第45話
結界に守られた空の中で、柔らかな若葉が一斉に芽吹く。
幾重にも重なった東都の結界を見上げながら、多希は台車を押して坂道をのぼっていた。
「よそ見禁止! 俺が押すの!」
多希の腰にひっついて台車の主導権を握ろうとしているのは、ギャップが多過ぎて多希の中では設定だけの美青年と化した、奈直だった。
「奈直くんは、荷物を持っているでしょう」
「これだけだもん! 軽いもん!」
「安くつきましたよ」
「高くつきましたよ!」
ジーンズの後大腿部に、紙袋の角が当たる。紙袋にはスーパーの物産展で購入した、郷土菓子の箱が入っている。朝一で台車を押して買い出しに行った際、奈直にせがまれて買った菓子だ。高級品ではなく、この菓子一箱で「高くつきますよ」が帳消しになり、多希はかえって肩透かしを食らった。
厚生労働大臣、佐々木橘子氏の地方訪問から、早2週間。多希はこれまでと変わらず病院に勤務しているが、世間は、けっこうざわついた。
蒼右森の介護施設「いらせ村」の結界維持装置が解除されハナミネコが侵入したことは、国会議員・荻野保希がその朝のうちに会見を行ったことより、全国に知れ渡った。一度は門前払いをした警察も捜査に乗り出し、現場に多希と奈直がいたことで橘子も警察から事情聴取を受けた。橘子の予定は全てキャンセルになり、3日目は事情聴取の後に東都に帰るだけになってしまった。
橘子の辞任を求める声もあったが、医療、介護現場や保健所に関わる人の間で「他の政治家より橘子氏の方が断然ましだ」と辞任の撤回を求める署名運動が起こり、世間が辞任反対の流れになったせいか、辞任は免れた。
介護士に批判的だった蒼右森県知事は求められてもいないのに辞表を提出し、再選を求めて知事選に出馬。他に候補者の届け出がなく、無投票で再選になった。だが、蒼右森県内で知事の評判は下がったようだ。
「いらせ村」と本社には行政の監査が入り、介護士への不当な扱いが明るみになった。「いらせ村」の一件で、世間では介護士を養護する動きも出ている。施設長が辞めたどうかの情報は、東都には入ってこない。ハナミネコウイルスに感染した施設長の家族はすでに予防接種済みで、投薬治療で完治したらしい。
ハナミネコに結界が効かなくなっているという話も出始め、ハナミネコの生態の研究と、結界維持装置の改良も急務になった。
「奈直くん、一緒に来てくれて、ありがとうございます。ひとりだと、なんか怖いので」
「帰る家があるのは、良いことです。気が進まなくても帰ろうとする、あなたの姿勢も」
坂の上に、多希の実家はある。かつては広い庭だった場所には、今は父親の町工場が建っている。
「多希、お帰りなさい」
「親父、ただいま。台車、ありがとうございます」
「それより、お父さんの腹筋見るか?」
「カレーをつくります」
スーパーに行く前に借りた台車を、玄関に入れた。
「母ちゃん、ただいま」
「多希ちゃん……!」
母親が、転びそうな勢いで玄関に出てくる。
「多希ちゃん、その子!」
母親の注意は、多希ではなく奈直に行っている。
「こちら、奈直くん。この前、一緒に仕事をした人です」
奈直が、借りた猫のようにしおらしくお辞儀をした。
「小柄で美青年……! もしかして、この間の電話の子?」
「ええ。口が悪くて下世話で落語が上手い、腹筋が割れた天才的な介護士様です」
「ギャップが最高!」
親子のやり取りを聞いた奈直が、無言で引いていた。
「母ちゃん、台所借りますね。母ちゃんは気にしないで仕事してて下さい」
「ええ、じゃあ、お言葉に甘えて」
といいつつ、母親は台車の荷物を台所に運ぶのを手伝ってくれた。
「お米くらい、うちにもあるのに」
「そんなに甘えられないですよ。10号くらい炊く予定です」
米、玉ねぎ、トマト、ヨーグルト、鶏もも肉、カレーパウダー、キャベツ、その他諸々。母親が貸してくれた、父親のエプロンを着けて調理開始。
米を研ぐのを奈直に任せ、多希は大玉キャベツ一玉をスライサーで千切りにし、塩を揉み込む。大きなネットに入った玉ねぎは、全てみじん切りし、寸胴鍋に入れた。鶏もも肉は食べやすい大きさにカットし、ヨーグルトとカレーパウダーに漬け込む。
「お米、研ぎました」
「6号と4号に分けて下さい」
「承知」
軽量カップで米を分ける奈直が、調理実習をする学生に見えて、微笑ましかった。
「他に、やることある?」
「米が水を吸うまで待っていて下さい」
「じゃあ、
「テーブル、好きに使って下さい」
奈直は紙袋から箱を出し、開けた。咲珠銘菓の五家宝が奈直の好物だと多希が知ったのは、つい先程である。スーパーで足を止めて動かなくなったので理由を訊き、判明した。個包装タイプを買ってあげようとしたが、奈直は個包装になっていないタイプを選んだ。
多希は寸胴鍋で玉ねぎを炒め始め、奈直にお茶を出すのを忘れたことを思い出した。
「奈直くん、お茶は」
振り返ってテーブルに着く奈直を見ると、彼は、口の周りをきな粉だらけにして満面の笑みを浮かべていた。リュックサックからペットボトルのお茶を出している。
「五家宝は、どんなお味ですか?」
「風が語りかける味です」
「ネタがわかりませんが、多分違うお菓子のキャッチフレーズですよね」
「食べます?」
奈直が近くまで来て、五家宝を1本差し出す。
「良いんですか? 頂きます」
多希は空腹を思い出した。軽く胃に入れたい。手をきな粉まみれにしたくなったので、顔を近づけ、五家宝を口にくわえた。
「おおお、お兄ちゃん……!」
奈直が慌てる。何を慌てているんだろう。
カメラの連写の音が聞こえた。
「多希ちゃん……! やっちゃんと奈直くん、どっちを選ぶの⁉」
母ちゃんは原稿をやりなさい、と突っ込みを入れようとしたが、五家宝の飴のような生地が口にまとわりついて何も言えなかった。
タンドリーチキン風カレーとコールスローサラダは、父親の町工場の従業員に好評だった。炊飯器と鍋で合計10号炊いた米飯は、男ばかりの従業員と奈直で完食しかねない勢いで減った。母親の分は、100g残ったかどうかだ。
「まさか多希が炊き出ししてくれるとは」
父親は感激のあまり、涙をこぼしていた。
「結界維持装置の改良で、親父も工場の人も大変だと思ったので。俺のせいでもあるし」
「いやいや。いつか直面する問題だったんだよ。多希が悪いわけじゃない」
結界維持装置の開発に携わった父親は、今度は改良に追われていた。食事で激励するのは口実で、本当は確かめたいことがあった。だが、言えなかった。口外したら、結界維持装置の改良では済まない自体になりそうだから。
「結局、言わなかったんですね」
帰り道、五家宝の紙袋を抱え、ぼそっと奈直が言った。
「言えないです」
「ですよね」
奈直とは、駅で別れる。もう会うことはないと実感した。
月が変わり、多希の周囲は大きく変わることになる。
「浦野ちゃんが辞めちゃうって!」
介護士の浦野が退職する話は、ナースステーションで拡散された。遠方に住む両親が倒れ、地元で働きながら面倒を見なくてはならないらしい。春に入職した新人介護士は、仕事が大変だと言って先月末に辞めたばかりだ。
「でも、今日から新しい介護士が3人入るんでしょう? そのうちのふたりはベテランらしいじゃない」
看護師の噂話を聞き流しながら電子カルテの確認をしていると、多希は太い声に呼ばれた。
「よお、多希!」
「え……? え!」
幻でも見ているのかと思った。ナースステーションに入ってきたのは、介護士のスクラブを着た四万津だったのだ。
「四万津さん!」
「あのじさまに嵌められて、散々な目に遭ったよ。なんか、多希の知り合いの政治家が口添えしてくれて裁判のやり直しが撤回されたらしい。多希、すまない」
「いや、俺は何も」
知り合いの政治家。心当たりがふたりいるが、どっちだ。
「あと、介護士の業務をしない間は、結界が見えなかったわ。紛らわしいことを言っちまって、ごめん」
「それは全然気にしていないです。でも、本当に良かった」
また四万津が介護士になってくれて、良かった。四万津に学ぶ介護士が増えることを願うばかりだ。
「あの……多希さん?」
「あーちゃん!」
「いらせ村」にいるはずの畠野あぐりも、介護士のスクラブを着てここにいる。
「前職は辞めちゃいました。祖父母の施設へお金を振り込めるのなら、私はどこでも働けます」
あぐりは、明るい表情をしていた。
「多希くん!」
「史人くん?」
私服の史人が、ナースステーションを覗き込んでいた。
「通院、今日で終了!」
「おお、おめでとう!」
蒼右森で火傷を負って入院していた史人は、退院後にこの病院に通院していた。
史人を見送り、ナースステーションに戻ると、介護士がもうひとり増えていた。
「奈直くん」
「この子も多希くんの知り合い?」
新しい介護士3人が3人とも多希の知り合いで、看護師達が驚いている。
「佐々木奈直です。よろしくお願いします。こちら、良かったら皆さんで」
奈直が差し出したのは、個包装タイプの五家宝だった。
「奈直くん、どうして」
「決まっているじゃないですか」
奈直は多希に歩み寄り、耳打ちした。
「死ぬときは一緒ですよ、お兄ちゃん」
奈直は指導係の介護士に呼ばれ、ナースステーションを出ていった。介護士の後ろ姿を見て、多希は自分の意識の変化に気づいた。自分も、あんな風に格好良くなりたい、と。
夜は明けた。今日も生きている。
介護士は今日も戦う 紺藤 香純 @21109123
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