第25話

 カードキーで解錠して部屋に入ると、すでにベッドサイドの明かりが点いていた。多希はスーツを脱いでベッドに放り投げ、ネクタイを解いてワイシャツのボタンをひとつ開けた。

 頭の中で何度も再生されるのは、先程あの男から言われた「お誕生日おめでとう」の言葉。言われたくなかった。聞きたくなかった。心穏やかでいたいから両親からのメールも無視していたのに。今日一日聞かなければ、不穏にならずに済んだのに。

 もう、いいや。何もかも。

 多希は、革紐のブレスレットを外し、大ぶりなビーズに指の力を込めた。ぱきっと小気味良い音を立て、ビーズが割れる。中に入っていたのは、錠剤だ。錠剤を指でつまみ、口に運ぼうとした刹那、その手を叩かれた。錠剤がカーペットに落ちる。しゃがみ込んで拾おうとすると、先に拾われた。手を伸ばし、相手に気づくと、多希は一瞬固まってしまった。

「奈直くん……?」

 また見られてしまった。こんな、無様な姿を。見られてしまった。自分が持ち歩いていたものを。

 もう、いいや。何もかも。

 ネクタイを外してしまったのがいけなかった。代わりに、自分の手で首を絞める。

「やめろ!」

 どこにそんな力があるのか、奈直は多希の手首を締め上げ、カーペットに押し倒した。多希はためらわず、舌を出して歯列に力を込める。はずだった。

 鼻から抜けるような声と鼻息が顔をくすぐり、柔らかくぬめっとした感触が唇と歯に当たる。舌を引っ込めようとすると、舌下をまさぐるように追い打ちされる。それが深い口づけだと気づき、相手を引き剥がそうと試みるも、怪力で手首を抑えつけられているので身動きが取れない。舌どころか舌根まで絡めようとする口づけに、長らく感じていなかった感覚が蘇る。学生時代、一度だけ人数合わせで参加した合同コンパの後、参加者のひとりの女子に求められ、ホテルで一夜を明かした。その女子とはそれきりだったが、人間的に欠落した自分にも人並みの欲があり、抱くことができると気づいて安堵した。そんなことを思い出した。

 されるがまま口づけを強いられているうちに、相手が鼻をすすっていた。唾液で湿った唇が離れ、嗚咽と涙が降ってくる。

「……だいじょぶ、です」

 逆光で、相手の顔が見えない。

「俺がいます。だから、大丈夫です。だから……」

 相手は手首を締め上げるのをやめ、カーペットにへたりと腰を下ろした。袖を引っ張って自分の目元を拭い、口元を押さえる。嗚咽が止まらない。

 多希は体を起こし、相手を抱きしめて背中をさすった。

「奈直くん……ごめんなさい、こんなことをさせて。もう大丈夫です」

 首を絞めようとした手を離させ、舌を噛み切ろうとした歯を緩衝させ、言葉でもなだめる。今日30歳の誕生日を迎えた自分は、20歳の子に気を遣わせて何をさせているんだ。冷静になった多希は、自分が恥ずかしくなった。

「お兄ちゃん」

 奈直が、そろそろと腕をまわす。

「もう少しだけ、こうさせて」

 奈直は多希に体を寄せて呼吸を整えようと深呼吸を繰り返す。多希は患者を落ち着かせている気分になり、すっかり冷静さを取り戻した。

「多希くん! 大丈夫? ……大丈夫⁉」

 鍵をかけ忘れた。タイミング悪く、史人が駆け込んできた。すぐに回れ右をする。

「お邪魔しました」

「誤解です! 奈直くんも、そろそろ平気でしょう」

「まだ」

 奈直は多希の衣類に顔をうずめ、もぞもぞと首を横に振る。明らかに甘えた声色に、多希は眉をひそめた。

「甘ったれるんじゃない!」

「多希さん、大丈夫ですか!」

 しまった。愛美まで来てしまった。愛美は、熱い抱擁をする多希と奈直を目の当たりにして、ぐっと親指を立てた。

「ビジュ的には全然構いません。もっとやれって感じです。というのは2割くらい冗談です。姉から多希さんに電話が来ています。出てあげて下さい」

 愛美からスマートフォンを渡され、多希は渋々電話に出る。愛美の姉、亜依子は、多希の小学校時代の知り合いだ。

『あ、多希! あんた、変な気を起こしてないでしょうね!』

 図星。もうとっくに変な気を起こしました。

「亜依子、うるさいです」

『何よ、心配してあげてるのに』

「あげている、というのは、相手を支配する言葉です。俺は亜依子に支配されて喜ぶ趣味はありません」

『あたしだってそんな趣味ないわ!』

「でも、ありがとう。愛美さんに教えてくれて」

『当然よ。あたしはあんたがいなくても困らないけど、愛美が困るもの。それに、同窓生に恥をかかせないでよね』

「ありがとうございます。本当に、大丈夫です。亜依子も、離婚調停頑張って勝って下さい」

『当然よ。じゃあね、荻野多希』

「おい、その名前!」

 多希30年の人生の汚点を通話の最後に言葉にして、亜依子は電話を切った。

「荻野」

 史人が呟いた。スピーカーモードにしていたのを忘れていた。

「荻野」

 多希の胸の中で奈直が、ぽつりと呟いた。

 聞かれてしまった。聞かれたくなかった人達に。

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