第五話 聖女は救護班の再編に立ち合う

 真っ黒な沼の水面から、私の投げ飛ばした〈小鬼ゴブリン〉の折れ曲がった手が突き出して、しばらく苦しげに宙をかいていた。


 だが、すぐにその動きも弱々しいものになり、完全に動かなくなる。

 とぷん、と小さな水音を立てて、〈小鬼〉の体は真っ暗な沼の水面に消えた。


 私はその様子を呆然と見詰めていたが、ぐっと左手の下にあった泥をつかんだ。


 (こうするしか……こうしなきゃ、私も、フローテも……)


 よろめきながら立ち上がろうとすると、斜面の上に人影が見えた。


 「イサリカっ!フローテ!」


 必死にこちらを呼ぶ声が聞こえた──と思う間もなく、リュッカが斜面を一息に飛び越えて着地した。


 「怪我はっ!〈小鬼〉は……!?」


 急き込んでこちらに尋ねるリュッカに、私は左手を背中に隠しながら、うつむく。


 「私は、大丈夫……。〈小鬼〉は転がり落ちた時には……多分、怪我をしていて、私一人で、フローテを助けようとして無我夢中になって突き飛ばしたら、そのまま沼の中に落ちて……」


 どうにか、不自然でないように説明すると、リュッカは怪しんだ様子もなく、大きく息を吐いて、額の汗をぬぐっていた。


 私は、そっと足元に落ちていた手袋を拾い上げ、フローテのそばに駆け寄った。

 彼女は、気を失ってはいるが、呼吸は規則正しい。頭を強く打ったり、命に係わるような大きな怪我をしていないかだけ確かめて、その心配はないようだと息を吐く。


 「みんな、無事!?」


 すると、斜面の上からヴァレンシアが滑り降りてきた。


 「イサリカ!フローテは……!?」


 フローテの様子を確かめる私に素早く尋ねるのに、私も慌てて答える。


 「気を失ってるけど、命に別状はない。でも、無理に動かしたり、この先、探索を続けられるかは……。本隊の方に担架があるなら、今すぐフローテを運んで手当をしなきゃいけない」

 「分かった。すぐに人を呼ぶよ。……リュッカ」


 ヴァレンシアがうなずき、すぐにリュッカを振り返る。

 だが、次の瞬間、リュッカが首をかしげた。


 「大きな怪我をしているんなら、イサリカに治してもらった方がいいんじゃ……」


 その言葉に、私の鼓動がどくりと大きく脈を打った。

 まさか、こんな早い段階でこういう場面が訪れるとは思わなくて、私は息を呑む。


 「リュッカ、それは……」


 私が言い淀むのに、ヴァレンシアがいぶかしそうに私を見た。

 何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。

 このままでは疑われてしまうのに──


 ──「その必要はない」


 すると、しわがれた声が頭の上から降ってきて、全員でそちらを振り向くと、コローテが慎重に斜面を下りてきていた。


 「フローテは街に返す。元々、ワシの手伝いとして連れてきたんじゃ。これまでは極力戦闘から遠ざけてきたが、今回のようなことがあってはっきりした」


 コローテはしわだらけの顔の奥の落ちくぼんだ目で、フローテを見た。


 「この娘を迷宮探索に連れていくのは無理だ。いざ戦闘となれば、常に誰かに守ってもらえる状況とは限らん」


 気を失っているフローテの額にそっと触れて、コローテはまぶたを閉じた。


 「本隊の方でも怪我人が出ただろう。彼らと一緒に、街へ送り、きちんと落ち着いた環境で医者に診せた方がいいだろう」

 「分かった。……コローテはそれでいいのね?」


 ヴァレンシアが念を押すように尋ねると、コローテは深々とうなずいた。


 「心配せずとも救護班の手は足りとる。新しい助手もおるようじゃからな」


 そう言って、コローテは私の顔を見上げた。


 〇


 翌日、日が昇る──というより、辺りが明るくなってきて、薄桃色のあの不思議な色の空が広がる頃、負傷した数人の団員と共にフローテが本隊を去った。


 「力になれなくて、ごめんなさい」


 私は、松葉杖を突いて野営地を離れていくフローテに付き添い、詫びた。


 「イサリカが謝ることじゃないですよお。それに、わたしはむしろ、こうなってほっとしている所がないではないですし……」


 「迷宮探索は、わたしには荷が重かったんですよお」と、フローテがほろ苦さを押し隠して、私に告げた。


 「コローテは」


 私は背中を向けて立ち去ろうとするフローテに思わず声を掛けた。


 「コローテはずっと、あなたのこと心配だったんだと思う。戦いからなるべく遠ざけようとしたけど……それでも、自分だけでは限界があると分かったから……」


 私が言いつのるのを、フローテはじっと見ていたが、やがて小さくうなずいた。


 「おじいちゃんを頼みますう。気難しい人ですけど、腕は確かですからあ」

 「うん、分かってる。……コローテのこと、心配しないで」

 「わたしとしてはあ、イサリカとうまくやってくれるかどうかの心配しかしてないですけどもお」


 それは違いない、と私が苦笑すると、フローテは私を見て静かに微笑んだ。


 「イサリカ……。おじいちゃんもそうですけど、イサリカも、無事に帰ってきてくださいね」

 「……うん」


 私がうなずくと、フローテは負傷した団員と共に、迷宮の外へつながる洞窟へと向き直り、松葉杖を突いて歩いていった。


 暗闇に包まれる洞窟の手前で私を振り返り微笑むフローテに私は手を振り返す。

 そして、フローテは洞窟の暗闇の中へと消えていった。


 街へ帰還する団員たちの姿を見届けた後、私は背後を振り返る。

 そこにヴァレンシアとミラの二人もついてきていた。


 「……本当に、帰らせて良かったの?」


 脱落した団員の分は、本隊の人員も手薄になったわけで、その判断は苦渋くじゅうのものだったに違いない。


 私の──聖女の癒しの力に頼る判断になる可能性も、十分あったはずだ。


 「救護班の、コローテの判断だからね。むしろ、迷宮の奥で身動き取れなくなる方が危険だもの。私も、地上に怪我人を送って治療を受けさせる方がずっと安全だっていう意見には賛成」


 ヴァレンシアが苦笑する。

 私にとっては都合のいい展開ではあった、だが──


 (でも、だけど……。私だって……。私だって、本当は……)


 私は唇を噛み締め、自然ときつく左手で拳を握り締めていた。


 フローテのほろ苦い笑みがまぶたの裏に焼き付いている。彼女が再び迷宮に潜るようになるかどうか分からない。

 ──きっと、彼女が探索者として潜る可能性は、もうない。


 (……救いたい。救いたかった。救いたかったんだ……)


 怪我人は、傷ついた人は、苦しんでいる人は、全て私が助けられる。


 そう、胸を張って言えれば、どんなに良かっただろう。


 「……イサリカ」


 背後からそっと肩に手を置かれて振り返る。

 ヴァレンシアが気遣わしげに私の顔をのぞき込んでいた。


 「いつまでも本隊を空けるわけにいかない。戻ろう」


 そう告げるヴァレンシアに、私はためらいつつ、小さくうなずいた。


 **


 地の底でうごめく『それ』は、自らの領域に踏み込むその存在を察知した。


 その存在は、『それ』が永く待ち望んだモノであると悟る。


 ──『それ』は永く待ち望んだその存在が、一刻も早く自らの元へたどり着くことを画策する。


 ああ──待ちきれない。


 『それ』は焦がれるように身もだえる。

 だが、地の底で大きく膨らみ過ぎた自身は身動きがとれず、その矮小わいしょうな存在が自らの元へたどり着くのには長い時間がかかると悟る。


 であれば──


 自らの手足となり動く先兵どもを送り込むしかない。


 **


 〈黒き塔の旅団〉に奇襲をかけ、撃退された亜人の群れ。

 彼らは傷つき、ちりぢりになりながら敗走していた。


 地下世界の夜が明けて、暗い森に身を潜めつつ逃走する彼らは、元は地上の洞窟から地下世界へ迷い込んだ亜人が寄り集まった群れであった。


 迷い込んだ地下世界は、彼らにとっても人間の闊歩かっぽする地上より住みよい環境ではあったのだが、こうなってはその限りでない。


 住み慣れた地上へ戻り、再び小さなそれぞれの群れに戻るつもりだった。


 その為には、この地下世界を脱け出さねばならない。

 彼らは、自分たちが迷い込んできた抜け道を探し、森の中をさまよっていた。


 その時──


 彼らの目の前に、突然、異形の存在が現れた。


 迷宮の地面から、岩壁から突然ぱっくりと裂け目が口を開いた。

 そこからぬるりと粘液をまとった巨大な影がいくつも亜人の群れの前に現れる。


 亜人たちは、自分たちの理解を超えたその異形の存在に向けて威嚇する。


 だが、その異形は亜人の存在を意に介した様子もなかった。

 ただ、強靭な足や四肢で地面をつかみ、立ち上がる。


 そのまま何かを求めるように前進を始める巨大な異形たちを、群れの先頭に立っていた〈野猪鬼オーク〉が咆哮ほうこうを上げ、石斧を手に打ちかかった。


 自らに襲いかかってきた〈野猪鬼〉を、異形は一振りに腕を振るって払い除けた。


 次の瞬間〈野猪鬼〉の頭がどす黒い血の塊となって、その巨体が地に伏せる。


 亜人の群れが悲鳴を上げて逃げ惑う。


 地の底から現れた異形たちは容赦なく逃げ惑う亜人の群れを払い除け、踏みにじり、蹂躙じゅうりんし、ただ一つの目標を目指し突き進んでいく。


 異形たちの通り過ぎた後──


 ──そこには、原形もとどめぬほどに踏みにじられた亜人たちの骸だけが残った。

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