第21話・LIBERTY③
俺ひとりが加わったところで、車両工場の仕事は変わらない。東京〜門司駅間で間もなく運転を開始する
しかし、軍部が敵だと言った贅沢品の予備など、工場にはない。ビロードを求められ、航空兵の飛行眼鏡に使われていたと思い出し、八王子の業者まで出向いて頭を下げた。今は、大阪の百貨店から安楽椅子を引き取って、盗まれないよう荷物車に同乗して持ち帰っている、その最中だ。
荷物に囲まれている俺は、客人の椅子には座らずに、そのすぐそばで尻をついて寄り添うだけだ。
どこかの駅に停車した。ドサドサと郵便や荷物を積み下ろしている音が聞こえる。と、この荷物車の扉が開いた。ここにも降ろす荷があるのかと思ったが、そうではなかった。
「あんた、大井工場から来たんだって? 腹減ったろう、差し入れだ」
駅員が握り飯を差し出してきた。銀シャリがない雑穀だらけの握り飯を。
腹は、いつも減っている。配給品は足りないし、闇市は相変わらず高く、農家と交換するような品もない。その上、物価上昇も止まらない。だから駅員の心遣いが、ありがたかった。
礼とともに、握り飯に手を伸ばす。すると駅員の背後に留め置かれた異形の貨車に目が止まった。
「あれを知らないのか? トキ900って、糞の役にも立たない貨車だ」
トラックのト、屋根がない貨車を意味している。キは25トン以上、貨車の最大積載量を指す。屋根のない短い車体に、多く積むための背が高い側面板、そして三軸六輪がガッシリ固定されている。中央の車輪が曲線区間でつっかえるのが、素人目にもわかってしまう。
軍事輸送の効率化のため、レールが許容する限界まで積載させる工夫だろうが、こんなものを本気で作っていたのかと、呆れた。
しかし駅員は嬉々として、役立たずのトキ900にまつわる話を続ける。その歪んだ笑みは、間違いなく嘲笑だった。
「大井から来たなら、63型電車やD52は知っているだろう? 本当かどうかは知らんが、そいつらまとめてお披露目したら、東條が『これはいつまで保つか』と言ったそうだ。困った担当者が『大日本帝国が勝つまで保ちます』と答えたそうよ」
駅員は、下卑た笑いを荷物車内に響かせた。
列車の足を引っ張るトキ900と、虜囚だった俺が重なっていく。駅員の嘲笑が身に沁みて、握り飯がズシリと重い。
すると駅員は悪戯っ子に手をこまねいている親の目をして、慈しみに満ちた溜め息をついた。
「それでも、頼らなきゃならねぇ。真ん中の車軸が邪魔なだけで、他は真っ当な部品を使っているからな。いずれ余裕が出来たら、まともな貨車に生まれ変わるだろうよ」
そうだ、戦争が終わり、俺は除隊となったんだ。
そう思った途端、自由の翼が広がった。胸の傷痕は引っかかっているが、もう軍人ではない。生まれ変わるんだ、俺もトキ900も、新しい日本を築くために。
来たるべき明日を迎えるため、俺は握り飯に食らいついた。
* * *
大井工場に帰っても、GHQの手足のように奔走するばかりで、焼けた車両の修繕には手をつけられない。鉄の骸を横目で見て、苦々しく作業する日々を送った。
ある日、骨だけになった電車が誰かの手によって引き取られていった。いずれ直してやるのだと決心していた俺は、お供え物を掻っ攫われたお稲荷様のように、去りゆく鳶をぽかんと見つめた。
すると年配の工員が、寂しそうに俺の肩をポンと叩いた。
「新入り、あれは西武が引き取って直すそうだ」
「西武? 西武鉄道ですか?」
「車両が足りないのは、我々だけじゃない。被害が少なかった私鉄も、買い出しや復員に追われているんだ」
「それでは、鉄道総局の車両不足は解消しません。新製はGHQに禁じられていますから、悪化の一途を辿るのみです」
すると年配工員は、勤めを終えて眠りにつく電車を指差した。
「西武に引き取らせたのは17メートル三扉、あれは20メートル四扉だ。少しずつの玉突きだが、輸送力は向上している」
このモハ63型電車には、乗ったことがある。梁が剥き出しの肋骨天井、ぽつりぽつりと灯る裸電球、ところどころを這っている電気配線。あまりに酷い造りに、乗車を躊躇うほどだった。
そんな電車でも欲しいと、私鉄各社が声を上げている。発注したモハ63型は六百両、そのうち百二十両が東武や東急、名鉄や山陽、近畿日本に渡る予定だ。その引き換えに、旧来の小型な電車を地方中小私鉄に譲渡する約束つきで。
しかし、この大柄なモハ63型を走らせられる私鉄は限られている。東急では、かつての小田急と
空襲被害と物資不足、買い出しと復員輸送に起因する輸送力の低下に悩んでいるのは、鉄道総局だけではないのだ。
硬い表情をしていると、年配工員が身体を屈めてモハ63型の足回りを指した。
「あんな電車でも、作った方がいい。台車を見ろ、日本の意地が見えるぞ」
同じように身体を屈めて、言われたとおりに台車を見る。工廠で働いていたから、俺には意地とやらが何かわかった。
「ベアリングだ。失ってはならない技術を、63型は台車に託したんだ」
日本の工業は復活出来る、この台車を作り続けている限り。ベアリングが放つ希望の光に、年配工員は目を細めていた。
しかし俺には、ベアリングよりも明日の飯が不安だった。この老兵は、武士は食わねどと言いたいのだろうが、夢に見た希望の明日も、飢えてしまえば迎えられない。
ベアリングではなく缶詰を、と願った俺は現実に引き戻された。
GHQのトラックが工場へと乗りつけて、それをレイ中尉が上機嫌で迎え入れた。幌をめくり積荷を見ると、俺たち工員を呼びつけた。
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