第13話

「愛美さんからメールです。スーツ代、ひとり1着なら経費で落とせます。領収書をもらって下さい。ですが、金額に上限が……」

 電車を下りてすぐ、スマートフォンのマナーモードを解除しようとしたときに、愛美からメールが来た。スーツの購入に間に合って良かった。

 ショッピングモールで店員に相談して、スーツと靴を選んでもらった。多希と奈直は兄弟と勘違いされ、兄が弟の大学の入学式に出席するのだと思われた。スーツひとり1着だけ領収書、予備にもう1着ずつレシート、という支払い方をすると、店員に怪訝な顔をされた。

「付き合って下さって、ありがとうございました」

 ショッピングモールのベンチに座り、奈直は深々と多希に頭を下げた。

「俺もスーツを買い直したかったんです。お互い、買えて良かったですね」

 多希は、電車に乗る前に渡しそびれていた、コンビニで買ったお茶を奈直に渡した。

「でも、ちょっと意外でした。余計なことかもしれませんが、奈直さん、面接のときはスーツじゃなかったんですね?」

「最初はボランティアだったけど、そのまま採用になりました。あ、初めて就職したデイのことです。その後は派遣に登録したので面接とか無くて、今のグループホームは派遣雇用から直接雇用に切り替わりました。訪問介護は、派遣のままです」

 奈直は中卒だと、柘植つげ弁護士が言っていた。他の人が踏むであろう段階を踏まずに労働者の生活を送っているのかもしれない。

「働き過ぎじゃないですか?」

「そんなこと、無いです」

 否定する奈直は、白くて細い指で目をこする。

「少し、ここで休みましょう。俺も、少し眠いです」

「うん……すみません」

 奈直は頭を下げ、本当に眠ってしまった。刹那、多希の頭上がかげった。何気なく顔を上げると、相手と目が合う。

「久しぶりだね、多希」

 その者は、飴玉を口の中で転がすように多希の名を口にし、バタークリームがだれるように表情をとろけさせた。

 多希は、背中に冷や汗をおぼえた。その者は、選挙ポスターやテレビで見るときと違い、前髪を下ろすと一気に印象が変わる。スプリングコートに薄手のニット、オリーブ色のジーンズという服装も相まって、その者が話題の政治家だとは誰も気づかないだろう。実際、多希も近づかれるまで気づかなかった。容姿が似ていると言われるその男のことを、自分が見落とすはずがないと過信していた。

「な……んで、ここに……?」

「会うのは何年ぶりかな。もう4月だから、そろそろ30歳か。大人になっても、可愛いままだな」

 相手は、多希の膝の間に自分の膝をすべり込ませ、ベンチの背もたれに手をついた。

「僕のことは? 何て呼ぶんだっけ?」

 至近距離で見下みおろされ、服に手をかけられているわけではないのに、体をまさぐられていると錯覚してしまう。

「お……お兄ちゃん」

「うん、そうだね。よくできました」

 視姦。そんな言葉が頭をよぎった。

「聞いたよ。佐々木大臣の訪問に同行するんだってね。可愛い多希が、要人から信頼されるほど仕事ができる子で、僕も嬉しいよ」

 流暢に言葉を垂れ流す相手に対して、多希は思うように呼吸ができない。冷たく汗をかく手に、くうくう眠る奈直が手を重ねた。頼む、起きないでくれ。こんな醜態を見られたくない。

「ねえ、多希」

 その男は奈直を一瞥し、奈直の手を退けて自分の手を重ねた。丁寧に指を絡め、視界に入るように顔の前まで上げる。

「ずっと、こうしていたい」

 ゆっくりと、指を絡めた手を押しつけられる。具体的には、自分の手の甲を。そのうち、位置を直すように、指先を。相手の指先が自分の唇に触れてしまったとき、自分の指先も相手の唇に触れていた。

「また僕のところに来てよ。僕だけの、可愛い多希」

 吐息が指先に触れ、指間も歯間もくぐり抜けて口腔に侵入する。

「我慢できずに僕から迎えに行ってしまいそうだよ」

 こてん、と多希の肩に奈直の頭が当たる。もやがかかったように真っ白になっていた頭の中が、わずかに思考を取り戻す。

「……嫌です」

 至近距離なのに、目を合わせることができなかった。それでも、声を絞り出して意思表示する。

 相手の男は目をしばたき、目を伏せた。何を考えているのか、多希には想像がつかない。もしも報復されたら、多希はあらがすべが無い。

「あー! 奈直くーん! 寝てるー?」

 呑気な声が遠くから聞こえた。ダッシュの振動が近づいてくる。それを聞いた男は、名残惜しそうに多希から離れた。男がきびすを返したとき、スニーカーとネットバッグが見えた。ネットバッグの隙間から、焼きそばの生麺のパッケージが見えた。幼少期に、一度だけ多希が「美味しい」と言った商品だった。

「多希さん! 多希さん、大丈夫ですか? しっかりして下さい!」

「……史人あやとさん?」

「そうです、史人です」

 厚生労働大臣、佐々木橘子氏の訪問の警護をする予定のSP、近衛史人だった。宝石店の小さな紙袋を持っている。

 多希は深く息を吐き、ショッピングモールの高い天井を見上げた。

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