第11話 コピ・ルアック
「さあ、どうぞお掛けになってください。申し訳ありませんでした。山本先生ったらご主人様のことになるとどうも歯止めが利かなくて」
「昔からのご友人だそうですね」
伊藤がネクタイを寛げながら、ドカッとソファーに腰を下ろした。
「ええ、学生の頃に知り合ったと聞いています。二人が大学生だったころ第二次世界大戦が始まって、どうゆうカラクリなのか存じませんが徴兵を逃れるようにしてくれたのも、学費を工面してくれたのも斉藤だと、山本先生が仰っていました」
「学費の工面? それに徴兵逃れですか? それはなかなか興味深いですね」
「酔った時にしか口になさいませんから、本当のことかどうかは存じませんが、何度も同じことを仰るので、私はそうなのだろうと思っています」
「まあそれは必要とあらばこちらで調べますが、先ほど先生が何度か口にされた『あと三年』というのはどういうことですか?」
「さあ? 私は良く分かりません。あと三年というとご主人様も先生も75才ですわね。何かあるのかしら」
「奥様もご存じない?」
「ええ、存じませんわ。三年後というと……1996年? なんだかとても先のことのように感じますわ」
小夜子が吞気な顔で頬に指先を当てて考えている。
当主である斉藤が生死をさまよっているにもかかわらず、それほど戸惑っているように見えない小夜子に、伊藤の持つ刑事の勘が警鐘を鳴らした。
「奥様はご当主の……」
客間のドアが開き、千代がコーヒーを運んできた。
「まあ、良い香りね。コピ・ルアック?」
「はい、山中さんが刑事さんたちへのお詫びと仰って」
「そう、さすが山中さんね」
湯気と共に広がるコーヒーの香りに、藤田が声を漏らした。
「凄く良い香りですね……」
小夜子が嬉しそうな顔をした。
「ええ、これはインドネシアのコーヒーでとても変わった方法で作られるのです。もしご存じないならお話ししますが、お飲みになるまではやめておこうかしら。ふふふ……」
小夜子と千代が顔を見合わせて微笑み合う。
藤田が不思議そうな顔をした。
「飲む前には聞かない方が良いということですか?」
「人によると思います。私は全然平気ですし、むしろとてもおいしいと思うのですが……」
そう言ってカップに手を伸ばす小夜子。
鼻先でカップを揺らし、香りを存分に楽しんでいる。
「ブラックがお勧めですか?」
伊藤が小夜子の真似をして香りを堪能しながら聞いた。
「ええ、私はブラックが好きですが、もしお使いになるのならお砂糖かしら。ミルクだとせっかくの香りが勿体ないでしょう?」
伊藤がコーヒーを口に運んだ。
「これは……香りが強いので苦みがあるのかと思いましたが、なんともすっきりとした味わいですね。ああ……後口も素晴らしい……飲み込んだ後に鼻に抜けるこの香りを何と表現すれば良いのでしょう。素晴らしいとしか言いようがありません」
小夜子が嬉しそうに顔をほころばせた。
「お気に召したなら良かったです。これでお詫びになったかしら」
伊藤が小さく笑う。
「お詫びなどしていただく必要はありませんよ。私も少々強引が過ぎたと反省しています」
「そう言っていただけると救われますわ」
それから暫しの間は、無言のままコピ・ルアックを楽しんだ。
いつの間に退席していたのか、千代が戻ってきて軽食が乗った皿をテーブルに置いた。
「刑事さんたちはこのままお泊りになりますか?」
千代の言葉に、伊藤刑事が慌てて言う。
「お気遣いなく。我々は一旦戻ります。鑑識の結果も気になりますし」
頷いた千代が退室していく。
寝室の準備は不要だと報告に行くのだろう。
小夜子が困ったような顔をした。
「刑事さんというお仕事も大変ですね。でも待っておられるご家族もご苦労をなさるのではないですか?」
藤田が明るい声で言った。
「私は独身寮なので問題ないですし、伊藤先輩の奥様は元警察官ですからね。そこは理解しているでしょうし、きっと待ってなんかいないですよ」
伊藤が藤田に肩を竦めて見せた。
小夜子が楽しに笑う。
「そうですか? きっと待っておられると思いますよ? でも待っているというのを感じさせないというのも心遣いかもしれませんね」
伊藤が何か言おうと口を開けたと同時に、客間のドアがノックされた。
「どうぞ」
小夜子が返事をすると、山中が顔を覗かせた。
「奥様、今度はエトワールが……」
「えっ! 産気づいちゃった?」
「ええ、どうもそのようです。寝室をうろうろしながら鳴き声を上げています」
「どうしましょう……こんな時に……市場先生に連絡してちょうだい。ああ……でもこんなに遅くては対応していただけないかしら」
「獣医も救急なら何時でも受けるのではないですか? すぐに電話してみます」
小夜子がおろおろと立ち上がった。
伊藤が声を掛ける。
「エトワールって……産まれそうなのですか?」
「どうもそのようです。動き回って鳴きながら何かを探しているように見えたらすぐに連れてこいと言われているのですが……ご主人様の側を離れるわけには……山中さんに頼むにしても……もし何かあったら困るし」
伊藤が言う。
「病院に連れて行くだけですか? 産まれるまで付き添う必要が?」
「いいえ、それはありません。出産もすぐとは限りませんし、産後の肥立ちもあるので一週間は入院すると聞いています。連れて行くだけなら美奈さんに……」
伊藤と藤田が顔を見合わせた。
「連れて行くだけでいいのでしたら私たちが届けましょうか? 病院を教えていただければパトカーで運びますよ」
小夜子がパッと顔を上げた。
「ご迷惑では?」
「いいえ、どうせ署に戻る途中ですから。でも届けるだけですよ?」
「助かりますわ。本当に感謝いたします。すぐ準備をいたしますね」
小夜子は立ち上がり、見たこともない素早さで部屋を出て行った。
あっけにとられた藤田が言う。
「何と言うか……猫の出産とは思えないほどの騒ぎですね」
「ホントにな。あれじゃまるで自分が出産するみたいだ」
山中が病院の名前と住所、電話番号を書いた紙を持ってきた。
「すみません、刑事さんたちにお使いみたいなことを」
「いいえ、こちらから言い出したことですから」
「エトワールは奥様の心の拠り所なのですよ。旦那様がこんなことじゃなかったら私が行くのですが」
「いや、この状態で山中さんが家を空けるのは得策ではないでしょう」
「申し訳ございませんがよろしくお願いいたします」
小夜子が猫用のキャリーバッグを持って廊下をよろよろと歩いている。
見かねた藤田が走り寄って受け取った。
「すみません。この子重くて……」
「ではお預かりします。病院に連絡は?」
伊藤の質問に山中が答えた。
「すぐに連れてくるようにとのことです」
「必ず無事にお届けしますから」
伊藤と藤田が玄関へと急いだ。
藤田が振り返る。
「明日も朝から来ると思います」
「よろしくお願いします」
玄関先まで見送った小夜子はそこに残り、車寄せから門までの石畳を山中が走る。
まだ深夜というほどではないが、閑静な住宅街の中でもひときわ広い敷地の斉藤家だ。
山中が走る靴音しか聞こえてこない。
「では奥様、明朝お目に掛ります」
「よろしくお願いいたします……エティ、頑張るのよ」
小夜子は刑事たちへの挨拶もそこそこに、キャリーバックに収まっている黒猫のエトワールに声を掛けていた。
門が開く音が響き、パトカーが走り出す。
まるで後を追って走り出しそうなほど心配な表情を浮かべた小夜子の顔が、伊藤の心の隅に引っかかった。
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