第二話 聖女は地下世界の海を眺める
足下の砂をさくさくと音を立てて踏み締める。
地下だというのに、風に揺れる水際に立って、その水を掌ですくってみた。
「まあ……ちゃんと水、だよね」
特に濁ったり、異臭がしているわけでもない。触れてみても何の変哲もない、少しばかり冷たさを感じる程度の水温の、どこでも見かける水だ。
(迷宮の影響を考えるなら、飲み水に使ったりはしない方がいいんだろうけど)
それでも、普通に触れる程度は問題なさそうだ。
私はそろそろ地下世界の『夜』が訪れる空の下、見渡す限りの湖面を眺めてほうと息を吐いた。
「今日はここで野営を張って、明日からの道のりに備えるよ!」
渓谷の険しい道を越えて、一旦、足を止めて体を休めている団員たちに号令をかけるヴァレンシアの声に、私は振り返る。
何人かは既に野営の準備に動き始めていた。
湖の岸辺に広がる砂地の上に天幕やテントを張っている。
(コローテは……また怪我人を見ているかな?)
亜人の襲撃以降は、離脱を迫られたり癒しの力を必要とするような大きな怪我人は出ていないが、小さな傷を負ったり
私はその手伝いに向かおうと、野営地の方へ足を向けた。
するとそこへ、さくさくと砂を踏む足音が近づいてきた。
顔を上げると、ヴァレンシアだった。
「〈
「〈水妖〉の涙?」
「うん。その目から
「というか、海なの?ここ?」
私はとてつもなく広大ではあるけれど、ただの湖だと思っていたその水面を振り返る。というか、いくら常識外れの地下世界といえど、まさか、海なんて……。
「ここに到達した探索者が故郷の海の風景によく似ているから、って名付けたそうだよ。実は潮の満ち引きみたいなことも起こる」
もう、今更驚きはしないけど、私は、はあと大きく息を吐いた。
「……その故郷の海に似てるって思った探索者のせいで、潮の満ち引きが起こっちゃったんじゃないの」
私が呆れ顔でそう言うと、ヴァレンシアが青灰色の目を見開いて笑う。
「イサリカも、迷宮の中の物事の考え方に染まってきたね」
ヴァレンシアの愉快そうな顔から目を背け、私は改めて野営地へと足を向けた。
ヴァレンシアもそれ以上は引き留める様子もなく、自分の持ち場へと戻っていく。
(でも……海か)
私はふと足を止めて、暗灰色の地下世界の夜の帳が下りる中、たゆたう水面を振り返った。
(地上の海を見るより先に、地下世界の海を見ることになるとは思わなかったな)
ずっと街で暮らしていた私は、自分の数奇な運命の成り行きに思いを
〇
その夜は女性団員の寝起きする天幕で、毛布に包まり眠っていた。
砂浜に打ち寄せる水の音──波の音が気になるかと思っていたけど、案外すんなりと眠りに落ちた。
しかし、寝入ってしばらくして、何故かぱちりと目が開いた。
まぶたを擦りながら毛布の上に体を起こすと、天幕の外に目を向ける。
(誰か……呼んでる?)
水音の向こうで、何者かが私を呼んでいる──そんな声が聞こえる。
(……また、入り口の洞窟で聞こえた声、みたいな現象なんだろうか)
そうは思いつつ、その正体が気にかかった。
周りの団員を見渡すと、全員がぐっすりと寝入っている様子で、見張り当番の者も近くにいない。
(何かの聞き間違い、かもしれないし、途中で誰かに会った時に話せばいいか)
私はのっそりと起き上がり、毛布を肩に羽織って天幕を出た。
カンテラに火を灯すと、ざざーっと音を立てて岸に打ち寄せる波が白く輝いて見えた。声は水辺から聞こえる──気がする。
そのまま、乾いた砂を踏み締めて波の音のする方向へ歩いていくと──
「……っ!?」
不意に、誰かにきつく肩をつかまれて引き戻された。
「あっ……」
驚いて振り返ると、磨き抜かれた鏡のような銀色の仮面に自分の顔が映っているのが見えた。
「ミラ、さん」
「…………」
旅団の副団長──ヴァレンシアのお目付け役の剣士だ。
その剣士が私の顔を間近に覗き込んでいた。
仮面の中央の十字の切れ込みの奥に、端整な顔立ちが見えるほどの距離だ。
「あの、湖の方から、誰かが呼んでる声が聞こえて、正体を確かめようと……」
どうにかつっかえつっかえ報告すると、ミラは私の肩をつかんだまま、白波の立つ水面の向こうを振り向いた。
しばらく耳を澄ませるように、二人で沈黙を保ったまま真っ黒な水面を見詰めた。
「……何も聞こえない」
やがて、波の音にまぎれてささやくように、ミラの被る仮面の奥からくぐもった声が聞こえた。
「……じゃあ、勘違い、だったんだと思います」
私がうつむきがちに声を発すると、そのようだ、と言わんばかりにうなずいたミラが私の肩から手を離した。
夜目にも黒い漆黒の外套を揺らしてミラはきびすを返した。
そのまま野営地を大股に横切っていく。
数歩進んだ先でミラが足を止めた。
「今夜はもう遅い。明日も道のりは険しい」
そして、銀色の仮面が肩越しにこちらを振り向いた。
「見張りの分担でないなら、早く寝ろ」
それだけぼそぼそとくぐもった声で言い残し、ミラは歩き去っていく。
かがり火の焚かれた向こうの暗がりに消えていくその背中を見送った後、私は最後に一度、地下世界の海をかえりみた後で、再び女性団員の眠る天幕へと戻り、毛布の上に横たわった。
そのまま寝入ってしまうと、もうその後、辺りが明るくなるまで目を覚ますことはなかった。
〇
てっきり、私はそのまま湖の周りをを歩いていくのだと思っていた。
そうでないのは、しばらく岸辺を歩いた後、潮が引いてきて、島に続く浅瀬が姿を現し始めた時だった。
「水に浸けられない物資や装備は舟に乗せといて。浅瀬を通っていく限りは溺れる心配はないけど、少しでも外れたら予想しない深みがあるから、油断はしないこと」
先頭に立ったヴァレンシアがそんな号令をかけるのに、かなり驚いた。
「ほれ、聖女。救護班の荷物はほとんど水に浸けるわけにいかん。さっさと舟に積み込むぞ」
コローテまでがそんな事を言うので振り返る。
ジオたちが組み立て始めた小さな舟にコローテがさっそく薬草の束を油紙で包んで乗せていた。
──いや、まあ、ここまできて冗談でしたなんて言うわけもないのだけど。
私は小島まで続く浅瀬に隊列を作って渡り歩く旅団の中ほどで、おそるおそる、湿った砂の上を踏み締めていた。
(歩けるものなの……?歩けるものかな?歩けるものなんだ……)
そうは思いつつかなりおっかなびっくり、転んで背負った荷物を水に浸けたりしないように、一歩ずつ進んでいく。
「はっはは、修道女殿は水は苦手かの?」
水に弱い荷物を乗せた舟を引いているジオが、私を横目に追い越していく。
「そういうわけじゃあ、ないんですけど」
「湖の周囲に沿って歩いているとかなり時間を食ってしまうからの。こういう浅瀬が出ている間に幾つか小島を渡り歩いていく方がずっと早い」
「そうは言っても、落ち着きません……」
私が思わず弱音を吐くと「大丈夫、大丈夫」とジオが微笑んだ。
「いざとなったら、マツリハたち魔法班の連中が、水を凍らせてくれる」
「こら!ジオ!安請け合いをするでないわ!」
──そんな風にして和やかに、〈黒き塔の旅団〉は〈ソルディム〉地下の異空間迷宮を進んでいた。
亜人の襲撃以降は大きな障害もなく、ここまで来れた。
初めて足を踏み入れた私には分からないことだが、団員たちのくつろいだ表情を見ると、これまでの道のりが順調なことはうかがえた。
(全て、思い通りというわけにはいかなかったろうけど、でも……)
──このまま、大きな怪我人もなく進んでいけば、私の正体がバレずに『奥』まで行ける。
『奥』まで行って、そうしたら──
私は先頭を行くヴァレンシアの背中を盗み見る。
少しは、ヴァレンシアの情報も聞き出せるだろうか。
ヴァレンシアの情報を聞き出して、神父様の死の真相に少しでも近づいて──
そこまで考えた所で私はかぶりを振った。
(先走り過ぎだ……。これから先、乗り越えていかなきゃいけない障害はまだまだ沢山あるはずだ)
私はひとまずそう考えて、目の前の小島に向けて浅瀬を一歩ずつ踏み締めた。
そう──
思いもかけない
そうして、音もなく自分たちの足元に忍び寄って口を開くものだから。
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