襖絵沈丁
卒業式の朝。
僕は学ランに制帽を被って、登校した。今日で、中学を卒業。今日で、引越。今日は、解散の日。
「解散? 家族は解散なんてしやしないよ」
「そうよ。直ぐに元通りよ」
父と母は、僕に言った。
庄屋の末裔。敷地内に居ると、今がいつの時代なのかと、気が遠くなりそうになる。広大な庭とお屋敷。蔵と離れ。僕たちが住んでいるのは、台所の勝手口から増築された、住込みの使用人の為の、和室二部屋。
お屋敷のご主人は、
両親より先に、この世でいちばん偉い旦那様に、卒業の報告と挨拶と、額を畳にこすりつける勢いで、今日の日を迎えられたお礼を述べている。
「卒業、おめでとう。雪も一人前の大人だね」
法的に大人扱いをされるのは、もう数年先だが…………僕は序列の中で生きていて、義務教育の終了は子ども時代の終わりで、これが僕の日常だった。
卒業式を終えて、謝恩会の半ば過ぎ、僕は先に帰ると、家には父が居た。
「雪」
父に呼ばれて、縁側に座る。
「帰ってきたい時は、いつでも帰っておいで」
「うん」
父は僕の肩に手を置いて立ち上がると、お茶を淹れてくると台所へ行ってしまった。僕は制帽を脱いで、脇へ置いた。
手狭な裏庭に、沈丁花。色付きのない、白い花はいい匂いで、僕は冬の終わりを知る。そして…………沈丁花は、家を思い出す道しるべとして、僕には刷り込まれている気がする。馴染みの
全寮制の高校へ入学して、半年と少し。
「雪! 眠いの?」
授業が自習になって、課題も終わって、外をぼんやり眺めていただけ。
「全然」
気が付くと学校の、教室の、机に居る。そんな気がする。
「あ、金木犀」
「トイレの匂いだ」
僕はクラスメイトと見合わせた。窓の外から、風向きで届いた花の匂い。
「それ、言う人よく居るよね。芳香剤の再現性が高かったから?」
「かもねーー」
「僕は、沈丁花の匂いで
「じんちょうげ? どんなんだっけ?」
「甘い匂いで……絶対、多分、知ってるよ」
沈丁花の花が咲くのは、二月か三月。外で不意に香る金木犀と似てるけど…………季節は異なる。
小学校に上がる前の記憶。
父が母に訊いていた。
「何を描くの?」
「言うと思う?」
四枚の襖絵。縁側の障子と向かいの襖。
「お母さん、何描くの?」
「沈丁花よ」
母は僕に、あっさり教えてくれた。父は面白くないといった顔で、僕を見る。
「花の季節を描いたら…………いいでしょう?」
「いいねーー」
僕は本当にいいと思った。父は直ぐに笑顔になって、母が描いている下絵を繁々と眺める。
「背景に金箔はどうだ?」
「お殿様のお部屋じゃあるまいし」
父も母も笑ってる。
「夜明け前が……いいな。背景」
僕は言った。陽が昇る前の、まだ冬の、冷たい空気の中で立ち込める、沈丁花の甘い匂い。家に帰る匂い。
「ねぇ、描いて。お母さん」
「描いて」
父も言った。
自習時間に蘇った、家の記憶。
「金木犀……なのに」
匂いは、記憶と結びついている。
それから、僕が家に帰ったのは年末年始だった。母は遠方からの仕事の依頼で居ない。父は旦那様の旅行のお供で居ない。
「帰っておいでって言ったくせに」
僕は大晦日に独り、ガランとしたお屋敷の隅っこで、出前の蕎麦を
「……ごちそうさま」
ご用聞きの来る勝手口側に盆と
襖絵がある部屋に布団を出して、電灯を消す。ランタンだけ点けて、薄灯りに浮かび上がる襖絵を見ていると、縁側の沈丁花を見ているようだ。
年が明けても、独り。朝寝をするでもなく、起きて、制服を着る。寮生活の癖で、僕は四六時中、制服かジャージを着ている。私服も持ってはいるけど…………楽なのだ。
雨戸を開けて、縁側でぼんやり。…………寒い。当たり前だ。
「餅、餅」
僕は台所でのし餅を見つけて、包丁で三個切り出す。餅をトースターで焼いて、雪平鍋で雑煮の汁を作って、鶏肉と小松菜を刻んで放り込む。帰省途中で買ったはば(※はば海苔)を最後に散らして、出来上がり。
縁側の雪見障子越しに庭を見ながら、雑煮を食べる。押入から引っ張り出した炬燵で、まったり。独りでも、やっぱり家はいい……
お椀を片して、炬燵へ
「…………雪」
「風邪引くわよ」
肩に毛布。炬燵の中であたる足。
「雪〜〜」
起きない僕の頭に、何か載せられる。
ガバッと起き上がると、蜜柑が転がり落ちた。蜜柑?
「ただいま、雪」
父が蜜柑を剥いている。
「おかえり……なさい」
「いつ帰ってきたんだ? 雪」
「大 晦日」
「LINEしなさいよ。早く帰ったのに」
僕は炬燵を出て、母に抱きついた。父にも同じようにする。
「帰ったら…………誰も、居ないし」
母も父も、甘える僕を茶化さない。僕は僕の家族が好きだ。母のエプロンは絵の具の匂いがして、父の上着は
「これ、酸っぱくないやつ?」
僕は父が置いた蜜柑を剥く。
「甘い甘い」
「お母さん、お茶〜」
「甘酒あるわよ。お茶でいいの?」
「じゃ、甘酒〜。お椀に入れて〜」
炬燵に居て、誰か居たら、もう動けない。僕はひたすら、甘ったれの一人っ子に戻ってしまう。
「お父さん、お年玉は〜?」
「はい」
用意されていたことに軽く驚きつつも、うれしい。最高である。早速チラ見。
「えぇ……ありがと」
ちょっと多くないか??
「あなた、私には?」
「はい」
「あるの?! じゃ、これ私から」
「あるんだ……ありがとう」
親がお年玉のやりとりしてる。意味あるの? それ。
「ね〜〜。これで夕飯、ファミレス行こうよ」
それはしまっときなさいとか、ファミレスでいいのとか。じゃあ、カラオケも行こうよとか。
帰りは、レジの前とか、車の中とか、所々僕はワープしていて……
「雪〜〜、さすがに重いから」
父がなんか言ってるような気がしたけど。僕は久しぶりに、父と母が寝ている襖絵の部屋に布団を敷いて、家族と眠りに就いた。
「雪の部屋って……」
「何?」
古いマンションをシェアしている友だちが、和室の僕の部屋で襖絵を見ている。
「これ、なんだよ…………絵?」
「絵、だねぇ」
「雪って、画家?」
「お母さんがね、日本画描いてるよ」
「へぇ〜〜〜〜。雪は? 何か描くの?」
僕が? …………
「…………そっか。…………そうだね。僕も、描こうかな」
「あはは、なんだよそれ。なんでも、描けばいいじゃん」
僕は…………僕の部屋にも沈丁花の襖絵が欲しくて、母に描いてもらった。家を出てからも、僕は僕の襖絵を、行く先々へ連れて行く。ライナスの毛布みたいなものだ。(大分デカくて、嵩張るけど)
そうか…………襖絵…………今度、家に置きに戻っても、いいかもな。
【終】
朗読版『襖絵沈丁』|夜見の書架|YouTube
https://www.youtube.com/live/7Ga1vlTeCEs?si=ENXxQNg6mnFBtQUl
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