第51話 音楽が繋いでくれた未来
俺は4月から、聞いたこともなかった小さな町で働く。
――引っ越しを考え始めた。
「通勤時間は、どのくらいでお考えですか?」
不動産屋の若い社員が、無表情な俺に笑顔を向けてくる。
どうせなら、近いほうが楽だ。
俺は、目線をテーブルに敷いてある路線図に移して、その質問に答えた。
「……30分くらいですかね」
「あの……大変申し上げにくいのですが――」
「はい?」
「川澄町から30分圏内で、亘様の条件に合う物件が、全く無いんです……」
そんなに田舎なのか。
俺が“物件お探しシート”で書いた条件なんて、家賃の上限くらいなのに。
通勤に30分以上かかるのは必至ってわけか。
「とりあえず、今日は帰ります。ありがとうございました」
ここでこれ以上考えても仕方ない。
俺は軽く会釈をして、自動ドアへ向かう。
俺に出された緑茶が、まだ湯気を立てていた。
この栄えた駅前とも、もうおさらばか――
外の冷たい空気を吸って、不思議とそんなことを考えていた。
また、あの広告パネルが目に入る。
この前と違う音楽が鳴っていた。
洒落たビートが、心地よく耳に馴染む。
そのとき『吹奏楽部の顧問』という言葉が頭をよぎった。
俺に、できるわけない……でも、少しだけ心が
3月の終わりの離任式までには、引っ越し先を見つけないと。
ずっとそれを考えながら、今日も授業をしている。
でも、この焦りでもなく不快でもない、雲が少しずつ晴れていくような感覚は、何かに似ている。
――あぁ、音大の試験を受けて、入学する前の感覚だ。
何故、こんな気持ちになる……?
小さな単身者用アパート。築46年。
ここに決まったのは3月中旬。
家賃が安くて、最寄りのバス停まで徒歩数秒ってところに惹かれて即決。
もちろん、通勤には約1時間かかる。
「なんか、懐かしい……」
木造アパート独特の空気感、和室の畳の匂い――
そうか、音大時代の一人暮らしもこんな部屋だったか。
妙に、腑に落ちた。
少ない荷物を運び入れた翌週。
離任式を終えた俺は、一応挨拶をするために職員室へ。
別に、他の職員に何の感情も湧かない。
それは彼らも同じだろう。俺は非常勤だ。
「亘さんも、今日でお別れですねぇ」
「校長。お世話になりました」
周りでは、すすり泣く声や、花束を包んだ不織布とプラスチックの擦れる音が鳴っている。
そして、俺は校長の
過去に、『お前は天才だ』と陰口を叩いた奴らを思い出すから。
ひとしきり、必死の愛想笑いと社交辞令を振り撒いて、俺は校舎を後にする。
校門を出たところで、足が止まった。
「……ありがとう。これで少しは、前に進めそうだ」
肩が自然と軽くなった気がした。
そう言い聞かせることで、更に前を向けると信じた。
――そして、運命の日。
俺は吹奏楽部の部員たちと顔合わせのため、新年度が始まる前に川澄高校へ出向いた。
「先生にお願いがあるんです。本当に真剣なお願いが」
「来月、新入生歓迎会があって、そこで演奏を披露しなきゃいけなくて…」
「でも私たち5人しかいないし、できる曲が見つからないんです」
「部員が少ないから、新入生が入ってくれないと廃部になっちゃうんです」
「だから先生、助けてください!お願いします!!」
そこには、真っ直ぐで強い眼差ししか、存在しなかった。
俺の心が、グラッと傾く。
……でも、本当にいいのか?
顧問を引き受けるということは、一生に一度の彼女たちの“青春”を俺が預かるということ。
俺は自分の意思で夢を諦め“保険”であった教師になった。
そんな俺に、部を引っ張る覚悟があるのか?
「俺が譜面を書く。でも正直自信ないかな。みんなのパートも実力も知らないし、俺いつもプレイヤー側だったから、まとめてあげられるか分からないよ」
――自分でも驚いた。俺は反射的に『譜面を書く』とこぼしていた。
でも、これでハッキリ分かった。
「できるか?」じゃない。「やりたいか?」なんだ。
二十数年の俺の人生は、音楽と共に
今だって、久しぶりの“吹奏楽部”に、鼓動が反応しているじゃないか。
俺の鼓動――これが、全ての証明であり、答えだ。
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