第9話 聴取 当主夫人 斉藤小夜子(32)

 窓を大きく開き、すっかり換気された部屋はかなり肌寒い。

 つい先日、東京の標準木に桜の蕾があったとニュースになったばかりの季節だ。

 春とはいえ、まだ浅い。

 伊藤が温度を上げた暖房機が唸るような音をたてていた。


「お待たせいたしました」


 ゆっくりと部屋に入ってきた小夜子は猫を抱いている。


「山中から刑事さんが興味を示されたときいたものですから、連れてまいりました」


 伊藤刑事の表情が途端に緩む。


「大きな猫ですねぇ……なんて可愛い目をしているんだ」


「大人しい子です。被毛が黒いのは珍しいのだそうですわ」


「触っても大丈夫ですか?」


「ええ、でももうすぐ出産なので抱かれるのでしたら、お腹は押さえないようにしてやってください」


 小夜子がソファーに猫を下ろした。

 数秒戸惑ったようにうろうろしていたが、腰かけた小夜子の腿に顔をつけて横たわる。

 伊藤刑事がゆっくりと手を伸ばした。


「長毛種なのですね」


「ええ、サイベリアンという猫種です。この種類の中では小さい方だと思いますよ。ホワイト・サイベリアンとネヴァマスカレードと呼ばれる毛色以外は、トラディショナルと言われて一括りなのですが、だいたい小さい子で五キロ、大きい子だと八キロと聞いています」


「八キロ! それはまた……人間だと生後半年くらいの重さですね」


「そうなのですか? お詳しいのですね」


「ははは……うちの子がそうだったので」


「まあ! お子様がおられるのですか。さぞお可愛いのでしょうね」


「ええ、可愛いですよ。今年で十歳になります。男の子です」


「それは将来が楽しみですわね」


「ははは……」


 伊藤が黒猫を撫でながら曖昧に笑った。


「ああ、やはり大きなお腹ですねぇ。毛が長いから目立たないけれど随分張っているようだ」


「そうなのです。こんなことが無ければ明日くらいから入院させるつもりだったのです」


「入院ですか? 出産に?」


「ええ、この子にとっては初産ですし、この子を紹介して下さった方も、そうした方が良いだろうと言ってくださって」


「坂本さんですか? 植木職人の」


「そうです。坂本さんもこの猫種のオーナーなのです。真っ黒な子は少ないですからほとんどが親戚ですね。現にこの子は坂本さんのところのくろべえちゃんの大姪になるのです」


「大姪ですか。何と言うか人よりよっぽど血統が明確ですね」


「ええ、希少な子ほど管理が厳しいですし、バースコントロールも徹底されていますからね。人の方が余程自由奔放なのではないかしら」


「なるほど。でもこのお腹の子の父親は坂本さんの猫ですよね? くろべえでしたか」


「ええそうですよ。山中ったらそんなこともお話ししたのですか? きっと刑事さんが聞き出し上手なのでしょうね。まあ隠すことでもございませんが」


「まあ人だとしても結婚できるほど遠いですから問題ないですよね。血統を守るための選択ですか?」


「この色を失いたくないというのが一番ですが、サイベリアンの黒猫を国内で探し出すのが難しいのです。ですから選択肢は多くありません。今日本にいる真っ黒のサイベリアンは全て親戚といっても間違いではないと思いますわ」


「サイベリアン……あまり聞かない種類ですね」


「そうですか? 最近ではかなり出回っている猫ですよ? ただこの子のように漆黒の闇のようなのは少ないですね。最初の一匹は戦時中のロシア大使ご夫妻だったと聞いています。その子がこの子の祖先なのです」


「なるほど。そう聞くと本当に希少種ですね」


 伊藤はずっと猫を撫でている。

 目は瞑っていないが、嫌がるそぶりも見せず許している黒猫。


「何という名前ですか?」


「エトワールです」


「フランス語で『星』でしたか?」


「ええ、パリオペラ座の最高位ダンサーの称号です」


「バレエ? バレエをなさるのですか?」


「とんでもないです。観るだけです」


 藤田が後ろで咳払いをした。

 伊藤が振り返る。


「すみませんでした。我々では触ることができないような希少な猫ちゃんに夢中になってしまいました。では、お仕事を」


 小夜子が小さく笑った。


「どうぞ何なりと」


「斉藤さんと結婚なさったのはお幾つの時ですか?」


「学校を卒業してすぐですから22歳です。もっと早くにというお話しもあったのですが、せめて学校は卒業したいと我儘を申しました」


「大学はどちらです?」


「大学ではありません。短大を出て、花嫁学校に二年行きました。何もできない小娘でしたから、お料理などの家事全般を身につけたくて」


「なるほど。では結婚されて十年ですか。お子様はおられないのですよね?」


 小夜子が小さく笑った。


「結婚したとき主人はすでに62歳でしたから、そういったことはほとんどございません。それに半年もしないうちに心臓の病が悪化して車椅子に頼る生活になりましたしね」


「下世話なことを聞いてしまいました。これも仕事ですのでご理解ください」


「もちろんです」


 小夜子は表情も変えず頷いて見せた。

 その手はずっと愛猫を撫でている。


「ご結婚されてからずっと外出をされていないと聞きましたが、本当に? 退屈でしょう」


「結婚してずっとというのは間違っていますわ。籍を入れて半年ほどは主人と一緒に旅行にも参りましたよ。外出していないのは主人が倒れてからです。彼は車椅子姿を人に見せることを嫌いましたから。そうなると必然的に私も外出をしません。それに私にとっては苦痛でも無いですし、お陰様で何の不自由もないですしね」


「わかりました。今日のことを伺います。今朝の時点ではあったのですね? 宝石は」


「はい、確かにございました。主人がボックスから取り出して日光に翳して輝きを楽しんでおりましたわ」


「ご主人は宝石にお詳しいのですか?」


「コレクターを名乗るほどには詳しいと思います。時々有名な宝石商が鑑定を持ち込んでいましたから、それなりに見る目も持っているのだと思います」


「奥様はご興味がない?」


「ええ、全くございません。いくつかプレゼントもして貰いましたが、一度つけたところを見せれば満足するので、その後は銀行の貸金庫に直行です」


「女性はみんな宝石が好きなのだと思っていました」


「人によりますわ。私にとっては希少な初版本の方が魅力的です」


 伊藤は藤田と顔を見合わせた。


「そのあとは?」


「主人の仕事に付き合いまして、お昼をいただいてから、いつものように主人を寝かしつけて寝室で読書をしておりました」


「宝石が保管されている務室は寝室の隣でしたね?」


「ええ、寝室からも出入りできますし、廊下からも入ることができます」


「ご主人が眠っておられる間に誰か入室したような気配は無かったですか?」


「ずっと本を読んでいたとは申しましても、時々うつらうつらすることもございますし……何も感じなかったとしか言いようがないですね」


「わかりました。ありがとうございました」


 小夜子が黒猫を膝に乗せたとき、大きな音を立てて山中がドアを開いた。


「旦那様の意識が戻りました!」


 三人はほぼ同時に立ち上がった。

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