第22話 二人の時間


   みなと


 これまで何回も通った渡り廊下、けど今日はなんだかいつもとは違う。

 体がすごく軽やかで、私の猫背で丸くなっている背中にまるで羽が、翼が生えたみたいにどんどんと前へ、屋上へと進んでいく。

 ずっと足が重たく感じていて、ちょっと大変だった階段もスイスイと上っていける。

 あっという間に、実際にはちょっと時間がかかったけど、結城くんのいる屋上のドアの前へと。

 ドアを開ける、まぶしい光が目に入ってくる。

 光に慣れてきた視界の中に結城くんが。

 昨日、紙芝居の話を聞かせて欲しいとお願いしていた。

 だけど、いざその時になると……私が話をするわけでもないのになんだか緊張してくる。

「……あっ……あの……」

 何か話さないと思うけど、言葉出てこない。

「いつまでもそこに立っていないで、ここに座ったら。そこ暑いでしょ」

 結城くんに言う通り、ちょっと暑い。

「……うん」

 結城くんの横、日陰になっている場所に腰を下ろす。けど、結城くんのすぐ横には座らない……ちょっとだけ間をあけて。

 これは別に結城くんの横に座るのが嫌というわけではない。理由が。

 屋上には、あっという間に着いた。これは気持ちがそう思わせたということもあるだろうけど、実を言うと走ってきたから。何しろお弁当を食べてからの移動だから、あまり時間がない。汗をかいている。こんな状態で結城くんの傍に座ったりなんかしたら、かいた汗の匂いが結城くんにまで届きそうな気がしたから。それは嫌だ。

 心地良い風が吹く。

 汗をかいた体を冷やしてくれる。けど、頭の中までは冷やしてはくれない。

 せっかく結城くんから紙芝居の話を聞けるというのに、どんな話を聞くのかということが全然浮かんでこない。

 貴重な時間なのに、早くしないと。

 焦ると頭の中が余計空転してしまう。

 真っ白になっていきそうな私の頭の中にふとある言葉が浮かんでくる。

「……ごめんなさい」

 その言葉を結城くんに。

「どうしたの、突然。……なんでいきなり謝るの?」

 私の突然の謝罪の言葉に、結城くんは戸惑ったような表情を。

 無理もない話だ。私だっていきなり謝罪の言葉を投げかけられたら戸惑ってしまうはず。

 だけど、これは絶対に結城くんに言わないといけない言葉。

「ごめんなさい。謝るのが遅くなって、本当にごめんなさい」

 私の謝罪に結城くんは驚いたまま。

「どうして藤堂さんが俺に謝るの? 理由を教えてよ」

 そうだ、ちゃんと理由を説明して謝らないと。

「あの時のことを、結城くんに謝罪していなかったから」

「あの時?」

「うん。私が最初に結城くんの紙芝居を観た日……信くんが……弟がジュースをこぼしたのに何もしないで隠れてしまったこと。結城くんに片付けを全部押し付けてしまったこと」

 あの日からずっと胸を痛めていたこと。それをようやく告げることができた。

「……ああー、あれのこと。ジュースをこぼして俺が掃除したことか」

「……うん」

 首を小さく動かす。

「別にそんなのに気にしなくてもいいのに」

 笑いながら結城くんは言ってくれる。

「でも……」

「どうしていいのか判らなくなったんだよね。自分は関係無いとか、無責任な人間ならさっさとあの場を立ち去ってしまったはず。それなのに一応なんとかしなくちゃとは思っていてくれたんだから。だから気にしなくてもいいから。別に大惨事になったわけじゃないし。それに慣れている俺が片付けたほうが早かったから」

「……けど……」

「いいから、本当に。それに謝ったんだから、この件はもうお仕舞い」

 優しいな。そういえば同年代の男の子から、こんな言葉をかけられたのは初めての経験かもしれない。

 よく分からないけど、ちょっとだけうれしいような気分に。

「それより紙芝居で聞きたいことって?」

 そうだ、聞きたいことは沢山ある。

 けど、頭の中で上手くまとまっていないから。でも何か話をしなくちゃ。

 そう思った時チャイムが鳴った。屋上にいられる時間が終了してしまう。

 残念だな、せっかく話が聞けると思っていたのに。

 けど、ずっと懸案だった謝罪ができたんだ。これから先、まだまだ結城くんと話す機会はあるはず。

 ああ、そうだ明日以降も屋上に来ていいのかな? 聞かないと。

「じゃあまた明日、ここで」

 聞く前に結城くんの言葉が私の耳に。

 明日も来てもいいんだ、これからも毎日来ていいんだ。

 今度はちゃんと理由が分かるうれしさが、私の中にあふれてきた。



   こう


 正直、そんなに期待しないようにして藤堂さんを待っていた。

 これまでの人生で大きな期待をして裏切られた経験は数多く。彼女はそんな人間ではないと思うけど、もしかして、万が一という可能性もある。

 けど、よくよく考えてみれば別にここで話さなくても教室でもよかったのかもしれない。

 吹っ切れたのか、山を乗り越えたのか、自分のことなのによくは判らないけど、人混みの中にいても嫌な音はしなくなっていた。

 今日も教室の中は色んな音があふれていたけど、騒がしいのは騒がしいけどそれを嫌な音とは感じなかった。

 だが人前で藤堂さんと二人だけで話すというのは……ちょっと照れを覚えてしまう。

 やっぱり屋上で正解だったのかな。そんなことを考えていると、ドアの向こうから足音が聞こえた。

 待望の待ち人の姿が。

 本当に来てくれたんだ。あの言葉に偽りはなかったんだ。

 うれしさを抑えつつ、声をかける。すると、藤堂さんは俺の横に。

 でも、いつもよりほんの少し離れて。

 この微妙な距離が少しに気になってしまう。

 視線をチラリと横に向ける、まじまじと見ているのは失礼なような気がしたから。

 走ってきたのだろうか。いつもよりも顔が少し上気している。白い肌に浮かんだ赤はすごくきれいに見えた。

 制服から伸びている細くて長い手脚。胸はあんまりないような。艶のある手入れされた長い黒髪。眉毛は少し濃いかな。男装すると似合いそうな気もする。ああでも、睫毛はすごく長い。けど付け睫毛をしているんじゃなさそうだ。それよりもあんまり化粧けがないというか、おそらく全然していないんじゃ。となるとノーメークというわけか。

 ちょっと地味な、大人しめな印象もあるけど、正直可愛いと思う。

 藤堂さんに気付かれないように観察していたら昨日のヤスコの車中の言葉が蘇る。

 やっぱり俺は藤堂さんに気があるのだろうか。

 けど、自分でもよく判らない。

でも、一緒にいて嫌な気分にはならない。むしろその反対だ。

 ヤスコの言う通りに花火大会に誘ってみようか。

 ……けどな。

 そんなことを考えながら藤堂さんの横顔を見ていたら、急に謝られた。

 心の中を読まれてしまったのだろうか。花火大会にはやっぱり一緒に行けないのだろうか。

 ……そんな訳はないよな。一応理由を聞いてみる。

 謝罪の理由はすぐには教えてはくれなかった。何度か質問してようやく。

 春の、あのジュースをこぼした一件についてだった。

 そんなこと気にする必要なんかないのに。できる人間がすればいいだけの話だ。

 それにもうとうの昔に終わったこと。大きな問題があったわけじゃない。

 それよりもここに来たのは紙芝居の話を聞きに来たんじゃ。

 俺のほうから聞いてみる。するとそこでチャイムが。時間切れだ。

 時間だから教室に戻らないといけないけど、寂しい気分に。

 このまま一緒にいたいような心境に。

 まあ、俺はサボりの実績があるからいいけど、藤堂さんを非行の道へ引き込むのは。

 ということで、明日も来て欲しいという願望をこめた言葉を。

 俺の言葉で藤堂さんの顔がうれしそうに。そんな顔を見ていると俺までうれしくなってくる。


「それで紙芝居の話って、何を話せばいいのかな?」

 昨日は藤堂さんが屋上に来てからしばらく黙ったままだった。その結果が時間切れ。

 だから今日は俺から話を振ってみることに。藤堂さんはしばらく考える、そして、

「……えっと……どうやったら結城くんみたいに上手に読めるようになるの……かな」

 それは俺と一緒に紙芝居の上演をしてみたいということだろうか。

 だったらそれはすごく嬉しいだ。

 もっと詳しく訊いてみないと。

「紙芝居を上手く読めるようになりたいの?」

「……ちょっと違うかな。……あのね、初めて紙芝居を観た夜に信くんに、あっ、弟に本を読んでとせがまれたの。でも……途中で面白くないって言われちゃって。それでどうやったら結城くんみたいに最後まで楽しんで聞いてもらえるのかなと思って。後それから、現国の朗読も下手だったし。できれば、今度は上手く読みたいなと思って」

 期待とは違った。やっぱり過度な期待は大きく裏切られる運命にあるみたいだ。

 でもまあ、せっかく来てくれたんだ、質問もしてくれたんだ。それにちゃんと応えないと。 

 現国の時間の藤堂さんの朗読を思い起こす。恥ずかしいからなのか、ずっと顔を下に向けたままだった。これでは声を出しても下に落ちてしまう。それに聞こえない箇所も多々あったし。それにもまして致命的なのは自信のなさのせいなのか語尾が見事に消えてしまうこと。訛りもない、鼻濁音も無性化もできているのに。

非常に、もったいない。

 語尾をなんとかすればそれなりに聞ける朗読になるんじゃないのか。だけど、消えるのは語尾だけじゃないからな。

 いやまて、語尾を強くすることを指導したら、そこにばかりに意識がいきすぎてドイツ語みたいな音になってしまうかもしれない。

 もしそうなったら、せっかくの声が活きない。

 いや、それよりも前に向かって声を出すことを指導しないと。ああ、でもその辺りのこと上手く言葉にして俺は伝えられるのだろうか。

 これまでの人生では教えてもらってばかりで、指導する立場になったことなんかないから、どのようにして教えればいいのかさっぱり判らない。

 それでも考える、考える、考える、さらに考える。

「えっと、練習かな。……それと相手にちゃんと伝える意思を持つことかな」

 考えに考えたわりに俺の口から出たのは当たり障りのない平凡な解答になってしまった。

 やっぱりこれは求めていた答えじゃなかったんだ。無言だけど彼女の少し失望したように見える顔が、静かに物語っている。

「そうなんだ、やっぱり日々の練習が大事なんだね。付け焼刃じゃ上手くならないよね。それに気持ちか」

 少し間をおいてからの発言。

「でも藤堂さんの声はきれいだから。訛りや癖もないし。語尾が消えることがあるから、それを注意して練習すれば上手くなるよ。それと前を見て声を出すこと」

 練習すれば自信がつくはずだから上手くなると思う。きれいな声がもっと栄えるはず。

「本当?」

 少し顔を赤らめながら藤堂さんが訊く。本当にそう思う。

だから、大きく肯いた。


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