、しまいたい。何度そう願ったことか。あのむらで旅先でそして、ここでも。どうやったら正当に命を全うできるだろう。まともに生きて死ねば浩も許してくれるだろうに。そんな方法もなぜ生きているのかもわからない私は本当に能なしならぬ脳なしだ。


 脳の中身空っぽだ。なにも教わらなかった。読み書きは月が教えてくれたが、それもごく簡単なものだけだ。自分の名前と、まわりで気が置けない誰かの名と、短い挨拶。


 それだけ。とてもまともな職には就けない程度の知識だけ詰め込んだ。充分だと思ったし、思いたかった。大事なひとなんていないし、現れるわけがない。私なんか、が。


 ――恋なんて、するわけないんだから。


 誰かを愛することもない。あったとしてそれは親しみの情までだ、と予想にやすい。


 それに、誰が歓迎するだろう? 鬼妖を宿す娘に情を傾けられることを誰が……。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る