第50話 ただ消費するだけの日々
「骨はもう大丈夫です。他の打撲も問題なさそうですね。退院、おめでとうございます」
何が『大丈夫』だ。何が『おめでとう』だ。
俺は入院してから、音楽に費やした時間を、誰かに否定されているような気分だった。
実際、そんなことは誰も言ってない。
むしろ、心配しかかけてない。
でも、怒鳴り散らしたあの日から、この“虚しさ”と共にベッドで過ごしていた。
「奏ちゃん、おかえりなさい。退院祝いにケーキ、あるわよ〜」
ボストンバッグとスティックケースを持って帰宅すると、母さんが呑気にそんなことを言っていた。
ケーキなんて甘ったるいもの、こんな気分で食えるかよ。
「ごめん、俺、寝るわ」
俺はそう吐き捨てて、自分の部屋に向かおうとした。
――そうだ。この階段の横を通れば、地下の“防音室”に行ける。
手元のスティックケースに視線を落とす。
「……少し、叩いてみるかな……」
無意識に、そう呟いていた。
でも、同時に脚も、骨折が完治した右腕も、小刻みに震えていた。
何故か、ドラムに向き合うのがものすごく……怖い。
怖いけど……ほんの少しだけ、『あの頃』のように叩けるんじゃないかって、自分に期待していた。
とりあえず、バッグは外へ置いて、防音室に入る。
だいぶ久しぶりだ……実家の防音室なんて。
母さんの楽器ケース、譜面台、乱雑に積み上げられた楽譜集たち。
それから……俺のドラムセット。
俺は、大きく深呼吸して、ドラムセットの前に座った。
鼻から入ってきたのは、懐かしい金属の匂い。
スティックケースから2本取って、腕をセッティングしてみた。
「……ダメだ。俺には叩けない。もう、あんな思い、したくねーよ……」
怒りに任せてシンバルを鳴らすことも、スネアで気ままにロールすることもできなかった。
――また音を鳴らす喜びを思い出しても、“また楽器と引き離されること”に囚われてしまう。
そんな気がしてた。
俺は、もう地下へは行かない。
そう決めて、バッグを持って2階へ上がった。
明日、俺は自宅へ帰る。
今まで目を逸らしてきた、”就職先”に連絡しないと。
でも今日は……何も考えたくない。
いや、“失ったもの”の大きさしか、考えられないのかもしれない。
事故が起こる前、俺には寝る前のルーティンがあった。
『今日のエンディングに合う1曲』を探して、ヘッドホンで聴くこと。
ベッドにうつ伏せになり、スマホで検索する。
今日の1曲……音大時代にやった、この曲かな。
思ったより早く決まった。
ヘッドホンをつけて、目を閉じる。
俺はそのまま、眠ってしまったようだ。
――翌朝。
「んじゃ、帰る。……ありがとう」
「また、いつでもおいでね!気をつけて〜」
「たまには、晩酌でもしよう」
父さんと母さんに別れを告げて、俺は自宅へ帰った。
自宅に着いてすぐ、俺は電話をかけた。
「……お忙しいところ、恐れ入ります。先日、非常勤講師として採用いただいた、亘と申しますが――」
それからの俺は、栄えた街にある、ごく普通の高校で、ごく普通の音楽教師として働いていた。
ある、空気の澄んだ最高気温2℃の日。
突然、校長に呼び出された。
俺は、可もなく不可もなく、がお似合いの教師をしていたつもりだ。
呼び出される理由に見当がつかない。
「亘さん、4月から川澄町に決まったからね」
「え……?異動、ですか……」
「そう。端的に言うと、配置転換、ってやつだね」
あぁ、俺は飛ばされたんだ。
いっそのこと、「左遷だよ」ときっぱり言われたほうが、今の俺は納得しただろう。
でももう、労働環境なんてどうでもいい。
この教師人生こそ、それ自体が“諦め”なんだから。
「そうですか……分かりました」
「ただね、川澄高校の吹奏楽部、顧問がいなくて困ってるらしくてねぇ。亘さんを、ぜひ顧問にって向こうの校長がね」
「……顧問、ですか」
「亘さん、音大時代すごかったって聞いたよ。君の才能を活かすには、ぴったりなんじゃないかね?」
「別に……すごくないですよ。それに、今は――」
「まぁまぁ、ここより、働きがいがあるかもねぇ。活躍を期待しているよ」
『吹奏楽部』――
その単語を真正面に捉えるのは、何年ぶりだろうか。
帰り道、いつもの歩道橋を歩いていた。
駅前の騒々しさが近くなってきたとき、商業施設の広告パネルから流れる音楽が、俺の足を止めた。
今まで、全く気にしたことがなかったのに、やけにドラムのビートが鮮明に聞こえる。
この曲……こんな複雑なドラム入ってたんだ。
「俺は、本当はもっと、音楽と深く関わりたいのか……?」
いや、違う。
ちょっと懐かしい思い出が、蘇っただけだ。
これは……気のせいだ。
でも、その“気のせい”が――
今まで埋まらなかったパズルを、埋める手段だとしたら?
そう思うと、ほんの少し、足取りが軽くなった。
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