第十話 作戦

「うーん、どうしましょうねえ」

 医務室の出入り口付近の単椅子スツールに腰掛けた賢治が、天井の真っ白な蛍光灯を仰ぐ。

 谷崎、与謝野、乱歩、花袋はまだ動けない。国木田と太宰とは連絡が付かない。敦は行方ゆくえ知れず。

 ここにいるのは、最年少の二人だけ。

 出会った当時の彼と同じ歳になって、立派な探偵社員になったつもりでいたが、こんなにも心細い――。

「どんな様子だ」

 その声に、賢治と鏡花は揃って単椅子から飛び上がる。

 いつの間にか扉を開けて医務室に入ってきていた福沢は、二人に背を向けて吊下布カーテン付き寝台の並びを見据みすえている。

 開いたままの扉の向こうから聞こえる音はまだ騒がしい。福沢は普段よりわずかに顔色が悪いように見えるが、それほど重大な事態であるということか――。

「あっ、ええとですね」

 呆然としていた賢治に福沢の目が向けられ、賢治は慌てて質問に答える。

「与謝野医師は何とか意識がありますが、ほかの三人はぐっすりと眠っておられます」

「ふん」

 福沢は喉の奥で返事をすると、すたすたと歩いていって、乱歩の寝ている吊下布の中へと入る――。

『乱歩』

 当然、返事は無い。

『んぎゃっ』

 聞こえてきた声に、十八歳の二人は顔を見合わせる。

 ――乱歩の声だ。

『んぁ、わ、しゃちょぉ……? もー、なんだよお……』

 がさごそと衣擦きぬずれの音がしていることからして、乱歩は目を覚まして身動きしているらしい。

『大人しく寝ていなさい』

『は、はぁ? 僕は、子供じゃあ……』

 しかし起き上がるまでには至らなかったらしく、吊下布の中からは福沢だけが出てくる。

 福沢はそのまま隣の花袋、向かいの谷崎、斜向はすむかいの与謝野の吊下布の中に入って、起こして回る――。

『んばあっ』

『んぐごっ』

『ぅ、ありがとう、ございます……』

 四人を起こした福沢が、音も無く賢治と鏡花の元に戻ってくる。

「あの四人をやったのは、私と同程度、またはそれ以上の体術使いだ」

 福沢の視線に射抜かれた賢治が、ぐ、と喉を鳴らす。

「敦はまだ無事だ。私の異能がそう云っている」

 鏡花を見る福沢の目は、優しくも鋭くもあった。

 無事――。

「二人とも、これからお前達は」

 ――?

 どうして、福沢の身体がこちらに傾いている?

《ねえ、ここってほんとに探偵社なの?》

 鏡花の頬に生温かい液体が貼り付く。

 嗅ぎ慣れたにおい。

《結構簡単に入れちゃったけど?》

 灰色の頭巾付き長外套の男が医務室の中央で、福沢の背中から腹をつらぬいているのと同じ洋刀ようとうを、指先でくるくると回している。

《ハ ハハハ》

 瞬きをすれば灰色の男の隣には、濃紺の頭巾付き長外套の男が立っている。

 扉は開いたままだったが、誰かが鏡花と賢治の目の前を通って気付かない筈が無いし、窓や通気口は開いていないのに――。

「社長っ!」

 福沢の身体が床に叩き付けられる前に、賢治が手を伸ばして抱き留める。

『賢治……!』

「はい!」

 賢治は与謝野の声に応え、瞬間移動で戦えない者達を安全な場所へ――。

「えっ」

 賢治のそばかすの顔が驚愕きょうがくに固まる。

 またたに怪我人が医務室から消える筈だった。

 だが、賢治と福沢の身体が二メートルほど移動しただけだった。

「つっ、使えません! 異能が!」

 何故なぜ

 賢治は今朝出社してから、何も食べていないのに――。

「賢治さん!」

『夜叉白雪』でも、賢治よりは時間が掛かるが、怪我人を運び出すか、守ることができる――。

「え……」

 出ない。

 夜叉が、来てくれない――。

《はーーーー! つっまんないねえ!》

 よく聞けばその声は、今日二度逮捕された筈のあの男のものだ。

《私はねえ、恥ずかしいことの次に残忍なことが好きなんだよ!》

 灰色の影が医務室を二つに切る。

 全ての吊下布が、ばふ、と場違いな音を立てて床に落ちる。

《女の子を傷付けるのって残忍だよね!》

 灰色の頭巾の下、淡い桃色の包帯に覆われた顔が、眼前で笑っている。

 今から短刀を抜いても間に合わない。

 ――ポートマフィアと武装探偵社で覚えた体術。

 長い洋刀を躱すふりをして、慌てて向きを変えた切っ先の横を手甲てっこうはたく。二度の予測していなかった事態に、人間は対応できな――。

「鏡花ちゃん!」

 灰色の男がいつの間にか蹴り上げていた医療用小刀メスが、賢治の右上腕に刺さる。

「、っ……!」

 鏡花の耳元で、賢治が声を飲み込む音が聞こえた。

《んおゥ♪ 身体を張って彼女を守るイイ男♪》

 灰色の男は歌いながら軽く後方宙返りをして、元の位置に戻る。が――。

《コ イツ マダ チ カラア ル》

「ぐっ、うぅ……」

 動けない乱歩が、濃紺の男に喉元を掴まれて空中にぶら下がっている――。

《ク レ チカ ラ》

 濃紺の頭巾の下の見えない目が、裂けんばかりに見開かれる。

《あ、そっか! 弱い人からやっちゃおう! その方が残忍だよね!》

 灰色の男は鏡花と賢治に対する興味を急激に無くすと、花袋に駆け寄ってその腕を掴み、思い切りぶん回して天井と床に交互に叩き付け始める。

「ぐわぁっ! ああああああ!」

 花袋は上下も分からないままに絶叫する。

「花袋さん!」

《おっとー。強い女の子は後でやるから待っててねー》

 あれ程の刃物の使い手だ。洋刀を向けられていては近付けない。

「う、が、っ……」

「ら、乱歩さん……!」

 乱歩の顔は青紫色に変色し始めているが、濃紺の男は、手負いの賢治が向かっていって勝てるような人物ではないことが、その立ち姿からはっきりと分かる。――四人をやったのは、この男に違いない。

「ごめ……ボク……」

「くっ……」

 谷崎も与謝野も動けないし、恐らく異能力も使えない。

 いま最も危ないのは賢治が隅に寝かせた福沢だが、彼すら助けることができない。

 そして、開いたままの扉の向こうには事務員たちがいる――。

「鏡花ちゃん」

 賢治の声は、血にれた床に向かって発せられている。

「すみません」

 賢治が右の上腕に刺さった医療用小刀を、左手で握って無理やり引き抜く。赤黒い血が、生成きなりの襯衣シャツを全て染めてしまおうと広がっていく。

「僕はずっと、嘘をいていました」

 賢治の声が震えているのを、鏡花は初めて聞いた。

「僕には、異能力なんかありません」

 灰色と紺色の男が一瞬、こちらに視線を向ける。

「これはただの――」

 右腕をだらりとらしたまま、賢治が、獲物を狙う野良犬のように姿勢を低くする。袖から流れた血が、長い腕をつたい、大きな手を伝い、床にどろりとした血溜ちだまりを作る――。

馬鹿力ばかぢからです!」

 賢治が、消えた。

「僕の故郷では、悪いことをした人は、こうです!」

 鋭くも涼しい音。

 呆然とする鏡花の視線の先、割れた窓硝子の向こうに、灰色と濃紺の二つの星が遠ざかっていくのが見えた。

「はっ、あぁっ……!」

 硝子の微細な破片が降り注ぐ床に、賢治が倒れ込む。

 終わっ――てはいない。

 敦の行方はまだ分からない。

 だが、鏡花は歯を食い縛り、比較的動ける者が銘々めいめいに重傷者の元へ向かっている中に加わる――。

「敦さん、合格ですねっ!」

 元気溌剌はつらつなその声が聞こえた方を見て、医務室にいた乱歩以外の全員が目を見開き、下顎かがくを落とす。

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