厨房のハンナさん
とにかく腹が減った…
ふらふらと庭に出ると…
どこからか良い香りがしてきた。
皆が食事を取る広間の横の小さな厨房では、昼食の用意がなされているのだろう…空腹の僕には、たまらない香りがして来るので、思わずヨダレが垂れてきた。
フラフラとそちらへ行ってみる。
裏戸からソロリと除くと、
僕の物干し気な視線に気付いたのか、こちらを見てきた。
「あー、あの喋れない子ね、どうしたの?」
昨日、アルさんが僕を紹介して回ってくれた時に、彼女にも会っていた事を思い出した。
かき混ぜる手を止め、こちらにやって来てくれた。
すると、僕のお腹が盛大になった。
ぐーーーきゅるきゅる。
「お腹空いてるのかい?」
ブンブンと首を縦振りした。
アハハハと大笑いされ、ちょっと待ってて…と言い残し大鍋の方へ。
トレイに、スープとパンを乗せて持ってきてくれた。
「ほら、そこの椅子のとこで食べておいで」
外を指差された。
確かに天気も良いし、外での食事は楽しそうだ。
言われた通りに、木で出来た長椅子に腰掛けた。
膝にトレイを乗せて、手を合わせる。
声には出さず、心の中でいただきますと唱えた。
暖かいスープとパンが腹に染み渡る。
クタクタに煮込まれた野菜のスープは、柔らかな味わいで、とにかく美味かった。
ペロリと平らげ、僕がトレイを返しに行くと、女性は椅子に座って、休憩なのか、お茶を飲んでいた。
「満たされたかい?」
僕はコクリと頷き、彼女のエプロンの裾を指差す、針を取り出し、縫う真似事をする。
「ん?あー、貴方、何か縫ってくれるの?」
うんうんと頷き、隣に腰かけた。
エプロンの裾を持ち上げ、針を落とす。
ものの10分程で、小さく青いネモフィラの花を刺繍した。
「へぇー流石だねぇ。ありがとうね、これは気分が上がるねぇ。私は、この食堂を仕切ってるハンナだよ、よろしくね。もうすぐお昼だから、またおいで」
腹も満たされ、刺繍の御礼まで言われ、僕は凄く良い気分で仕立て部屋に戻った。
「どこまで行ってたの?」
エマさんは布から顔を上げ、少し咎めるように言ったが、僕がぺこりとお辞儀すると、溜息を1つついて、また布へと向かった。
話が出来ない相手との交流は、相手も疲れるのだろう。
僕は仕事を与えられないまま、皆の作業を見ていた。
長年しているのであろう、その手の動きは、とても流麗でリズミカル。
空間に流れる音は布の擦れる少しの音と、糸を切るハサミの音。
とても静かで、穏やか…
少し部屋が暗い事だけが気になる…縫い目が見難くは無いのだろうか?
「さぁ、そろそろ昼食だと思うから、中断して」
エマさんの声掛けに、皆が一斉に針を置いた。
僕もみんなの後ろをのそのそと付いて行った。
広間に入って、奥の方へ皆が座ったので、ボクもそれに習って座ると、ポンと肩を叩かれた。
肩を叩いた主は、ハンナさんだった。
ウィンク1つ寄越し、エプロンの裾を少し大袈裟にヒラヒラとさせている、僕の刺繍した場所だ。
僕は、これがかなり嬉しかった。
実際に僕が刺繍した物を持っている人を自分の目で見るのは初めてだった。
しかも、喜んでくれているみたいで。
とても新しい感覚だった。
いつもは注文された通りに刺繍して、その後は父上に任せていたので、それがどうなったのかは知らなかった。
僕は、ただただ…部屋で刺繍をしているだけだった。
それも他の誰かの物と比べてでは無く、自分の作った物と比べて、出来栄えを判断していた。
自分との闘いだったのだ、ある意味では。
妥協するか、もっと縫い目を揃えて
あとは納期に合わせて、どこまでの事が出来るか…自己研鑽でしかなかった。
誰かが僕の刺繍した物を喜んでくれるんだ…当たり前なのかもしれないけど、それに全く気付いていなかった。
出来るからする位にしか思っていなかったから…むしろ、他の事が出来ないから。
ハンナさんは、美味しいご飯が作れる。
エマさんは、素晴らし刺繍の技を持っている。
僕は、精密だけど大胆な刺繍が出来る。
これが同じ位に尊い事だとは思ってなかった。
そうか、だから、エマさんも…他のお針子のみんなも、自信ありげに見えたのだ。それぞれの仕事を誇らしく思っているのだろう。そして王宮で働けるとは、そういう事か。
小さな世界で、家族に毒ばかり吐いていた自分を少し恥ずかしいと思った。
かといって、この性格が簡単に治るとは思えないけど。
まぁ、ここでは、口は聞けないので、そこは大丈夫だ。
僕は、さっき既に貰ったから、スープは2度目なのに、やっぱりとても美味しかった。
空腹だけが調味料では無いのだろう、ハンナさんのスープは絶品だった。
作った人が分かると、美味しさはアップするのだろうか?
昨日よりずっと、晩御飯がとても楽しみになった。
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