褪せる世界
光の三原色という言葉を知っているだろうか?
赤と緑と青三つが重なると白になるあれだ。
この世界は色に満ち溢れている。光の波長の長さによって色味が異なってくるが、物体が反射する波長も個々の特性によって異なるからだ。赤い波長しか反射しない物体、青い波長しか反射しない物体とでそれぞれの色彩が強く出るのだ。当然、混色もあるが。
この世界の色彩は失われつつある。
あるものは白に、あるものは黒に。
もともとこの世界には色彩が溢れていたという。
だが今、人々の目には色彩が映らない。
白視病という原因不明の奇病のせいだ。大脳皮質の色覚を認識する領域が白質化——壊死することにより、色彩の感覚が徐々に失われていくという。それは即ち、
疫病が慢性的になると日常化するように。
あるいは、自己の中で受け入れる基盤ができたのかもしれない。
どうやら人は、モノクロの中でも生きられるようだ。これが、適応能力というやつなのだろう。ちょうど夜行性の動物がモノクロームの中で生きていくように。
ぼくはかつて、画家だった。
しかし色彩が失われた今、廃業を余儀なくされた。ぼくにとっては死んだ世界そのものだった。
かつてのぼくは、狂おしい程に色彩にこだわりを持っていた。豊かな色彩を自在に操っていた。
ついたあだ名は、色彩の魔術師。
ところが今は、生ける
白しかない病室のベッドの上で、呆然と余生を過ごすことしかできない。治療中とのことだが、何の治療かは主治医でさえも理解の範疇を超えているらしい。時々見舞いに来る政府のお偉方と二、三会話しているのを眺めていたこともあった。研究者らしき者達が出入りしているのも見ている。
だが、ただ漫然と検査室と病室を行ったり来たりしている日々を過ごしている。
どうやらぼくは、特別扱いらしい。
昔、天才とほめそやされていたからだろうか?
「面会?」
「ええ、お会いになりますか?」
いつもの検温の時間に、看護師さんが伝えてくれた面会人の話。
ぼくは天涯孤独のはずなのに、いったい誰が面会に来るというのだろう。
「いいですよ。会いましょう」
どこの誰だか分からないが、快く了承する。
白い帽子とワンピースを着た、黒い髪の少女だった。ワンピースに花柄が描かれていたが、全てに色彩が無い。少なくともぼくの目にはそう映っていた。
「先生! やっと会えた!」
いきなり大輪の花が咲いたような笑顔ではしゃいだ少女に、ぼくは些か面食らってしまった。
「え……? 誰……?」
「ふふ、誰でしょう?」
謎めいた含み笑いにどきりとしてしまう。
「名前ぐらいおっしゃったらどうですか」
救いの手はすぐそこにいた。いつもの看護師だ。
「もーっ、しょうがないなぁ。優那だよ」
「優那?」
「そう。優那っていいます。よろしくね」
はにかんだ笑顔がまたはじけた。
「先生の絵たくさん見ました。色彩が豊かでまるで遊園地みたいに楽しい絵でした!」
彼女の独特の言葉遣いに鼻白む。
「遊園地みたいって……」
「だって、遊園地にいるみたいに周りがカラフルになったんだもの」
頬を膨らませるしぐさもまたかわいい。
それ以来、ぼくの生活は一変した。
外に出ることが全くと言っていいほどなかったぼくが、彼女に連れられて散歩に出ることが多くなった。散歩といっても、院内の庭園をぶらり歩くだけだが。それでも久しぶりの外気に触れて心が
器用に歩きながらしゃべる彼女の話にも興味が沸いた。
曰く、この世界は色彩に溢れている。だから私はこの世界が好きだ。
曰く、先生はこの世界の色彩を忠実に再現している。だから私は先生の絵が好きだ。
曰く、色彩が無くなったら、私は死ぬしかない……。
まるでぼくの頭の中と同じだった。色彩に憑りつかれた者同士、共感に満たされ愛おしささえ芽生える。
「ぼくも君と同じだよ。まるで同じさ。色を失った今、ぼくは生きる気力を失っていた。だけど、君となら共に生きていたいと思えるようになってきた」
「先生、私、ずっと一緒にいてあげる――」
その日以来、彼女の姿を見ることはなかった。
代わりに、特効薬の開発が始まったことを小耳に挟んだ。
病室の白いベッドで、今まさにその特効薬を投与されるところだ。
最初の被験者はぼくだった。それは彼女が望んだことだった。
彼女の存在は人類の希望だ。彼女の遺伝子を解析すれば、白視病を治す手がかりがつかめるかもしれない。そのために彼女はぼくの入院している病院に居たのだ。そして、ぼくと会って決意した。
ぼくが彼女について主治医に尋ねると、そんな答えが返ってきた。
ぼくは再び色を取り戻し、絵筆を握っている。
「結局あなたは、恋をしていたんじゃないですかね?」
「恋? ぼくが?」
意外だった。ぼくが恋をするなんておこがましいからだ。
だけど、もしもあれが恋なのだったら、まんざらでもないかもしれない。
治癒後最初に描いた絵は、優那の笑顔だった。
了
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