第一章②

 その通り。

 俺のかんも捨てたものではない。それはまさしく前兆だった。勘で解らなかったのは、困るのは誰かってところだ。ハルヒを除く全人類……ではなく、この事態が発生しているのに気づいて困ったのは意外にもたった一人だけだった。そいつ以外の全人類は別に困りはしない。なぜなら事態の発生自体に気づくはずもないからだ。にんしきの外にあるものを認識することは決してできないのである。彼らにしてみれば世界は何も変わっていなかった。

 では誰が困ることになったのか。

 言うまでもない。

 俺だ。

 俺だけがこんわくの中で立ちつくし、ぼうぜんとしたまま世界に取り残されることになったのだ。

 そう、やっと俺は気づいた。

 十二月十八日の昼休み。

 形をともなった悪い前兆が、教室のドアを開いた。



 わあ、というかんせいが教室前部のドア付近にいた数人の女子から上がった。入ってきたクラスメイトの姿を確認しての声らしい。わらわらと群がるセーラー服姿のすきから、重役出勤してきたそいつの姿がちらりとのぞく。

 通学かばんを片手にぶら下げたそいつはけ寄ってきた友人たちにがおを向けて、

「うん、もうだいじようよ。午前中に病院でてんてき打ってもらったらすぐによくなったわ。家にいてもヒマだから、午後の授業だけでも受けようと思って」

 風邪かぜよくなった? という一人の質問に答え、やわらかく微笑ほほえんだ。それから短い談笑を終えると、セミロングのかみらしながら、ゆっくりと……こちらに──歩いて──来た。

「あ、どかないと」

 国木田がはしをくわえてこしかせる。俺はと言うと、声帯の発声機能を丸ごと全部ぼつしゆうされたように、むしろ酸素を呼吸することすら忘れて、そいつの姿をぎようしていた。無限の時間のようにも感じたが、実際はそう何歩も歩いていなかっただろう。足を止めたとき、そいつは俺のすぐ横に立っていた。

「どうしたの?」

 俺を見ながら不思議そうな口調でじようとういた。

ゆうれいでも見たような顔をしているわよ? それとも、わたしの顔に何かついてる?」

 そしてタッパを片づけようとしている国木田に、

「あ、鞄をけさせてもらうだけでいいの。そのまま食事を続けてて。わたしは昼ご飯食べて来たから。昼休みの間なら、席を貸しておいてあげる」

 言葉の通り、その女子生徒は鞄を机横のフックに掛けると、友人たちが待ちわびる輪の中へ身体からだひるがえした。

「待て」

 俺の声はさぞヒビ割れていたことだろう。

「どうしてお前がここにいる」

 そいつは、ふっとり返り、すずしげな視線を俺にした。

「どういうこと? わたしがいたらおかしいかしら。それとも、わたしの風邪がもっと長引けばよかったのに、っていう意味? それ、どういうことなの?」

「そうじゃない。風邪なんかどうでもいい。それではなくて……」

「キョン」

 心配げに国木田が俺のかたをつついている。

「本当に変だよ。さっきからキョンの言ってることはおかしいよ、やっぱり」

「国木田、お前はこいつを見て何とも思わないのか?」

 まんできずに俺は立ち上がり、不可解なものを見る目で俺を見ているそいつの顔を指さした。

「こいつがだれだが、お前も知ってるだろう? ここにいるはずのないやつじゃねえか!」

「……キョンさあ、ちょっと休んでただけでクラスメイトの顔を忘れちゃったりしたら失礼だよ。いるはずのない、ってどういうこと? ずっと同じクラスにいたじゃん」

 忘れやしないさ。かつての殺人すいはんを、仮にも俺を殺そうとした奴の顔なんてものをぼうきやくするには半年とちょっとは短すぎる。

「解ったわ」

 そいつはとびっきりのじようだんを思いついたような笑みを広げた。

「お弁当食べながらうたたしてたんでしょう。悪い夢でも見てたんじゃない? きっとそうよ。そろそろ目が覚めてきた?」

 れいな顔をほころばせ、「ねえ?」と国木田に同意を求めているそいつは、俺ののうに焼き付いていまはなれない女の姿をしていた。

 様々な映像がフラッシュバックする。夕焼けに染まった教室──ゆかに長くびるかげ──窓のないかべ──ゆがんだ空間──振りかざされるナイフ──うっすらとした笑み──さらさらくずれ落ちる砂のようなけつしよう……。

 長門との戦いに敗れてしようめつし、表向きはカナダに転校したことになった、かつての委員長。

 あさくらりようが、ここにいた。

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